現実と記憶の狭間の中で

崎田恭子

第1話

俺は今、何故か船の客室のベッドに佇んでいる。

あれ…記憶が無い…でも、しっかりと日本語だけは覚えてる…

ベッドの上で考えていると部屋のノック音が聞こえてきた。

ドアを開けると一人の女が立っていて俺の手首を強く掴み歩みを進めていった。

その女はつばの広い白い帽子を被り少しくすんだワインレッドカラーのワンピースで身を包んでいた。顔立ちも綺麗なのだが無表情で無機質な人形のような女だ。肌が白くアップにしてあるヘアから覗く生え際がとても綺麗だ。非の打ち所の無い完璧な美女なのだ。

この人は一体、誰だ…全く記憶が蘇らない…

「あの…貴女と俺ってどういう関係なんですか…」

「どういう関係も何も貴方とは初対面よ」

「そうなんですか…?!俺の事を知っている人に会いたいんだけど…」

「此処にはいない」

「どうして俺は此処にいるんだ…意味わかんねぇ…ていうか俺って何者なんですか…」

「全ては後から解明される。私は依頼者から貴方の事を一任されただけ。私も貴方の詳細は聞かされていない。写真を渡されただけ」

「それでこれから何処に向かうんですか…」

「ある所とでも言っておきましょうか」

「ある所…」

俺は一体、何者で何処に連れていかれるんだ…さっぱり、解らない…


船が停泊するとロビーの外へと出て階段を下っていった。久々の外気に潮風が頬を打つ。天気はどんよりとした曇り空で雨脚が近付いている陽気だ。

港へ足を踏み入れるとこの女は大きめのハンドバッグからシガレットケースを取り出しメンソールのような細い煙草をくわえた。ライターのカチッという火を点す音が聞こえたかと思うと大きく煙を吸い込み口から吹き出した。恐らく船内は禁煙で久々の喫煙だったのだろう。

「貴方も吸う?」

「いや、俺は吸わない…と思うんで…」

確かに煙草の微かな匂いを感じても吸いたいとは思わなかった。

「そろそろ行くわよ」

女は踵を返し港を背に向けタクシー乗り場に向っていった。

「あの…本当に何処に行くんですか…?」

「会えば解る…そうね…貴方は記憶喪失みたいだから会っても解らないかも…」

「誰の事ですか…」

「会えば思い出すのかしら…貴方の恋人…」

「俺の恋人って…俺ってそんな人がいたんだ…」

タクシーは港を少し離れたロータリーに数台停まっていた。そのまま進んでいくと俺達はタクシーに乗り込んだ。

数分進み下車をすると細い道を歩いていく。暫く歩いていくと草木が鬱蒼と生い茂った所に白い建造物が見えてきた。建造物の看板を見ると○○医院と記されていた。女はその建造物に入っていくが俺は意味が解らず問い質した。

「何で病院に入っていくんですか…?」

「来れば状況だけでも解るわよ」

女は待合室を素通りし診察室に入っていった。中に入ると白髪に白い髭を蓄えた医師らしき人物と横には能面のように無表情な看護師が立っている。

「君はどこまで覚えている?」

医師らしき人物は俺に問うが全くと言って良いほど俺の脳内から記憶を司る海馬の部分が切り取られたかのように恋人という人物も思い出せない。

「全く覚えてません」

「そうか…だったら彼に会わせるしかないな…」

「そうね。2階に行くわよ」

「彼って…恋人って男性なんですか…?」

「そうだけど」

女は俺を階段へと促し2階へと上がっていった。コツコツという病院の階段を歩く独特な音が鳴り響く。2階に辿り着くと少し歩いた所の壁伝いのドアを女は開く。

そこには酸素マスクをし瞼を閉じた男がベッドに寝かされていた。ブランケットを掛けられ顔しか見えないがどこにでもいそうな凡庸な風貌の男だ。

「この人が貴方の恋人。見覚えない?それじゃ、私はここまでだから」

女はそう告げると病室を後にした。

この人が俺の恋人…?思い出そうとすると頭痛がする…

 

