第四章 古いピアノ
お昼を過ぎると、こどもたちの賑やかな声が聞こえてくる。集会室で昼食を食べ終わったあと、小学生や中学生が遊びに来るのだ。
「がっしょうー……ごちそうさまでした!」
ひとりの掛け声とともに、複数の声が弾けて、同じように挨拶をした。
ガラガラ――。
それから、勢いよく扉が開いた。
入ってきたのは、小柄な男の子と見慣れない顔だった。一番最初に入って来た男の子は、本棚から一冊の文庫本を取り出した。
名前は、ほたると言うらしい。
後を追うように着いてきた見慣れない顔の男の子が、彼のことをそう呼んだ。
「ええ……うそでしょ。せっかくあそびにきたのに、また本なんか、よんでるよ。きょうぐらい、外であそぼうよ、ほたる」
「うん、ちょっとごめん。あともう少しだけ。最後にね……」
「……まあ、たしかに、そうだけどさぁ」
「読みおわったら、すぐにいくから」
「あぁ、わかったよ。じゃあ、ほたるが読みおわるまで、ぼくも隣ですわっているよ」
部屋の入口で立ち尽くしていた友人は、肩を落として、ほたるの隣に腰を掛けた。
「はは。気をつかっているのかい?」
「つかうもんか」
ほたるが冗談を言って、友人が笑った。
「そうだ、町田くんって、大学にいくんだっけ?」
「うん、そうだけど……」
「そっかぁ。じゃあ、夢かなえるんだね」
「夢、なのかな。ぼくはむかしから、学校の先生になるつもりだったから、それで……」
「うん。町田くんなら、きっとなれるよ」
ほたるの友人。町田少年は、なぜか少しさみしそうな顔をした。
「ほたるだって、いい先生になれるよ。ぜったい。ちゃんと、短大にかようおかねも、ためたんだし、ならなきゃ」
「はは、そうだといいねぇ。だけど、なにかをせおって、じぶんの言葉をはっするのは、もうしたくないなぁ」
「……」
「がっこうって、かいしゃって、そういうところじゃん。ただの、集団であれば、ぼくはぼくでいられる。それが、組織なるとまったくちがう。組織のいちいんになったら、ぼくは……それをせおって言葉を選ばなくちゃいけない。おおきなばくだんを抱えて、だれなのかも分からない人格を、持たなきゃならない。そんなの、もうこりごりだ……」
ほたるが、空笑いをした。
「あまり、へんなことかんがえるなよ」
何かを察した町田少年は、ほたるの肩をぽん、と軽くたたいて、椅子から身を離した。
ガラガラ――。
部屋の中に、大人が入ってきた。可愛らしいキャラクターのワッペンをつけたエプロンが、やけに目立つ。
「ほたる、ちょっとこの子みててくれない? きょうから入所する幼児さんなんだけど、職員会議にでないといけなくて……あれ、町田くん、あそびにきてたのね」
「すみません。もうかえるので、だいじょうぶです。また、そつえんのときにきます」
「あら、そうなのね」
町田少年は、軽く会釈をして、ほたるの方を見て、「それじゃあ」と言うように片手を上げて挨拶を交わした。
ほたるも同じように片手を上げて、最後にはにかんだ。
町田少年が部屋から出ていき、代わりに、エプロンをつけた大人のひとが中に入ってきた。
「さなぎちゃんっていうのよ、ね?」
大きな体に持ち上げられて、不思議そうな顔をする小さな女の子、さなぎは、僕の前に降りてきた。
「じゃあ、少しのあいだよろしくね、ほたる」
そう言って、エプロンをつけた大人は部屋から出ていった。
「……さなぎちゃん、えーっと。ぼくといっしょに、あそぼうか」
読みかけの文庫本を本棚にしまった。
そして、小さくうずくまるさなぎに近づいて、微笑んだ。
やさしく、頭を撫でた。
「おにいちゃんが、たのしいきょくを、ひいてあげるね。だいじょうぶだよ。さなぎちゃん。ほら、こっちにきて」
ほたるが、さなぎを抱えて、自分の膝の上に乗せようとした。
さなぎは大きな瞳を見開いて黙り込んでいた。長い黒髪がほたるの胸元に触れて静電気が起こった。ふわりと舞った黒髪が、パーカーにへばりついた。
そのまま膝の上に乗っかると、さなぎは上を見上げて、不思議そうにほたるを見つめた。
それから、ふたりの子どもが、僕を覗きこんだ。
