第21話 狂った歯車

 直史はやや不機嫌である。

 せっかくこの試合から瑞希が見に来てくれているのに、試合前に会えなかったからだ。

 大介のことがなければ、ホテルを抜け出して会いに行くことまで考えていたのだが、さすがにそんな事態ではなかった。


 だがそんな不機嫌な状態でも、頭はちゃんと計算している。

 本日の対戦相手アメリカは、日本と同じくここまで全勝できている。

 ここ最近のアメリカの成績は、10回の大会のうち七回が優勝と、絶対王者の貫禄が出ている。

「つっても二年前はな。誰も勝也さんを打てなかったけど」

 樋口が言う。前回の日本とアメリカの対決はアメリカの勝ちであったが、とにかく向こうは球数を投げさせて、上杉を早くマウンドから引きずり下ろそうとした。

 それは上手くはいかなかったが、上杉は九回までを投げることは出来ず、リリーフの投手で点を取られて敗北した。

 もっとも結果から見れば、日本はアメリカを無視して、他のチームで勝ちを拾うべきであった。そして決勝で勝つべきであった。

 甲子園の後に調子を落とした選手が多かったので、木下も苦労した。


 不思議なことにこの五年、さらに範囲を狭めると上杉が甲子園に登場してから、日本の高校野球のピッチャーの質は、どんどんと上がっていっている。

 上杉以降世代、と言ってもいいぐらいだ。

 この大会も日本は150kmを投げる投手を五枚も用意しているが、五年前であったらありえないレベルである。

 今の二年にだって、上杉弟、岩崎、豊田などと、既に150kmを投げる投手がいる。

 さらに言えば武史は、一年で150kmを出した。もっともあれはアドレナリンの過剰分泌であった。


 このチームで、アメリカに勝てるのか。直史は樋口と話し合ったことがある。

「当然勝てるけど、メンバー選考は失敗だな。ぶっちゃけ大阪光陰のレギュラーに、若干の他の学校の選手を選んだ方が強かった」

 ピッチャーに、打てる内野と外野を二人ぐらい。それと控えのキャッチャー。長距離砲を二枚ほど。

 その方がチームにまとまりが出て、木下も采配はしやすかっただろう。


 樋口が理想とする、大阪光陰を中心としたメンバー。それは今のチームよりも強くなるはずだ。

 大介に織田、そして実城と西郷あたりと、ピッチャーを集める。

 それで勝てた。大阪光陰の竹中は、そういうリードが出来るキャッチャーだった。

「俺はいらなかったか」

「お前もピッチャーだろ」

 直史と樋口はそんな会話をしながらベンチに入った。




 それとは別に、佐藤家の双子は珍しい事態に陥っていた。

 大介を心配してぎりぎりまでその姿を見送っていたため、球場内で迷子になっていたのである。

 絶対的な方向感覚を持つ二人としては、本来ならありえないことである。大介の怪我は、それだけこの二人をひどく動揺させていた。

 交互に眠っていたとはいえ、睡眠時間も少ない。それでもやはり、精神的な問題であろう。


 正直なところ、それ以外にも問題は発生している。

 イリヤの計画は大介が自分と拮抗することを前提として考えられているので、その大介がいなくなれば、舞台が成立しない。

 一方的に殴るだけのものは、試合とは言わないのと同じだ。演出家としてイリヤは、かなりやる気をなくしている。と言うか、やりようがない。

 せっかく今日は気合を入れて、衣装まで特注していたのに。

 双子も無邪気に応援する気にはなれない。大介の怪我とは、それだけ多方面に影響を与えていた。


 今日からはもう、普通に歌うだけだ。

 そう考えていた二人の前に、巨大な影が立ちふさがった。

 目測で身長196cm、体重は90~98kg。白人男性。年齢は10代後半。

 アメリカ代表のユニフォーム。名前までは憶えてないが、ピッチャーの一人だ。

「ジャパニーズかチャイニーズか知らないけど、日本の応援なんかやめて、アメリカ側に来いよ。今なら俺の隣に特別席を用意してやるぜ」

 なんだこいつは。

 変な訛りがあるので、いまいち聞き取り辛い。こちらをにやにや笑みを浮かべて眺めてくるのは、控え目に言っても不快である。


 普段なら徹底的にやり込める双子であったが、今はそういう気分ではない。

 無視して去ろうとした、桜の方の手首を、男は握り締めた。

「ふざけんじゃねえぞ。無視すんな。どうせメジャーレベルでは通用しない子供たちの集まりなんかほっといて、俺の応援をしろよ」

 殺意が高まる。しかし、すぐにそれが萎んでいく。

 気力がない。