「亮平か?」

「えっ…」

俺が便所に行って病室に戻るとさっきまで瞼を閉じ眠っていた男は上体を起こし目を見開いて呟いていた。

亮平…俺の名前…

「あの…俺の名前って亮平って言うんですか…」

「お前…まさか…記憶喪失…?」

「みたいです…貴方は俺の…恋人なんですか…?」

あの女の言葉がにわかに信じ難く男に問う。

「そうだ、お前の恋人だ。お前の名は笠井亮平。俺の名は武藤健吾」

「そうなんですか…全く、思い出せない…どうしよう…それで俺をここまで連れてきた女性は一体…」

「あぁ、あの女は俺の友人が依頼した女だ」

「詳しく説明をしてもらえませんか?俺、本当に全く記憶が無いんです」

「そうか…だったらこうすれば思い出すか?」

武藤という男はいきなり腕を伸ばし俺の後頭部を掴み唇を押し付けるように重ねてきた。

「んっ…?!んっっっ…!止めろ!いきなり何をするんだよ?!」

「お前は俺の恋人だと言ったはずだが」

俺は不快感から武藤の肩を掴み突放そうとするが俺より筋力があるらしく身体が離れない。それどころか一度、離した唇を再び俺のそれに押し付け舌をねじ込まれた。俺は再度突放そうと必死に藻掻くが更に俺を引き寄せベッドの上に押さえ付けられた。正気の沙汰ではないと思い切り叫んで助けを求めたいが武藤は唇を離そうとしない。武藤は更に俺の下半身に手を伸ばし太ももや尻を触り始め限界に達した俺は全力で突き放した。

「思い出せないか…」

「ていうか、いきなり何をするんだよっ」

俺は床に転がり落ちた武藤に問われたが不快感が脳裏に渦巻きそれどころではなかった。

「気持ち悪いか…?」

「当たり前でしょっ」

「そうか…駄目か…お前は恋人の俺を完全に忘れてしまったみたいだな」

武藤は瞬きもせず俺を直視している。どうやら真実らしい…本当に俺は恋人の存在も忘れてしまったらしい…俺は思い出そうとするが再び頭痛が訪れ割れそうな頭を両手で押さえその場で中腰になった。

「おいっ、大丈夫か?!頭が痛いのか?!看護師を呼ぶから待ってろっ」

「大丈夫です…直ぐに治まります」

俺は暫くこのままの姿勢で痛みが落ち着くのを待った。


「大丈夫か…」

「はい…あの…俺の事を詳しく教えてもらえませんか…でないと家にも帰れません…」

「家か…お前は俺と暮らしているんだが」

「えっ…」

「済まない…お前を巻き込むつもりはなかった…俺のせいで…」

俺はこの男が何を言っているのか不明だったが取り敢えず自分の所在を知りたくて話しを聞く事にした。

武藤の話しによると俺は天涯孤独で児童施設で暮らしていたのだが中卒で宿舎のある工場に就職をしてそこで俺達は知り合ったらしい。そして俺は宿舎を出て彼と共に暮らしていたが彼の夢であるロサンゼルスへ二人で向かう途中、飛行機が墜落をした。奇跡的に助かった彼は意識不明のまま渡航先の現地から日本に輸送された。奇跡的に助かった日本人は俺達、二人だけという本当に嘘のような話しをしていた。俺自身も意識不明の重症を負ったが奇跡的に身体は無傷だったという。俺の話しが全く噛み合わない事から恐らく記憶喪失なのだろうと現地の医師が診断したのではとの話だ。そして、彼の友人がくだんの女に依頼して俺は帰国をしたらしい。

「俺は本当に…貴方の恋人なんですか…?」

「あぁ、事実だ。スマホの写真を観れば解るはずだ」

彼はそう告げるとスマホのアルバムを開き俺に差し出した。そこには二人が笑顔で写っている写真が納まっていた。

本当に俺だ…真実だったんだ…

「あの…思い出すかもしれないんで…さっきの続きをお願いできますか…」

俺は意を決して頼んでみた。もしかしたら俺という存在の全貌が明らかになるかもしれないと…

「本当に…大丈夫なのか…」

「はい…思い出すかもしれないんで…」

「解った、こっちに座れ」

彼は俺に唇を重ね口腔を丁寧に愛撫していった。その後、衣服を一枚ずつ脱がされながら彼の唇は俺の耳元へと移動していった。

「どうだ、思い出せそうか…」

「まだ、よく解りません…」

囁くように問われた後、舌を耳元に這わせてくるがくすぐったさしか感じられなかった。そして男性の一番、敏感な部分を握られると心とは裏腹に反応してしまう。暫く愛撫を施されるといつの間にか心まで彼の意のままになっていった。

もしかしたら思い出せるかもしれない…だが、俺は再び頭痛に襲われ頭を両手で押さえていた。

「お前は思い出そうとすると頭痛が起こるみたいだな。無理は良くないからここまでにしておこう。少しずつ思い出せばいい。俺は幸いどこも異常が無いみたいだ。退院をしたら俺の自宅へ戻ろう」