ほたるが僕に触れて、軽やかな音色を出した。美しいメロディが、鍵盤をつたって雨のように流れ出した。細い手が、力強く僕に伝わった。
こんな風に音色を聞くは久しぶりだ。
昔は近くの保育園にいて、毎日のように子どもたちが会いに来てくれていた。大人も、楽しそうに音を出していた。
だけど、少し古くなって、僕は養護施設のプレイルームに引っ越しをした。施設は保育園と違って、僕をおまけのように部屋の隅に置いた。
小さなプレイルームには、漫画や文庫本の入った本棚。大きなテレビ。数々のおもちゃ……。
子どもが好きそうな空間に、僕は、ひっそりと身を隠していた。
誰も、気づいてくれなかったのだ。
「おにいちゃん、すごい!」
さなぎが喋った。小さな足をぶらぶらと揺らして、ほたるを眺めた。
少し照れているのか、ほたるは目線を逸らした。
「きにいってくれた?」
「うん!」
「それはよかった」
「すごくきにいったわ。おにいちゃん、なまえは、なんていうの?」
ほたるが手をとめた。
音が途切れて、一瞬、無音になった。
僕からそっと手が離れていき、さなぎの、真っ白な頬へと向かった。
「はなだ、ほたるだよ」
ほたるの瞳が、小さく光って、潤んだ。
「ほたるくんっていうのね! わたしはさなぎ、さなぎよ」
「うん、さなぎちゃん」
「あのね、わたし……」
小さな身体が再び抱えられて、今度は床の上に着地した。
黒髪がふわふわと揺れた。
「わたし、はなだ先生のおんがくがすきよ」
「はは。先生だなんて……ありがとう」
「ほんとうよ」
「うん、ありがとう。さなぎちゃん」
「ふふ」
「ふふ」
しばらく見つめあって、ほたるがさなぎの小さな手をひいた。
「もうすぐ、しゅうかいしつで、おやつをくばる、じかんだよ」
中腰になって、歩幅を合わした。
さなぎは衣服を揺らしながら飛び跳ねた。長い黒髪も一緒に、ふわりと舞った。
「やったぁ」
「さなぎちゃんは、あまいのはすきかい?」
「うん、すき!」
「それはよかった。きょうは、たぶん、カフェオレもついてくるよ」
「ほんとに?」
「うん、さっきから、あまいかおりがするんだ。きっと、カフェオレだよ」
「わたし、カフェオレだいすき」
そのまま微笑み合いながら、寄り添うふたりの姿がゆっくりと、小さくなっていった。
それから、一週間ほど。
自由時間が来る度に、ふたりは僕の前に現れた。楽しげな表情をして、僕の音を聞いた。時折、文庫本を手にしながら、小さなプレイルームに、笑い声が響いた。
ふと、過ぎる。賑やかな保育園。毎日、注目を浴びて沢山の子どもたちに囲まれていた、昔の、僕。皆から必要とされていた、僕の存在。すごく楽しかった。
だけど、この空間も、心地がいい。
✱
今日はやけに、忙しなかった。ひとも、車も、子どもたちも。エプロンをつけた大人のひとたちは特に。朝から施設の中を、走り回っていた。
常に平常心を保っているはずの、ほたるでさえも、今日だけは、少しばかり険しい表情を浮かべていた。
ブルルルル――。
ピーピーピー、バタン。
扉の向こうに大きな玄関口が見えた。お客様用のスリッパや広めの玄関マットがひかれている。その上には、数十個のダンボール箱が山積みになっていた。
ガラス扉が、ゆっくりと開いた。おそらく引越し業者のひとだ。同色の作業着を身につけて、首もとにはフェイスタオルを無造作に掛けている。
引越し業者に気づいたようで、事務室からひとり、中年男性が出てきて丁寧に挨拶をした。
そして、中年男性は、ほたるの名前を叫んで集会室へと消えた。
引越し業者のひとは、山積みになったダンボール箱を抱えて、速やかに、外に運びだした。
しばらくして、ほたるがプレイルームにやってきた。一目散に本棚へ向かうと、一冊の文庫本を大事そうに取り出した。
ひっくり返して、文庫本の裏表紙を眺めた。
「ほたるくん……」
扉の後ろに隠れていたさなぎが、ちょこんと顔を出した。
ほたるが振り返った。
「……さなぎちゃん、あのね、みんなにはないしょだよ」
「ないしょ?」
「うん。みんなには、いわないやくそくってこと。できる?」
さなぎに近づいて、ほたるがしゃがんだ。
「できる」
さなぎは元気に答えた。
