第4話 ロレックス

事の起こりは蛸原阿呆一の軽率さにあった。

その軽率さ故、安直に誘拐を企て、失敗したのである。全くの阿呆である。

しかし阿呆が幸いし、誘拐事件自体が未遂で終わったため、何事も無かったかのように翌朝にはいつもの朝日がいつもの部屋を明るく差し込んだ。


父が血が滲むような思いで運営していた旋盤工場を、父の突然の死を受ける形で長男の阿呆一が会社を受け継いだ。父は真夏のある晩愛人宅で腹上死を遂げた。享年75歳であった。

父は息子に対し、阿呆に育ってくれるな、と一心に願い、阿呆になるな、阿呆になるな、と阿呆一が母の腹にいる間、常時願っていたのだが、その思いがあまりに強く、産まれた子供に「阿呆にならない一つめの子供」と言う意味で阿呆一と名付けたのだったが、名付けの因果があってか足立区梅島界隈で一、二を争う阿呆になった。

残念である。


蛸原はそのボンクラさ故、猛スピードで会社を駄目にした。

会社はとても小さく、蛸原、昔から働いていた旋盤工、アルバイト2人で切り盛りしていた。素人である蛸原が発注された部品指示書の単位を見誤り、105ミリとあるものを、ことごとく105センチにて製作、納品した。

クライアントは、すげボンクラだ信じらんね、と案の定呆れ果てて離れてしまい、唯一の得意先を失った有限会社タコメタルは倒産した。

蛸原は「ちょっと困った事になったな」と思ったが、取り敢えず、いきつけのスナックデベソに行くことにした。駄目なやつである。蛸原は45歳になった日だった。


スナックデベソには常連客である細面太が居た。

細面はこの辺りではちょっとした有名人で、あらゆる相談役を買って出ている人物であった。しかし悪人でもあった。

蛸原には頼れる友人知人も居ないことから、事ある毎に様々な相談を細面にしていた。解決した事はなかったが、他に話せる相手がいないのもあって、倒産した会社の再建の相談を細面に持ちかけた。蛸原は軽率であった。なぜなら細面は悪人だから。

一部始終話を聞いた細面は肥えた腹を擦りながら、甲高い声で「タコちゃんさあ、マジ、印刷の時代、そこまで来てるんだわ」といい、一杯千円のデベソ特製烏龍ハイを掻き混ぜた。

デベソ特製烏龍ハイは「大五郎」とサントリー烏龍茶で出来ていた。

弱っていた蛸原は藁にも縋る思いで真剣に細面の話を聞き入り、時折間抜けな「へい〜」という相槌を打ったり、しきりに感心した振りをしていた。

蛸原がスナックデベソから外に出る頃には、細面が商売で使っていた中古の印刷機器を一式、譲り受ける事になっていた。

悪人の細面が善意でそんな事をする訳は無く、自分が商っていた会社の1つの印刷会社が傾き、フトシ困ったなあ、と思っていた矢先に、渡りにタコ、だったのである。

買い手がつかず、廃棄に200万円かかる機械類一切を、蛸原は500万円で買い取ったのである。

蛸原が勇んで帰宅し、明日からの事業プランに妄想の巨花を咲かせていたその頃、細面はまだスナックデベソにおり、ママのデベソを舐めたりしていた。細面は悪人且つ、助平だった。


印刷機器を譲り受けた蛸原は有限会社蛸印刷を興すが、仕事の依頼は全くなかった。スナックデベソで細面が言っていた、あの台詞は嘘だったのか。

はたして嘘であった。印刷の時代が来そうな気配はなかった。

細面は根から腐った男だった。印刷に必要なオペレーターを蛸原に斡旋し、斡旋料まで貪った。細面は毎晩、満面の笑みでスナックデベソのママのデベソの山を指でつんつんしていた。