「はい…」

彼と暮らすなど納得がいかないが戻る家も無さそうだったから一応、彼の言う通りに「彼の自宅」で寝泊まりをさせてもらう事にした。だが、俺が一番引っ掛かっていたのはこの病院の事だった。待合室には他に患者がいる様子も無く老齢の医師と陰気な看護師以外は全く姿を見ていない。

「この病院…何か、おかしくないですか…?」

「細かい事は気にするな」

 

 

翌日、武藤は退院をして二人で武藤が暮らすアパートへと向かった。

部屋は6畳程の部屋が二間で奥の部屋にはベッドがあり手前の部屋にはローテーブルとテレビのみの簡素な住まいだ。玄関の横には狭いキッチンがありいかにも一人暮らしの部屋という感じだ。

「玄関で何を突っ立っている。部屋に入れよ」

「あっ、はい」

玄関先で部屋の中へ入る事を躊躇していると武藤が怪訝そうに俺を促す。

「お前の私物がこの辺にある。お前の所持品なんだから気兼ねしないで使え」

武藤はベッドの横のスペースを指で示し俺は武藤の指先の方向へ視線を移した。そこには書籍や衣類、画材のような物がカラーボックスに整えられていた。

「画材…?」

「そうだ。お前はイラストレーターを目指していた。今はやはり思い出せないのか?」

「全く、思い出せない…」

しかし、漸く俺自身の人物像が徐々に明らかになっていった。そこで俺はある重要な事に気付いた。

「あの…俺って何歳なんですか…?」

「自分の年齢まで忘れているのか…お前は23歳で俺は32歳だ。お前とは10歳近く離れている」

「へぇ…」

「お前、風呂には入っていたのか?」

「気付いたら船のベッドに寝かされていたという感じだったんで…風呂に入っていたのか覚えてません…」

「そうか…シャワーでも浴びるか?」

「いえ、今日は止めておきます」

「なら、俺はシャワーを浴びてくるから適当にくつろいでろ」

「はい、分かりました」

「それと落ち着かないからその、よそよそしい敬語は止めてくれ」

「いや、そう言われても貴方の事は名前と年齢しか分からないから俺が落ち着きません…」

「まぁ…無理もないな。好きにすればいい」

そう告げて武藤は浴室へと向かった。一人にされると余計、落ち着かず辺りを見渡したりスマホを弄ったりと挙動がおかしな事になっている事に気付き意識的に平常心を保とうとする。だが、更に落ち着かず逆におかしな緊張感が走る。そのような事を考えていると武藤が浴室から戻ってきた。

「落ち着かないのか?」

「まぁ…そうですね…」

「暫くは落ち着かないだろうが記憶が戻れば大丈夫だ。時間が掛かるかもしれないが」

「だといいんですけど…」

 

就寝時、俺はベッドで武藤はベッドの横で眠った。ダブルベッドという事はここで俺達は一緒に寝ていたのか…今は俺がこんな状態だから気遣って離れて寝たのかもしれない…



朝日の光線で俺は目覚めた。ベッドの横を見ると武藤は既に起床をしたらしく姿が無かった。キッチンの方から何やら音が聞こえる。朝飯でも作っているのか?

「亮平、起きたのか。朝飯を作ったんだが食うか?」

「はい、ありがとうございます」

「そんなに仰々しくするな。俺がやりにくいだろうが。まぁ、記憶が蘇れば以前のお前に戻るだろう」

「すみません…」

「謝らなきゃならないのは俺の方た。辛い想いをさせて本当に済まない」

「いえ…」

「俺はこれから出勤をする。お前の事は上司に報告しておく。俺がいない間、そこにある私物を手に取ってみろ。咄嗟に何か思い出すかもしれないぞ」

「はい、そうしてみます。いってらっしゃい」

「行ってくる」

武藤が出勤した後、俺は言われた通りに私物である画材を手にしてみた。色々な物に触れてみたが変化は無かった。まぁ、焦らないで気長にやっていこう。そのうち何か思い出すだろう。

俺の症状は解離性健忘と言われる精神疾患らしい。事故の直後だったからどうやらその辺に原因が潜んでいるのかもしれない。実際、事故に合う前の出来事や事故直後の記憶も脳内から消去されている。

 

18時半位に武藤はアパートに戻ってきた。手にはコンビニで購入したであろうレジ袋をぶら下げている。

「どうだ、何か変化はあったか?」

「全く変わりません。あの、時間があったらでいいんですが空港に連れていってもらえますか?何か思い出すかもしれません」

「分かった。日曜日に電車で成田空港に行ってみるか」

「はい、あり…あっ…」

俺は礼を言いかけたが武藤の「やりにくい」という言葉を思い出し咄嗟に言葉を濁した。

この夜も武藤はベッドの横で眠っていた。

 

 

日曜日になり俺と武藤は電車に乗り成田空港へと向かった。

空港に辿り着き飛行機が離陸する瞬間を見た俺は…得体の知れない恐怖感が襲い過呼吸を起こしその場に座り込んだ。

「おいっ、大丈夫かっ?!何か思い出したのかっ?!」

記憶が少しずつ鮮明になっていく瞬間で俺は目眩を起こした。

 

「ここは…」

「気が付いたか?お前はいきなり空港で倒れて救急車で搬送された」

辺りを見渡すと白い壁に包まれた部屋でベッドに寝かされていた。

あれ…俺は何でこんな所に…そして、横を見ると…えっ?!健吾さん…?!

