第五章 春と共に、永遠に


花田先生は擬態が上手かった。沈んだ瞳を光らせて身を隠し、学校の中ではふつうの先生を演じた。ひとよりも冷静かつ沈着な姿勢を持ち、取り繕った表情で誤魔化す。元々持ち合わせていた音楽という技術を利用して彼の望む彼となってより本物に近づいた。

 おそらく無意識に自衛をするのは幼い頃からの癖だろう。やけに慣れていたのだ。そのせいか、殆どなの人間は花田先生の狂気を疑うことなく信じた。

 だけど、もう無理だ。ある一定の人間が彼の狂気に気づいてしまったのだ。花田先生は臆病。もちろん彼もそれを知っているはず。知っているから、きっとみんなは気づいても見守ることしかできなかったのだ。

 町田先生が一瞬驚いて、それから気が抜けたような表情で教卓の前に立っている。クラスのみんなは私が写った数十枚の写真を見て騒いでいたが、町田先生は、隣の狂気を静かにを見つめた。

 彼を傷つけない為だった。あのひとも、このひとも。

 そして、わたしも――。

 傷つけないようにとあえて黙っていたが、どうやらそれも間違いだったみたいだ。

(これって、小比類巻さんだよね……)

(いま、花田先生の籠の中からでてきたよ)

 狂気はこらえ生がない。

(しかもさぁ、なんか盗撮っぽくない?)

(ほんとだぁ!)

 彼は自ら、その取り繕った仮面を剥がした。

「だれだ、あたまの悪い人間は……」

 しわがれた低い声がうなって、教室の中を無音にした。

 隣の席の美少年。藤原 蓮が、珍しく大人に歯向かった。

「だれって、先生本人がやったんじゃないですか。生徒の跡をつけて家までいき、盗撮をした。生徒手帳まで盗むなんて、先生、あなた正気ですか?」

 眩しいはずの美少年が、今はただ、獲物を仕留める狩りの顔つきだった。クラスのみんなは、衝撃を受けた余韻でおもしろがったり整理がつかない言葉を言ったりしているのに、ただひとり、なぜか声が通っていた。肝が据わっているようだ。

 花田先生は重い表情をしたまま藤原 蓮を睨んだ。唇が小さく動いて、目つきが変わった。

 わたしは、とりあえず何かを言わなくてはと、いちど息を飲み込んだ。

 そして、

「うぅ、うるさいぞ!」

 その場に立ち上がって、藤原 蓮に強く怒鳴った。出したことのない、太くて震えたわたしの声。

「くだらない冗談はやめろ。よほどいい気になっているな。全くだ。そんなにわたしの濁った血液がほしいのか。どうだ、言え。ほしいならやるぞ。洗っても洗っても、永遠に取れぬ汚れた血液をな!」

 一度無音になった教室がさらに静まり返って、ジージー、ジージーと、虫の鳴き声が聞こえてきた。

 何も見えない。だれに怒鳴っているのかも分からない。目の前にいるのはたぶん、藤原 蓮。背が高くて、美しい顔を持っていて、最近一緒に帰宅をした美少年。無視をしても平気で声をかけてくれる、気にかけてくれる、たぶん、本当は優しいクラスメイト。

 わたしがふつうの子どもだったら、きっと。

 きっと。

 ふつうの高校生だったら、隣の席に座る優しいともだちだったかもしれないひと。彼は悪くない。

 でも、ふつうってなんだろう。

 今度は、わたしが獲物を仕留めるみたいに自分を大きく見せつけて、美少年の周りに檻をつくった。

「わたしと、花田先生とのあいだに存在することなど、君には到底わかるまい。決してだ。君のような無知が割りこむのではない。たとえ一生をかけても、この世の誰ひとりとして分からぬことだ」

 完全に包囲した。さっきまで闊歩して花田先生を睨んでいた藤原 蓮は、落城されたように肩を落としていた。驚いたような、呆れたような、よく分からない表情をして、何も無い机の上をただ黙って見つめていた。

 わたしが勝ったのだ。うれしくはないし、べつに勝敗を求めていたわけではないけれど、なんとなく、あの魑魅にまで勝ったような気がして、それで……藤原 蓮に、大きな罪悪感を持ってしまった。