「よし……ほんとうは、ここに寄付をしようとおもったけれど、やっぱり、やめた。これ、さなぎちゃんにあげるよ。きみなら、大事にしてくれそうだし、きっと、本も、本棚にいるより、さなぎちゃんの手もとにあったほうが、よろこぶとおもうからさ」
そう言って、文庫本をさなぎの両手に持たせた。裏表紙には、施設の名前が印字されたスタンプがくっきりとついていた。
「いいの?」
「うん、いいの」
「やったぁ! ありがとう、だいじにするね。ほたるくん」
ほたるは、さなぎの頭をやさしく撫でた。
それから――。
「……うん」
照れくさそうに微笑んだ。
小さな手が大きな手のひらの中に包みこまれていった。
ふたりはそのまま玄関口へと向かう。
再び、中年男性が出てきて、ほたるに声を掛けた。若干、涙ぐみながら、ほたるに花束と大きな紙袋を渡した。
「ありがとうございます、渡辺先生。今まで、おせわになりました」
静かに受け取ったあと、その場に座り込んで用意してあった靴を履いた。
ブルルルル――。
沢山のダンボール箱が積み上げられたトラックが先に動いた。急な坂道を降っていって、音が小さくなった。
「それでは、渡辺先生」
小さな自動車が、玄関口の前まで来た。運転席から、ラフな格好をした町田少年が顔を出した。花束と大きな紙袋を抱えたほたるは助手席に乗り込んだ。
「ありがとうございました」
最後にもう一度、助手席から窓を開けて会釈をした。
立ちすくむさなぎを見て、ほたるは小さく手をふった。
「またね」
さなぎは本を抱えたまま一歩前に出た。日差しに照らされて、真っ白な肌がもっと白くなった。
自動車がエンジン音と共にゆっくりと動き出した。
ほかの子どもたちが集会室から出てきて、玄関口の外まで走っいった。エプロンをつけた大人のひとたちも、ほたるに手振った。
ブルルルル――。
車は、坂道を降った。
降って、そのまま静かに消えていき、子どもたちの声は段々大きくなっていった。
本を抱えた小さな影は、凛々しい抜け殻を乗せた車を、大きな瞳で追いかけた。
本を抱えて、見えなくなるまでそこに立っていた。
✱
僕もそろそろ、寿命だった。
最近は、一日中ホコリを被っていることが当たり前で、この姿のままずっと過ごしていることが日常になってきた。
もちろん、音だってまともに何年も出していない。最後に聞いたのがいつだったのかも思い出せない。
もう、前みたいな音色を出すことが出来ないかもしれない。
プレイルームに集まる子どもたちは、今日もテレビや漫画に夢中だった。誰も、僕に触れたりはしなくなった。
強いて言えば、先生たちが、時折、プレイルームの掃除のついでにホコリを取ってくれるだけだった。
晴れた月曜日。
子どもたちが学校へ登校しだして、施設の中は静かになった。幼児が保育園へ行く支度をして、廊下に並んでいた。先生たちは、職員会議を終えて、掃除の準備をしている時間だ。
集会室から掃除機の音が聞こえる。
厨房からは、ひと段落ついた調理師たちの話し声が途切れ途切れに聞こえてきた。
ガラガラガラ――。
若い女性が入ってきた。ほうきとちりとり、それから、使い古した雑巾を手にして、プレイルームの掃除を始めた。散らばめられた漫画や文庫本を拾って本棚にしまい、隣にあった椅子を大雑把に並べ直した。そのまま、僕の頭上に近づいてきて、
カチャン、スウゥゥ……。
小窓を、開けた。暖かい風とともに、散った桜がプレイルームの中まで飛んできた。淡い色をした桜。ひらひらと舞って、僕に近づいたかと思うと、急に離れた。そして、僕の真横で、そっと落ちた。
もう、十五回くらい。この施設に来て、十五回も桜を見たのだ。春は毎年やってきて、必ず桜の花びらを咲かせた。淡い色をまとった。
だけど――。
その一年の間に、子どもたちは何度も入れ替わった。新しく入所をしてくる小さい子どもや、耐えきれずにふらっと脱走してしまった学生。何も知ることがなく乳児院からそのまま施設に来た幼児。それから、突然、親御らしきひとに引き取られていった子どもたち……。
季節が変わらなくても、ひとが居なくなる。
春がきたら、必ず誰かが居なくなる。