「健吾さん…俺は何でこんな所に…」

「お前、漸く俺の事を思い出したのか…」

「思い出すって…何を言っているんだよ…ていうか何で俺は病院にいる…」

「そうか…空港での記憶は無いのか…」

「空港…」

その時、俺は全ての記憶が蘇った。飛行機が揺れ墜落する瞬間を…そして、思い出した…俺はパニック状態になり再び過呼吸を起こした。

「おいっ、大丈夫かっ?!」

健吾さんが俺の背を擦ってナースコールを押していた。

看護師は病室に入るとタオルで俺の口を塞いだ。数分で俺の症状は落ち着いたが看護師は俺の症状を見極めたのか精神科を受信した方が良いと健吾さんに告げていた。

「健吾さん、俺…思い出した…」

その後、俺はベッドの上で嗚咽をし健吾さんは俺を抱き締めていた。

「俺のせいで…みんなが…俺が…」

「何も喋るな。落ち着け、お前のせいではない。辛い想いをさせて済まない…」

「健吾さん…」

 

 

その翌日、俺は健吾さんに連れられて精神科に行った。

あれ…何かこの病院、見たことがある…デジャブってやつか…?

狭い道を通り木々が生い茂っている中に白い建造物が見える。門扉は錆びていて古い建造物だという事が一目で分かる。壁にはつるの木が一面に広がっている。健吾さんはその建造物に入るように俺に促すと門扉を潜り建造物の扉を開けた。扉は手動で古めかしく全体的に怪しい雰囲気が漂っている。

俺の他に患者の姿は無い為か健吾さんは俺を連れ診察室へと直行する。

医師の横には陰気な風貌の看護師が立っている。この看護師、見覚えがある…

「PTSDによるパニック障害です」

老齢で白髪混じりの髭を蓄えた医師が告げた。看護師は何もせずにひたすら立っているままだ。一体、何の為に存在しているのかが解らない…

 

その後、俺達は怪しい異空間のような場所から出ると駅へと向って歩いた。駅まで徒歩で30分位といったところだろうか。そして、駅前に辿り着くと手っ取り早い牛丼屋に入った。

「健吾さん、あの不思議な病院て何なの…?」

「気にするな」

気にするなと言われてもあんな病院、普通に考えたら有り得ないだろ…


アパートに戻ると健吾さんは俺の背に腕を回し抱き締めてきた。

「漸く俺を思い出したか。亮平、待ってたぞ。漸くお前を抱けるな」

健吾さんはそう囁くと唇を重ねてきた。ベッドに導かれ身体の至る箇所に愛撫を施される。

その刺激に懐かしさを感じる…耳や首筋、胸元、下半身まで…俺はこの人を愛している事を思い出す…


「お前は回復するまで休暇を取るといい。上司には伝えたから安心しろ。良くなるまで家でゆっくりとしてろ」

「解った。そうするよ」

だが、俺は何かが引っ掛かっていた。こんなフィクションのような上手い話しなんてあるのか?飛行機事故で俺達だけが助かったなんて…それにあの病院は一体、何なんだ…?

 


疑問を抱きながら数日間が過ぎた。俺は手持ち無沙汰で何気なくスマホを弄っているとラインのメッセージが入ってきた。

えっ…卓馬…?お前、あの飛行機事故で死んだんじゃなかったのか…?幽霊なのか…?