 檻の中でうずくまった大きな抜け殻を、そっと眺めた。

 何を考えているのだろうか。気になったけれど、想像したくなかった。

 それからすぐのことだった。窓際の最前列のほうから、泣きじゃくった細い声が途切れ途切れで聞こえてきた。

「……どぉしてよ、なんでぇ。なんでそこまでするのよぉ……ひどい、ひどいわ。わたしなんか……わたしなんか」

 森 沙也加が、長い髪の毛をくしゃくしゃにして子どもみたいにわめいていた。目を細くして、大粒の涙を両手で必死に拭った。

 くしゃくしゃになった顔に張り付いた横髪が、なぜか美しかった。

 わたしにもわかる。

 女の涙だ。

「こんなの、いやだわ」

 子どものように泣きじゃくって女の涙を流した。嫌いだ。女は嫌いだ。たかが涙を武器に変える。一瞬たりとも持続しないというのに……。

 クラスのみんなが困り始めて、花田先生に視線を戻した。

 だけど――。

 そこにはもう、先生はいなかった。

 学校の教師も、狂気も、すべてをやめてしまった花田 蛍が、恐怖をまとい、ただ呆然とわたしを見つめて立ち尽くしていた。

 助けなきゃ。

 つぎは、わたしが殺すのだ。

 机を掻き分けて、瑠璃色のベストを目がけた。

「いこう、はなだほたる」

 腕を掴んで、そのまま教室を出た。町田先生が何かを言って呼び止めようとしたけれど、わたしは耳を傾けるどころか、足もとめずに逃げるように走った。

 ごめん、町田先生。

 ごめん、みんな。

 廊下を突きぬけて階段を降り、職員室を通り過ぎた。校門をくぐり抜けて、ちょうど信号機が青になったのでそのまま渡った。

 それから、やっと我に返った。

「あの……わたし、かってに。えっと、すみません。だけど、せんせいが……」

 言いたいことと言わなくちゃいけないことが溢れて、舌が絡まった。

「うん、だいじょうぶだよ。ぼくも、おなじことをしてたから」

「……ほんとに?」

「うん、ほんとうに。だけど、さぁ……」

 花田 蛍は冷静だった。落ち着いた表情で、掴まれた腕を持ち上げながら「はなして」と言うように、動揺したわたしの目線を手もとに誘導した。

「ああ、ごめん!」

 手を離すとワイシャツにシワがよっていたので、小さな手をめいいっぱいに広げて擦り、きれいに伸ばそうとした。

 少し間が空いて、

「これから、どうする?」

 ほたるが陽気に問いかけた。 

 どうしよう。わからない。たぶん、もう教室には戻れないし、戻りたくない。みんなわたしのせいだ。結局シワも残ってしまった。

 それに、

「なんで、ひとごとなのよ」

「はは」

「ちょっとぐらい、しんけんに考えてよ」

「きみが、ボーイフレンドを怒らせてしまったことをかい?」

「……」

 あぁ、本当に最悪だ。

「ねぇ、さなぎ」

 変に黙り込んでしまったわたしを覗き込んで、空を見上げた。つられて一緒に顔を上げた。今日はめずらしく快晴だった。隣でしわがれた声が静かに聞こえてきた。

「逃げようか……」

 横顔が、置物のように美しかった。

「逃げる?」

「そう、とおくとおく離れたところまで、ふたりで逃げるんだ」

「とおくって、どこまで?」

「……」

「さぁ」

「……」

「くうそうのような、せかいがあれば、そこにいきたい」

 べつに悲しい顔を見たいわけじゃない。

「ねぇ、せんせい」

 わたしもこのひとと同じだから。

「なぁに?」

「くうそうの対義語って、何だかわかる?」

 決していたわるってわけでもないけれど、ただ、同じだよって言えば少しは平気になるような気がした。

「くうそうの対義語はね」

「うん」

「それはね……」


(何故だ。何故、逃げる)

(神の言うことが、聞けないのか)

(お前の見方は、誰一人として居ない)

(お前は一生、逃げられないのだ)


「うんめい、だよ」

 物事はそう簡単には変えられない。わたしを支配するのは血液(うんめい)なのだから。恐い、汚い、嫌だ。わたしは違う。少しでも目を背けたくて空想を求めた。

 蛍だって同じ。逃げられない臆病(うんめい)のなかで常にもがいてきた。こらえ生がない。でも、擬似がうまい。他人には殆ど理解が出来ないし、住んでいた場所も違う。

 それにだ。蛍はそれが何であるのかもよく知っていた。言葉にはしなかったけれど、なんとなく気づいていたはず。すぐには変えられないことや、運命を背負ったまま歩くのは非常に生きづらさを感じてしまうこと。