 どうせこんな所で、無茶なことは出来ない。適当にやり過ごしてから、スタンドに戻ればいい。


 双子はそう思ったが、そこへ現れるのはヒーローである。

「何やってんだお前!」

 大介が表情に怒りを乗せて、ずかずかと歩み寄ってくる。

 桜の手を握る男の、手首の辺りを握る。

 大介の握力は100kgを軽く超える。

「Ohhhh!」

 思わず手を離した男は、そのまま数歩後ずさる。


「大丈夫か?」

 振り返りもせずに問う。男の視線には理不尽な怒りが宿っていたからだ。目線を外すのはまずい。

「うん、大丈夫」

「大介君……」

 今どき少女マンガでもない展開であるが、それだけに双子のハートはキュンキュンしていた。


 大介はこいつのことを知っている。

 アメリカ代表のピッチャー。160kmコンビの一人、サウスポーのジェイソン・オコナー。

 だが選手としての能力だけだ。おそらく樋口あたりは、性格分析もしているのだろうが。

「チビの東洋猿が、速いだけの100マイルを打っていい気になってんのか? お前ぐらいのパワー、メジャーならいくらでもいるぜ」

 いない。

「何言ってんのか分かんねーよ」

 早口の英語の上、訛りが強いので、何を言っているのかは分からない。ただ何を言いたいかは分かる。


 大介はこれまでにも、身長のことでからかわれることはあった。

 侮ったピッチャー相手には、全てホームランで返答してやった。それが白石大介だ。

 しかし今、バットを振れない大介は、怒りを制御する術を知らない。

 双子であれば、別に大介が助けてくれなくても、最悪暴力で解決出来た。

 しかしここまで怒りを露にしている大介は、二人も初めて見る。


 一触即発の空気の中、救いの手は現れる。

「ジェイソン! まだここにいたのか! ベンチに入る時間だぞ!」

 ジェイソンと同じぐらい体の大きな、黒人の選手だ。

 アメリカの二枚看板、マーティン・ジェフリーだ。

 ジェイソンはマーティンにわずかに視線をやったが、それだけであとは無視して、その横を通り過ぎる。

 まるでそこに誰も存在していないかのように。




 マーティンは溜め息をついたが、その後を追うことはしなかった。

「すまない。何かされなかったか?」

 こちらは綺麗な英語だ。ぎょろりと大きな目に、愛嬌があるタイプだ。西郷に似ているかもしれない。

「英語が下手くそで聞き取れなかった、って伝えてくれ」

 大介の言葉を双子が通訳すると、マーティンは大きな口を開けて笑った。歯並びがいいな。

「まあ下手くそかな。あいつはフロリダの田舎出身のヒルビリーだから」

 ヒルビリー。マーティンの口調は柔らかいが、どこか投槍でもある。


 日本の英語教育の欠陥として、日常的に使われる言い回しや単語の、教育上不適切と思われるものを教えない、ということがある。

 まあそれはある程度正しい。おそらく小学生や中学生にそんなものを教えたら、いじめで使う言葉が増えるだけだ。

 Fで始まる言葉などは、さすがに映画やマンガでも使われるので有名だが、他にも色々と差別的な、あるいは人格を揶揄した表現はある。

「ヒルビリーって?」

「ああ、知らないか。レッドネックという言い方でもいいかな」

 それもやはり、大介もだが双子も知らない。

 英語の日常会話ぐらいなら出来る双子であるが、やはり英語文化の国で実際に過ごすのとは違う。イリヤならおそらく知っているだろう。


 マーティンはもっと簡単に説明した。

「白人の貧困層。白人のくせに負け犬、と言ったらいいかな。なんというか……アメリカは差別が現在も残っているけど、その一つだ」

 初めて会ったにもかかわらず、マーティンは気安かった。

「アメリカはずっと白人優位社会だったし、今でもその傾向はある。特に州によってはあからさまなものもな。ジェイソンはそんな地域の生まれなんだが、家は貧しかったんだ」

 このあたり、どうも日本人には実感しづらいものがある。

「つまり白人優位な社会のはずなのに、自分は見下す黒人をはじめとした有色人種と同じか、むしろ低レベルの経済状態だっただけに、よけいに差別意識が強いと」

 双子がまとめるに、そういうことらしい。

「あんたはそういうことなさそうだな。あいつにもそんな悪い感情は抱いてないっぽいし」

「人間的には困ったやつだと思うよ。だが気の毒でもあるな。せっかく才能があっても、有色人種のコーチの話は聞かないし。ただプレイ中はフェアなので、そこでなんとかやっていけてる」