俺は戦々恐々としながら卓馬のアイコンをタップしてみた。

「暫く見掛けないけど何かあった?」

卓馬は俺が勤務する工場の同僚だ。最近、俺が長い間欠勤している事が気掛かりになっているというような内容だが俺が知る限りでは卓馬は飛行機事故で即死をしているはずだ…俺は恐る恐るメッセージの返信をした。

「いや、ただの体調不良だよ。心配させたみたいで悪かったな」

そして、数秒で返信が送られてきた。

「そうだったんだ。お大事にな」

「因みになんだけど卓馬は最近、欠勤とか無かった?」

「えっ?風邪もひいてないし至って健康だから休んでないよ。何でそんなおかしな事を聞くんだよ?」

「そうか。何でもないよ。元気なら良かったよ」

やっぱり、何かがおかしい…


あれから数時間後に健吾さんは帰宅した。

「今日、卓馬からラインのメッセージが届いたんだけど…卓馬は生きてるの…?」

「そんなはずはない」

「でも、ラインのメッセージがきたんだよっ」

「気のせいだ」

俺の脳内は混乱状態だったが健吾さんにある提案をした。

「俺はもう大丈夫だから明日から復帰する」

「それは駄目だ。お前はまだ万全の状態ではない」

「いや、こんなに元気だし卓馬とも会って話しをしたい」

「卓馬はもうこの世にはいない。お前は幻覚を見ただけだ。それを考えたら自分が病んでいる事くらい解るだろ」

「幻覚…」

「そうだ。幻覚だ」

「明日、工場に行って確認をする」

「必要無いっ!」

健吾さんは俺の要求を遮断していきなり語気を強めた。

健吾さんは絶対に何かを隠してる…俺は直感的に感じた…明日、確認をしに工場へ行く。そう考えていると健吾さんは俺からスマホを取り上げた。

「これを持っていたらお前の精神状態に悪影響を及ぼすから俺が預かっておく」

絶対におかしい…俺は確信に至った。

 

翌日、俺は健吾さんに従順になる素振りを見せ何も言わずに健吾さんを見送った。だが、俺は昼休憩の時間になったら決行する。

 

時刻は今、12時10分前でそろそろ昼休憩に入る。俺は工場に出向く為の準備を始めた。健吾さんに気付かれないよう細心の注意を払わなければならない。健吾さんの事は好きだけどそれとこれとは別問題だ。友人も俺にとってはかけがえの無いものだ。

 

今、俺は工場の出入り口付近にある街路樹に身を潜めている。卓馬は必ず昼飯を買いに外へ出るはずだからだ。健吾さんは会社から支給されている仕出し弁当を食べているはずだ。12時10分頃になり工場に視線を向けると案の定、卓馬が昼飯を買いに工場から出てきた。

「おいっ、卓馬っ」

俺は声の大きさに気を付けながら数メートル先にいる卓馬に声を掛けた。

「あっ、亮平、久し振りだねっ。最近、ずっと休んでるけど一体、何があったんだよっ」

「卓馬、声を抑えてくれ。健吾さんに見つかったらヤバいかもしれないんだ」

「えっ…武藤さんと何があったんだよ…?」

「俺にも今の状況はよく解らないんだよ…ただ、直感的に見つかったらヤバいような気がするんだ…」

「状況を説明してくれよ」

「分かった」

俺は今に至るまでの全てを卓馬に話した。

「はぁ?!俺が死んだ事になってる?!どういう事だよ?!」

「俺にも健吾さんが何をしたいのかさっぱり解らない…あっ、ヤバいっ。健吾さんがいるっ。卓馬、それじゃ、また後でなっ」

俺は健吾さんに気付かれないように足早でこの場を去った。卓馬はやっぱり生きていた…本当に健吾さんは何がしたいのだろう…

 

また、定刻通りに健吾さんが帰宅をした。俺は問い詰めるように健吾さんに問う。

「健吾さん、今日、卓馬と会って会話もした。やっぱり生きてたんじゃないかっ!何故、俺の中では死んだ事になってるんだよ?!」

「亮平、それはお前の幻覚だ。死んだ事を認めたくないあまりにそんなものを見たんだ」

「違うっ!あれは本物の卓馬だっ!」

そうだ…あれは幻覚なんかじゃない…本物の卓馬だ。

「お前は精神的に病んでるからそんなありもしないものを見てしまうんだ。症状が悪化する可能性があるから外出は控えろ。それとも入院したいか?」

「それは…嫌だ…」

あんな訳の解らない病院なんて絶対に嫌だ。

「だったらここで大人しくしてろ」

「解った…」

そして、最終的に俺は健吾さんに丸め込まれるような形になってしまった。だが、納得が出来ない俺は明日、上司に直接話しを聞く事にした。


 

俺は再び、健吾さんを見送った後、時間を見計らい工場へと向かった。

工場の内部に侵入してあまり人目に触れないように俺が以前、担当していたエリアを目指し物陰に隠れながら辿り着くと上司である神楽の姿が見えた。そこには当然だが健吾さんもいる。俺は健吾さんがこの場から離れるのを待ち神楽に声を掛ける。俺は身を潜め息を殺しながらそのタイミングを待ちわびる。

