「二重敬語」は何がダメ?


 〈二重敬語とは〉

 二重敬語とは、尊敬語や謙譲語がそれぞれ一文の中に二つ存在する構造のことで、一般には誤用とされています。大きく分けて二つあり、

①敬語+敬語型:「ご覧になられる(ご~なる+れる)」

②謙譲語+謙譲語:「お願い申し上げます(謙譲の「お」+申し上げる)」

 といった具合です。 

 ただ実際には、例えば後者の「謙譲の「お」+申し上げる」型は誤用といわれません。浸透しているためです。「お(ご)〜になられます」型だって、確かに少しまどろっこしかったり、構成要素が増えてややこしかったりしますけど、実際の会話文で使われて不快に思う人の方が少ないのではないでしょうか。

 

 このように、二重敬語がなぜ一般に誤用認定されるのか、私としては少し疑問なのです。今回は二重敬語の良し悪しについて、お話しします。



 〈二重敬語の性質〉

 まず、なぜ二重敬語が「ダメ」なのか、ネットでぽちぽち調べると、どうやら「敬語表現が冗長になるから」「卑屈な感じがあるから」「重複表現だから」などといった理由がありましたが、そうなると現実と理想は全く乖離していることがわかります。何故って、いま盛んに「させていただく」が使用される世の中で「冗長」だから誤用とは、何とも矛盾している気がするからです。もしかしたら――「させていただく」を好ましく思わない人が、二重敬語もダメ!と言っているのかもしれませんが、そしたら今度は「させていただく」がこんなにも連発されないと思うものです。不思議。

 

 そもそも二重敬語の歴史は古くて、平安時代からあります。一つ挙げれば「せ給ふ」の形は文中に出現し、対象に高い敬意を向けるものです。そう、古文の時代では誤用どころか、むしろ使うことによるがあったのです。そしてそれは敬意を示すという敬語の純粋な目的です。

 それがなぜ現在では誤用に近い表現と認知されているのかを考えると、一つ目は二重敬語の形が煩雑になったこと、二つ目は二重敬語使用によって生じる利点が少なくなったことなどがあるのではと考えます。現代日本語では、二重敬語「敬語+敬語型」が「せ給ふ」→「お(ご)〜になられる」と長ったらしくなっていますから、確かに使いにくくなっています。さらに身分というものが表面上ない現代は、そうした高い敬意を含む表現をやたらめったら使わなくてもいいはず、なのですが。



 〈まとめ〉

 ただ、私としては、敬語の本質は「敬意」を示すことであると思います。それ故に、形式面(言葉・表現)は副次的なものととらえています。主は敬意と気持ちです。だからわざわざ二重敬語にしてまで・あるいは偶然なってしまったとしても好感が持てますし、何も考えていないような「させていただく」があまり好きではないのです。

 あと、冗長な表現は良くないから二重敬語は良くないという意見がありましたけど、それは何も二重敬語だけに限りませんよね。二重否定(~ないものは~ない)とか、やたら長い文章とか、句読点の打ち方が変な長文とか。そういうものを引き合いに出さないで、二重敬語だけが焦点を当てられると、少し複雑な気持ちになります。

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