 芯から腐った人間ではない、ということか。


 しかし、そう思うと疑問もまた出てくる。

「差別主義者なのに、東洋系の女に手を出すのか?」

「同じ白人だと、逆にコンプレックスがあって上手くいかないみたいだな。それに比べると日本人は黄色人種でも、名誉白人だから」

 マーティンはフレンドリーだが、同時に辛辣でユーモアもあった。

「おっと、本当にもう時間だ。あとはゲームの中でな」

「ああ、またな」


 去っていくマーティンを見送ってから、大介は双子に向き直る。

「俺も行くけど、大丈夫か?」

「大丈夫」

「大介君は頑張れないけど、応援はしっかりするよ」

「おう。じゃあ試合の後でな」

 試合前にざわざわする出来事があったが、どの道、今日の大介には関係ない。

 トイレを済ませて、大介はベンチに向かうのであった。




 なんだか野球の試合前に、考えることが増えてしまった。

 まあ今日の大介は、考えるのが仕事といってもいい。

 試合前の調整練習をする選手を尻目に、色々と話している直史と樋口に近付く。

「ナオ、お前の妹たち、アメリカの選手に強引なナンパされてたぞ。まああっちの他の選手が止めてくれたけど」

「止めない方が良かったな。下手に手を出したら返り討ちにして、相手の戦力削ってくれただろうに」

 直史的には双子の戦闘力はそれぐらいだ。なんでもありなら本当に強い。


 そんな直史を見る樋口の視線は、異常者を見るものである。

「なんか人種差別的なことを聞かされたなあ。MLBってそういや、白人が多いんだっけか?」

 メンバー表を見ても分からないが、向こうのベンチを見れば、確かに白人が多いように思える。

「アメリカの三大スポーツの中で、一番黒人の比率が低くて白人の高いのがMLBだからな。逆にNBAが七割が黒人だ」

 ここでも樋口の雑学が発動する。

「そう言えばそうだな。NBAは全体的に黒人有利か」

 武史と一緒にNBA観戦はしていたので、おおよそ直史も想像できる。

「身体能力うんぬんもあるだろうが、純粋に野球はやるハードルが高いからな」

 サッカーもバスケも、極端な話ボールとコートとなる場所さえあれば、あとは手作りでどうにかなる。

 野球は本来、富裕層のスポーツなのだ。

「あとアメリカで一番人気のあるNFLは、黒人と白人、あとその他の人種の割合の差が、一番小さいからとも言われてるな。アメリカのMLB球団はヘッドコーチはほとんど白人と言ってもいいし、選手の割合もどんどん黒人は減ってたと思う」

「カラードの監督に、白人が従わないってことか?」

 直史はそこが気になった。

「いや、MLBは日本のプロと違って、スター選手だから監督になるってものでもないんだ。ぶっちゃけ言うと、白人選手の方が高い教育を受けている場合が多いから、監督になるってことだとどこかで読んだ」

 身体能力に任せてプレイする選手と違い、監督には頭脳が必要ということだ。いや、日本のプロ野球の監督が脳筋というわけではないが。

 元々その傾向があるならば、仕方のないことだ。長年をかけて改めていくしかないだろう。


 それはそれでアメリカの人種問題ではあるが、とりあえず今は関係ない。

「しかしアメリカも、本気できてるな」

 直史の呟くとおり、アメリカも必勝のオーダーを組んできた。

 先発がマーティン・ジェフリー。MAX160km超の投手である。

 球種はチェンジアップとカットボールだけであるが、これぐらいの球速があれば、それで充分とも言える。握りを微妙に変えてもくるので、手元でナチュラルに曲がったりもする。

 ここまでの試合でも、手強い相手と戦う時は、160kmの二人を前半と後半に分けて使っている。比較的弱いチームと戦う時は、三番手以下を使う。

 三番手でも平気で150kmは投げるので、人材的な面では日本を上回るかもしれない。


 あとアメリカは隣国カナダでの開催ということもあって、メジャーのスカウトが大挙して見にきている。

 そんな状態で自分のスペックを誇示するのももちろん大切だが、チームプレイが出来るかどうかも重要になる。

 よって今大会のアメリカはお行儀が良く、結果的にはチームが一丸となって向かってくるように見えているわけだ。

 それは強いはずである。




 この試合、日本は後攻。

 先発はエース本多。

 一発病さえなければ、間違いなく複数球団からドラ一指名されると言われる人材である。

 スターティングメンバーの発表で、大介がショートにいないことは明らかになっている。

 昨日の最後のプレイを知れば、観客席がざわめくのも無理はない。


 本多にしても、このアメリカとの対戦は、決勝の行方を占う上で、大切なことは分かっている。

 ただでさえ大事な試合で、しかも大介がいない。キューバのフェルナンデスの160kmを打った打者が、今日はいないのだ。

 打たれるわけにはいかない。そう思って投げた、第一球。

(あ、やべ)