そして、10分程が経過した後に健吾さんが持ち場を離れた。

「神楽さん、お久し振りです。ちょっと聞きたい事があります」

「あれ?葛西は体調が悪いんじゃなかったのか?」

「はぁ…でも、厳密に言うと体調というより健吾さんが言うには精神疾患らしいです。そんな事より聞きたい事があるんです」

「聞きたい事って何だ?」

「あの、ここに勤務している真鍋卓馬はまだいるんですか?」

「あぁ…その事なんだが…飛行機事故で亡くなった事を君は知らなかったのか?」

「えっ、そんなはずはない…だってラインのやり取りをしたし昨日も直接会いましたよ?」

「幻覚でも見たんじゃないのか?俺は確かにそのように報告を受けて葬儀にも行ったが」

「だったら俺が見た卓馬は…幽霊…?それとも俺が本当におかしくなったのか…?」

「まぁ、その何れかだろうな」

「解りました…それじゃ、俺は帰ります…勤務中にすみませんでした」

神楽の言葉に俺の脳内は混乱と同時に深い悲しみが押し寄せた。俺は踵を返し放心状態で歩いていた。

すると人影が見えた。卓馬の姿だった。

「卓馬…?あれ…消えた…?」

やっぱり幻覚だったのか… 

 

その後、俺はアパートに戻るとベッドに寝転び天井を眺めていた。そして、ふつふつと悲しみが増幅して涙が溢れてきた。

そうか…俺の記憶通り卓馬は事故で死んだんだ…

「うっ…」

俺はベッドの上でうずくまっていた。

夕方になると健吾さんがやはり定刻通りに帰ってきたみたいで玄関のドアを開ける音が聞こえてきた。

「お前…目が真っ赤だぞ…泣いていたのか…?」

健吾さんが心配げにベッドで横たわっている俺を覗き込んだ。

「健吾さん、ごめん…俺は健吾さんの事を疑ってた…」

「神楽から聞いたんだがお前、真鍋卓馬の事を聞きに行ったらしいな」

「うん…ごめん…きっと俺は事故を受け入れられなかったんだ…」

俺は健吾さんに抱きつき思いっきり涙を流し嗚咽した。

「無理に受け入れなくていい。時がきっと解決する」

健吾さんは嗚咽している俺を抱き締め優しく頭を撫でてくれた。

 

翌日、ふと俺は自分の所有物ふと視線を向けた。暫く所有者を失っていた数々の画材を眺めながら絵の具を手に取ってみた。

そう…俺はイラストレーターになる夢を抱いている。

俺は画用紙と鉛筆を手に取りイラストを描いてみる事にした。画用紙を一枚ずつめくると俺自身が描いたイラストが散りばめられていた。全て記憶にあり改めて記憶が戻った事を実感する。取り敢えずまっさらな白紙になっている画用紙に鉛筆を走らせる。腕も鈍っていなかったようで思いつくままに描けた。

健吾さんの似顔絵、帰ってきたら見せてみよう。


「健吾さん、久々に絵を描いてみたよ。健吾さんの似顔絵を描いたんだけど上手く描けているかなぁ?」

「大したもんだな。お前の腕は全く鈍っていないな」

健吾さんは画用紙を手にしながら俺の頭をくしゃくしゃと撫でていた。

 

俺はふと思い出した…他の連中はどうしたのだろう…あの時は卓馬だけじゃなく他の友人もいたはずだった。あいつらも事故で命を落としたはずだ…でも、俺は何も聞かされていない。おかしな話しだ。

「健吾さん、卓馬以外の連中もやっぱり事故で亡くなったんだよね?俺は何も聞かされてないんだけど…」

「遺体の損傷が激しくて回収出来なかったらしい。その後は俺も昏睡状態だったから済まないが俺にも解らない」

「そうなんだ…でも、家族に聞けば分かるよね?」

「聞いたところでお前には何も出来ないだろ。あれからかなり日にちが経過している。家族に連絡を取ってもその家族の傷口をえぐるだけだ。辛いだろうが全て忘れろ。お前はイラストレーターになりたいんだよな?自分の将来の事を考えろ」

俺はこれ以上、聞いても堂々めぐりになるだけだと思い黙っていた。こうなったら自分で確認するしかない。

 

俺は翌日、健吾さんが出勤するのを待ち他の友人にラインのメッセージを送信する事にした。ラインを開きアイコンにタップする。あの事故の前に送信したメッセージがそのままになっていてそこだけ時間が止まっている。

えっ…?エラーした…本当にもうこの世に存在しないって事なのか…

しかし、腑に落ちない俺はあいつらのうちの一人の自宅を訪ねる事にした。必ず俺の置かれている詳細の手掛かりになるはずだ。

 