困ったのは蛸原である。仕事の発注は無いが、オペレーターへの給料や斡旋料等の経費ばかりが嵩む。蛸原はマジ困ったなと思ったが、やはり酒が飲みたくなったので、居酒屋牛乳へ向かった。スナックデベソに行きたかったのだが、細面には670万円の借金をしていたので顔を合わせ辛いのもある上、最近になりようやく、細面には多少の悪意があるのでないかと思い始めていた。呑気な話である。


居酒屋牛乳のカウンターに腰掛けた蛸原は隣席に座った青年を舐めるように見ていた。別に恋をしたわけではなった。青年の腕時計を見ていたのである。黄金に輝くロレックスであった。青年は河豚田マス雄という名であった。

後に磯野サザエと結婚し、世田谷桜新町の磯野家に同居中、長男のタラ男を授かる事になるが、彼はまだそれを知らない。

河豚田と蛸原はくだらない下ネタで意気投合し、酒や肴をたらふく平らげ、2人で蛸原の工場に泊まった。蛸原は酔ってはいなかった。蛸原は飲ませてベロベロになった河豚田から実家の連絡先などを聞き出した。ホテル宿泊券を貰ったが忙しくて旅行に行けないのであげるよ、蛸原はと河豚田を騙し、翌日熱海へ旅行に行かせた。大学卒業間近の河豚田にとっては思わぬ卒業旅行のプレゼントであった。わあい、わあいと喜んでいた河豚田はまるで子供のようであった。しかし河豚田が手にした宿泊券は蛸原は工場で偽造したのであった。


そんなこともつゆ知らず、次の日河豚田はスキップしながら駅に行き、熱海へ向かうべく新宿にてスーパービュー踊り子号に乗った。

蛸原はにんまりした。前歯に青海苔がついていた。

河豚田はありもしない旅館を求めて熱海を彷徨うことになる。河豚田が行方知れずの間に、蛸原は河豚田の実家へ誘拐した旨の電話をかけ、迅速に身代金を手に入れる計画を立てていたのだ。なかなか侮れない男、蛸原。


蛸原は河豚田が新宿から特急に乗るのを確認した後、河豚田の実家へ電話をかけて現金700万円を要求した。しかし、電話に出たのは齢98の婆で、むにゃむにゃ言ったり咳き込むばかりで全く埒あかなかった。婆には一応一通りの要求をしたので、指定の19時に西新井大師駅前の電話ボックスに向かった。あたりを見回したが緊張感が無い駅前の様子に安堵し、婆まだか、と近くの喫茶店に入って、700万円入りの鞄が電話ボックスに到着するのを今か今かと待っていたのである。

そのころ河豚田の実家では婆は自室で布団に入っていた。毎晩18時には眠るスケジュールであった。

婆と思えぬ凄いイビキで、障子が微かに震えた。


河豚田は熱海の町並みや景色を満喫し、偽の宿泊券に印刷してある旅館を探し回っていた。河豚田は諦めがよいさっぱりとした男だったので、見つからないとわかると目当ての旅館を探すのをやめ、目前にある素泊まり旅館に宿泊を決めた。素泊まりでは夜に腹が減るので、適当なものを買いにコンビニ然とした商店に向かった。

お握り2つとぺヤング、ライフガードを持ってレジに向かおうとしたが、雑誌棚でエロ本を一冊手にした。DVD付きである。既に軽く勃起した。雑誌棚の向かいの棚の裏には、首都圏では既に姿を消したハウスフルーチェのメロンがあったが、河豚田は我関せず、前かがみ気味にレジにて清算を済まし全速力に近い速度で走り、素泊まり旅館に向かった。河豚田はまだ童貞であった。


蛸腹は喫茶店の閉店まで待ったが、(あんな婆じゃ話が伝わってなかったんじゃないかなあ)と、今さら気付いてトボトボ帰宅した。少し泣いた。

蛸腹が居酒屋牛乳にて見た河豚田のロレックスは、河豚田が上野のアメヤ横丁にて980円で買った韓国製の贋物であった。

こうして蛸腹はまたひとつ、自身が軽率だというエピソードを増やしたのである。

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