 球が浮いた。そしてそれを先頭打者が叩く。


「あ」

「ああ」

「あ~~」


 打球は高い金属音を残してレフトスタンドへ。

 いきなりスタンド入りの、先頭打者ホームランであった。




 強打者を打ち取った後、それほどでもない打者に一発食らう。

 それが本多の特徴である。

 一発打たれた後に、また覚醒したかのように、後続を封じる。

 それもまた本多の特徴である。

 スペック的には一度ぐらいノーノーを達成してもおかしくないのだが、本多にそれが出来ていない理由はここにある。


 そして連続三振の後に、ピッチャーゴロ。

 いかにも本多らしい投球で一回の表は終わった。


「悪い」

 とは言いながらも、あまり悪びれた様子はない。

 帝都一の選手や、関東の選手にとっては、ごく当たり前の事実。

 本多は必ず一試合に一度は失投する。その後はしっかり抑えるので、むしろ早い回に打たれてくれないと怖い。

 ただその失投を、ホームランを打たれてしまうのは困るのだ。


 木下もアメリカ打線を、無失点で抑えられるなどとは思っていない。

 前大会でも上杉が担当イニングを無失点に抑えたが、その交代以後に点を取られて負けた。

 だからある程度の、ロースコアではあるが点の取り合い。そうなると分析していた。

「ほな粘っていくんやで。叩けるとこで叩くんや」

 織田を送り出す木下は、この試合のスタメンを、比較的大阪光陰の選手を多く使っている。

 具体的には、堀、小寺の二遊間である。大介が使えないというのも理由だ。


 別にえこひいきとかいうわけではない。

 彼のゲームプランに必要なのは、粘れる打者だからだ。


 大介が離脱したことによって、160kmを普通に狙って打てる打者はいなくなった。

 普通の投球内容であれば、前半をマーティン、後半をジェイソンの二人で投げて、投球数制限内で完封できる。

 オープニングラウンドでは韓国とプエルトリコ戦でこのリレーをし、プエルトリコのソロホームランだけで封じている。

 馬力だけで相手を完封できる。それがアメリカのダブルエースだ。




 で、それがどうしたって?


 初球、甘い球でもなかったのだが、アウトローのストレートを、織田はセンター前に弾き飛ばした。

(普通のストレートなら打てるっての。上杉さんの方が速かったぞ)

 前年の甲子園で、160kmオーバーのストレートを、上杉から二本ヒットにしたのは、日本選手団の三年の中でも織田だけである。


「あいつ、話聞いとらんやろ」

 思わず苦笑する木下であるが、打ってしまったものは仕方がない。

 二番の小寺には送らせる。

 しかしただ送らせるのではない。ピッチャーに気持ちのいい投球をさせないのだ。


 アメリカのハイスクールの野球のレベルは、素質的には確かに高い。

 しかし日本の高校野球に比べると、勝負への執着は薄い。甲子園がないからだ。

 指導者も、役割は選手の素質を伸ばすこと。いずれプロになる者はなればいいし、野球を楽しむ者は楽しめばいい。

 もちろん勝利を目指さないわけではないが、アマチュアの選手に勝負に徹しろというのは、間違っていると考えるのだ。


 これがプロに行けば逆に、MLBの方がハングリー精神は上回る。日本の場合、プロ球団としても獲得した選手が、ちゃんと育たないのでは困るからだ。

 しかしアメリカは、外国からも素質のいい選手はどんどん集まる。だからある意味、生存競争は激しくなる。

 負ければ故郷へ帰れ。ここが日本とは違うところだ。


 織田のリードが大きい。

 マーティンはその大胆なリードが気になって、バッターに集中出来ない。

 小寺も初球、送りバントの姿勢を見せる。

 マーティンが外せば、小寺もバットを引く。


 球数制限まで投げさせられるとは、さすがに考えていない。

 しかしこのいやらしい攻撃で、少しでも日本への苦手意識を持たせれば、決勝で戦いやすくなる。

 いいリズムでは、球を投げさせない。日本の野球らしく、とことんしつこくいく。


 そして小寺は見事に送りバントを決め、自分の役割を果たした。

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