「並木彰」取り敢えず住所を知っている彰の自宅を訪ねる事にした。

俺はスマホのナビで確認しながら進んでいった。この門を曲がった所に自宅があるはずだ。

「やっぱりここだ」

「並木」という表札を確認した俺はチャイムを押してみる。彰の母親らしき人物の声がインターフォンから聞こえてきた。

「あの、彰くんの友人の葛西亮平と申します」

「はぁ…そんな名前の友達っていたかしら…ちょっとお待ち下さい」

えっ…何で…?ていうか生きてるぬちか…?一体どうなってるんだ…?俺が混乱していると彰がドアを開け姿を現した。

やっぱり生きてる…

「えっ…お前、誰だ?俺、知らないんだけど…」

「えっ…同僚の葛西だけど…」

「は?覚えてないんだけど…」

「一緒に仕事していたよな。仕事が終わるとよく一緒に遊びに行ったじゃないか!」

「知らねぇもんは知らねぇよ」

「ていうか飛行機に一緒に乗ったよな?」

「なんだそれ?」

「は…?一体、何なんだ…解ったよ。じゃあな…」

これ以上は何を話しても無駄だと俺はこの場を去り健吾さんに再度、聞いてみようとアパートに戻る事にした。

 

「健吾さん、俺の記憶は一体、どうなっているんだよ?今日、飛行機に一緒に乗っていた友人の自宅に行ったんだ。死んでると認識していた友人が生きていたんだけどあいつは俺の事など知らないと言ってきた」

「お前は一度、記憶を無くして脳内が混乱しているんだ。だから余計な詮索はするな」

「はぁ?答えになっていないんだけど…」

「そんな事は忘れろ」

「健吾さん、俺に何か隠しているよな?」

「しつこいぞっ。詮索はするなと言ってるだろっ」

語気を強めて放つ健吾さんに益々、不信感が増す。

一体、どうなってるんだ…

そうだ…あの例の病院に行けば手掛かりが掴めるかもしれない…


俺は今、電車で例の病院に向かっている。記憶を頼りに病院の探索を始めた。

確か、この森のような所を入っていったんだよな…俺は車道の丁字路の角を曲がり細い獣道のような空間に入っていく。暫く歩いていると白い建造物が見えてきた。

此処だ…

俺は門扉を潜り抜け病院の入口の扉に手を掛け引いてみた。

開かない…ていうか人の気配もしない…どういう事だ…休診か…?

俺はまた明日にでも来てみようと踵を返し車道へ向かった。

車道に出ると一台のタクシーが走ってきた。タクシードライバーならこの辺の事情を熟知しているからこの病院の事も知っているだろうと俺はあまり所持金は無いがタクシーに乗って駅まで向かう事にした。

「駅までお願いします」

「はい」

「あの…聞きたい事があるんですが」

「何でしょうか?」

「あの森の中にある病院て今日は休診日なんですか?」

俺が尋ねるとルームミラー越しに見えるドライバーの顔が訝しげな表情になった。

「お客さん、あの病院は何年も前から廃墟になってますよ」

「えっ…」

それじゃ、俺が見た医者と看護師はは一体、何者だったんだ…

俺は更に脳内が混乱状態に陥った…

後、手掛かりといえば船から俺を廃墟病院に誘導した女性だ。きっと手掛かりが掴めるはずだ。

 


俺は健吾さんが眠るのを待ちスマホのアドレス帳を見てみる事にした。

夕飯を食べ終え健吾さんが寝落ちするのを待ち完全に熟睡した事を確認して健吾さんのスマホを手にした。

ロックが掛かってる…しかも指紋認証みたいだ…だが、健吾さんの親指をそっと当てれば解除できるだろう。

よし、やってみよう…

俺は健吾さんが熟睡している事を再度、確認をしてから慎重に指先をスマホの側面に当てた。その瞬間、健吾さんがモゾモゾと身体を動かした。

血の気が引く思いをしたが単なる寝返りだった。俺はホッと胸を撫で下ろし更に深呼吸をして動揺を落ち着かせた。そして、スマホの画面に視線を落とすと指紋認証が成功していた。思わず「よっしゃ!」と叫びたくなったが胸中に留め本来の目的を決行した。

スマホのアドレス帳を開くと一人だけ女性の名前を視認した。「遊馬悠里」という名が書いてある。俺は自分のスマホを手に取り健吾さんが目覚めてしまわないうちに番号を登録した。

 

俺は翌日、健吾さんを見送ると早速「遊馬悠里」に通話をした。5回のコール音で繋がる。だが、あの日に聞いた声の質やトーンが全く違う…別人なのか…だとしたらまた、振り出しに戻ってしまう…