 もちろん、そのせいで教師が向かないことだって……。

「うんめい、かぁ」

 ほっとした。悲しい顔をするかと思った。

「ねぇ、さなぎぃ」

「なぁに、せんせい」

 急に何を思い出したかのように、蛍が目を大きく見開いた。

「ぼくはたぶん……海からきたみたいだ。だから、海に帰らなくちゃ」

 しばらくわたしを見つめたあと、穏やかな表情に戻った。

 沈んだ瞳が、黒く光った。

「いいよ」

「……」

「わたしもいっしょに、ついていく」

「……」

「くうそうの世界に逃げるのよ」

「しょうきかい?」

「えぇ、そうよ」

 つい勢い任せて言ってしまった。だけど、本気だ。

「じゃあ、いっしょにもどろう」

 蛍がわたしの手を握った。細くて健康的な指先。少し震えていたけれど、すごく暖かった。暖かくて、甘かった。

 それが余計に、

「こわい。やっぱり、すこしだけこわい」

 消えてしまうのを想像すると、分かっていたはずの恐怖心が容赦なく宿って、意図しない欲まで湧き上がってきた。

 あぁ、なんて皮肉な……。

 わたしは、このひとの体温に二度も触れてしまった。一度心地の良い温もりを感じると、得てして永遠に持続したいと願うのだ。

「だいじょうぶだよ、さなぎ。こわくなんかないよ。このまま、うんめいを背負って歩きつづけるほうが、よっぽどこわいさ」

 暖かい手が、今度は力強くわたしの手を握った。

「うん、そうだね」

 わたしも同じように握り返した。


 ガソリンの残りがあともう少しだったけれど、全く気にしなかった。 

「ほんとうに、また、のせてくれたのね」

「やくそくしたからね。でもこれが、さいごだ」

 蛍が小さなヘルメットを取り出してわたしの頭の上に乗せた。

「これ、いるの?」

「ルールはまもらないとね」

「なんか、せんせいみたい」

「せんせいだよ」

 笑いながら、しっかりとヘルメットを装着したふたりは排気音にまたがった。


 ブォン、ブォン――。

 ブォン――。


 全てを置き去りにするかのように街を飛び出して、わたしたちは近くの海へと向かった。雨晴という、小さな海岸だ。小さい頃に一度だけ、施設のみんなと一緒に行ったことがある。

「あ、そうだ! わたし、いえに、わすれものしちゃった」

「わすれもの?」

「うん」

 すごく前に貰った、

「あの本、もっておきたいの」


 ブォン、ブォン。

 ブルルルル……。


「いいよ。すこし、いえによろう」

「ありがとう」

 信号が青に変わって、排気音が派手に音を鳴らした。すぐに折り返して、あっという間にわたしの家の近くまで辿り着いた。

「ここでいいよ、すぐにもどるから」

「うん、わかった」

 小道に入り、家の前まで掛け走った。

 大きな一軒家を見つけて鍵を出し、それから……薄ら見覚えのある光景が目に飛び込んできた。

 キッりっとした目付きに、渋い表情。慌てて玄関の扉を開けようとしたが、

「小比類巻!」

 名前を呼ばれて反射的に手をとめた。ドアノブから手を離して仕方なく振り返ると、乱れた長い髪の毛を揺らしながら、森 沙也加が息を切らしてこちらのほうに駆け寄ってきた。さっきまで子どもみたいに大泣きしていたのに……。

「も、もり、さやか……さん」

 恐る恐る名前を呼ぶと、かき消すかのような音量で被せてきた。

「逃がさないわ、小比類巻」

 なぜだ。なぜ、そんな目をする。弱いくせに、武器などないのに、ましてや、単純とはかけ離れた女であるというのに。

「わたし、逃がさないから。うそじゃないわ、ほんとうよ。だって、このままどこかに消えてしまうなんて、そんなの、ぜったいにゆるせない」

 うるさい。

「もりさんには、かんけいないよ」

「あるわ!」

「……」

「わたしだって、かんけい、あるもの」

「……」

 みっともない。戦える身体じゃないのに、なぜそんな目ができるのだ。

「ふくしゅう、しなきゃ」

「なによ、ふくしゅうって」

「それは……これから、がんがえるわ」

「いみわかんない」

「とにかく、あしたでも、あさってでも、らいしゅうでもいいから……かならず、きょうしつにもどるのよ」

「やだよ」

「なっ……」

「わたし、いそいでるから」

「……」

「じゃあ」

 扉を開けて、中に入った。

「逃がさないよ、小比類巻」

 確かに聞こえた。わたしを呼ぶ声が、玄関の外からはっきりと聞こえた。


 ガッ、チャン――。


 わたしは階段を駆け上がって自分の部屋に向かった。机の上に置いてあった文庫本を手に取り、小さなリュックサックの中に入れた。少しのお金とヘアアイロン、それから数日分の衣服も入れた。

 居間へ行き、キッチンへ侵入する。食べかけのお菓子と未開封のカフェオレを持ち出し、傍に置いてあった大きめの手提げ鞄に詰めこんだ。

 わたしの家は、ここじゃない。

 ローファーを履いて、たまたま目に入った小さなサンダルも鞄の中に放り込んだ。


 勢いよく扉を開けて外に出ると、森 沙也加はもう居なくて、排気音にまたがった蛍が心配そうに待っていた。

「だいじょうぶかい?」

「うん、だいじょうぶ。ねぇ、ほたる」

「なに?」

「あと、ひとつだけ、おねがい」

 最後のお願い。

「もういちど、ほんとうの、おうちにかえろう」

 初めて言った。

 少し驚いた蛍が排気音から降りてきて、わたしの頬にそっと触れた。ヘルメットを被っていても分かる。瞳が小さく光って、潤んだ。

 あぁ、なんて。

 欲で何かを続けたいとは思わない。復讐の為なら続けられる。決して、言い聞かせなどではない。

 それにだ――。

「うん、いいよ。さなぎちゃん」

 このひとの手のひらは、熱い。

 熱くて、すごく甘いのだ。

 



 

 

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啓蟄 (けいちつ) 珀 ーすいー @Rin-You

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