この施設で義務教育を終えた迎えた児童たちはみんな、春と共に消えていくのだ。人間は成長する。その過程も早い。昨日まで、一緒の空間にいた子どもたちが、急にいなくなってしまうくらいだ。
僕より身長が高くなって、大人に近づいていき、時が過ぎると、聞き慣れた笑い声が思い出せなくなる。それが、何より嫌だった。
サーサー、サーサー。
若い女性の腕が伸びてきて、ほうきが僕の足もとにあたった。ホコリと一緒に、桜の花びらがちりとりの中へと消えてしまった。
と、その時だった。
「あの、すみません……」
玄関口のほうから女の子の声がした。誰かを呼んでいる。セーラー服を着用した女の子と、その横にもうひとり。小柄な青年も立っていた。
ちょうど、事務室から出てきた園長先生がふたりに気づいた。
セーラー服の女の子が、
「……お、おひさしぶりです。渡辺先生。わたし、いぜん、こちらでおせわになった、あらおさなぎといいます」
律儀に挨拶をした。同じように青年も挨拶をした。
どうやらふたりは、過去にこの施設で生活をしていたらしい。
少し間が空いて、思い出したのか、園長先生が一歩身を引いた。
「おぉ、さなぎぃ! おおきくなったねぇ、げんきにしてたかい? もう、十年以上も前になるのかなぁ」
卒園生がふらっと再び施設に訪れるのはたまにあることだった。
園長先生が、お客様用のスリッパをふたりの足元に置いた。
「えーっと、それから……きみは、ほたるだね。よく、おぼえているよ。ぼくが初めて担当したじどうだったし、すごく、しんぱいをしていたよ。そうだ、今、ちょうど応接室がつかえなくてね、プレイルームですこしはなそうか」
扉が開いた。若い女性はびっくりして会釈をすると、持っていた掃除道具を隠しながらその場を離れていった。
園長先生に連れられて、少し戸惑いながらも入れ替わるように凛々しくふたりが入ってきた。誘導をされて、ふたりは一瞬、視線を合わせあってから椅子に腰をかけると、静かに黙った。
園長先生が、先に話を切り出した。
「ふたりとも、ずいぶんと成長したね。さなぎも、すごく大きくなった。あまりにも成長しすぎて、はは、最初はわからなかったよ。ほら、先生も児童もみんな変わってしまってね、とうとう、ぼくぐらいしか知らないんじゃないかな。きょうは、来てくれてほんとうにうれしいよ。ほたるは……今も元気にしてるかい?」
青年が顔を上げて困ったような表情をしたあと、すぐに空笑いをした。
「はい、ぼくはげんきです。未熟ですが、なんとか教師にもなれました」
「ほぅ、それはすばらしい」
「あの、それから、渡辺先生のことはもちろん、ぼくがここにいたことは、今でもときどきおもいだします。ですが……なかなか足をはこぶことができなくて、それで……きょうまでほんとうにすみませんでした」
「いや。きみがげんきなら、げんきでいるのなら、それでいい……」
園長先生が胸ポケットからカードケースを取り出した。中から、いちまい名刺を抜き取り、
「またなにかあれば、ちいさなことでもいい、ここにでんわをしてきなさい」
青年に渡した。
「ありがとう、ございます」
「あぁ、いつでも、まっているぞ」
数分くらい話をしたあと、しばらくして三人は同じタイミングで立ち上がった。園長先生が「じゃあ、また」と言って、プレイルームから出ていった。ふたりも部屋を出ようとして、女の子が僕に近寄ってきた。小さな手が、静かに触れた。
「さよなら、古いピアノ。またいつか」
小さくささやいて、名残惜しそうに僕から手を離した。
「いこうか、さなぎ」
青年が振り向いて、僕を見つめたあと、女の子に視線を向けた。なぜか悲しそうに、微笑んだ。
「うん、いこう」
たくましい表情をつくって、ふたりはプレイルームから出ていった。
玄関口の外には大きくて派手なバイク。青年と女の子がまたがり、やがて速やかに姿を消した。
時計の針は、十一時をさした。賑やかだった幼児も保育園へ行き、掃除機をかける音も聞こえてこなくなっていた。
そして、若い女性が再び戻ってきて、僕の頭上にある小窓を勢いいよく閉めた。
スウゥゥ……ガチャン。
春の匂いが、薄れていった。
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