「あの、遊馬悠里さんでしょうか…?」

「そうだけど…どちら様?」

「突然、すみません。以前、俺と客船に乗っていた人じゃないですか…?」

俺はやっぱり、別人なのかもしれないと自信無さげに問うと思わぬ問いが返ってきた。

「もしかして君は葛西亮平君じゃない?」

「何で俺の事を知ってるんですか…?」

「はぁ…」

遊馬悠里は溜息をつくと一呼吸、置いてから再び話し始めた。

「君が私の存在を知ったという事は話さなきゃならないみたいだね…」

「話しって何ですか?もしかして俺の記憶について何か知っているんですか?!」

「そういう事だね…直接、会って話すべき事だから近いうちに会えない?その時に全てを話すよ」

「近いうちって何時ですか?!俺は今、フリーなんで貴女の都合に合わせますよっ」

俺は今、直ぐにでも聞きたいという衝動を抑えきれずに語気を強めて問う。

「そうだね…明日、私は非番だから昼頃に会わない?健吾がいない間の方が良いでしょ?」

「そうですね…外出の理由を色々と聞かれると厄介ですから」

そう…今の俺は外出の口実を作るのが難しい状況なのだ。


 

駅前で待ち合わせをしたが互いに初対面という事があり服装とスマホの通話で確認をする事にした。ブラックデニムに白いシャツ、ベージュのスプリングコートを着たロングヘアの女性がスマホを耳に当てている。

多分、あの人だ…

俺が歩み寄ると遊馬悠里も俺に気付いた様子で互いに視線が合う。モデルのようなスレンダーラインの体型で容姿もそれに見合う程、綺麗な女性だ。

「初めまして。私が昨日、通話をした遊馬悠里。君が葛西亮平君だね」

「はい、初めまして」

「あのファミレスなんてどう?」

遊馬悠里が指し示した先にはビルの一角にある某フランチャイズ店のファミレスがある。

「会話が出来きれば何処でもいいです」

ファミレスに入ると遊馬悠里は空腹だったらしくランチメニューを注文した。俺も昼時で空腹を意識していた為、同じ物を注文した。

「話す前に健吾と私の関係性を話すよ。彼と私は学生時代の旧友。私は医学の方に進みたかったから医大卒で脳外科医。彼とは中学を卒業してから進路が別だったんだけどお互いにセクシャリティが同じだったせいか波長が合ってね。未だに友人関係を保ってるんだよ」

遊馬悠里の話しによると健吾さんは元々セクシャリティが男性だった為、友人以上の関係にはならなかったらしい。セクシャリティが同じだった事もあり二人は波長が合うのかもしれないと俺は納得をした。

「それじゃ、話すよ。でも君はきっと健吾に対して嫌悪感を抱くかもしれないよ」

「そんなに酷い話しなんですか…」

「かなり倫理的に問題がある。それに加担した私にも責任があるからね。私は診察や手術をする事もあるんだけど研究が中心なんだ。要するに君を実験台に使うような事をした。これは健吾に依頼されて行ったんだけどね」

「どんな依頼だったんですか…?」

「記憶の改ざん。本来なら精神障害がある患者の為に研究している事なんだよ。それを何の障害も無い君に行ってしまった…倫理的に許される事では無い…犯罪行為だよ」

「何故、そんな事を健吾さんは頼んだんですか…?」

「君を確実に支配する為だよ」

「何だ…それ…健吾さんは何故、そんな事をしたかったんだ…」

「君の容姿は一般的に見ると優れているからね。健吾は君が友人達と戯れている事が気に入らなかったのかもね」

「そんな事をしなくても俺は他の人達に目移りしないのに…そんなに俺は信用が無かったのか…でも、他にもおかしな部分があります」

俺は乗船をしていた女性の事やどのように改ざんをしたのか友人達に何をしたのか問い詰めた。遊馬悠里の話しによると健吾さんと共に渡航した夜、おれが眠っている間に麻酔薬を投与し記憶を改ざんしたらしい。友人達には事前に健吾さんが金銭を渡し協力してもらったとの事だった。客船に乗っていた女性は遊馬悠里の恋人で例の病院は彼女の知り合いに頼んで偽装した。病院で昏睡状態だった健吾さんは演技だったと…そう…全てはフェイクだった…

「全てを知ってしまった君はどうする…」

「協力してもらえます?」

「何を…?」


 

俺は今、別の会社の寮で暮らし勤務をしている。

武藤健吾はどうしたかって…

俺の事など一切、記憶が無いだろう…

記憶を改ざんしたのだから…



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現実と記憶の狭間の中で 崎田恭子 @ks05031123

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