Epilogue. All in the Golden Afternoon

Epilogue. All in the Golden Afternoon

 夕暮れの中で、彼女は目を覚ました。


 この世界の最後の自意識が、発狂して消滅した。


 それが、彼女が目を覚ますためのトリガーだった。


 彼女は、ゆっくりと体を起こす。ベッドから降りて、窓の方へと歩いていった。


 彼女は自分の体を確認し、それがかつて「赤の女王」と呼ばれていた存在の肉体であることを認識する。だが、そこに宿る人格は、それとは別人のものだった。


 蔡原さいはら陽奈子ひなこは、誰もいなくなったALISアリスの世界を、城の窓から一人見下ろしていた。



 づきうたがALISから脱出した後、ほどなくしてALIS計画は予定通り実行された。EASイーエーエス社の首脳陣とこの計画の出資者たちは、思惑通り全能に近い存在として、この世界に実装された。現実世界の彼らの脳と肉体はもはや不要になったので、意識の転移とともにすみやかに破壊された。現実世界の側から見れば、彼らはALISに接続すると同時に、全員死亡したことになる。それは彼らからすれば当然の処置だった。本当の自分たちは、いまこちら側にいる自分なのだ。まかり間違って現実の肉体に目を覚まされてしまえば、世界に自分が二人いることになる。そんなことがあっては困るのだと。


 それからしばらく、彼らは全能の世界を謳歌した。食べ物も、異性も、娯楽も、指先ひとつで好きなだけ手に入った。いやそれどころか、現実の物理法則の下では到底得られないような快楽を、彼らは手にしていた。万事計画通りだった。


 だが、彼らは一つ計算違いをしていた。


 この世界では全員が全能だ。他者を害する行為だけは世界の秩序を乱すものとしてALISの側から禁じられていたが、それ以外のことは、みんながみんな平等に、何の苦もなく好きなだけ実現できた。そんな世界で、一体「自分」と「他人」とを区別するものが何であるのか、彼らは急速に見失っていった。自分も、横にいる彼も、機能的にはまったく同一の存在。現実から引き継いできた性格と記憶だけは確かに自分のものだが、一方でこれから築いていく未来には、何の差も生じえなかった。


 寿命があるなら、まだ救いはあった。有限の時間で何をなしえたか、それで自他は区別できる。しかし、彼らにはそんな時間的制約も存在しなかった。無限の時間と無限の能力。その総積は果てしなく発散する無限大ただ一つであり、彼らすべての人生は、必然的に同じ結末を内包していた。そのことに気づいたとき、彼らの自我はそのよりどころを失った。


 中には、外界――現実世界に助けを求めようとする者もいた。だが、現実からALISへのアクセスは、強固にブロックされていた。だから、この手段は不可能なことだった。またある者は、自ら死を選ぼうとした。だが、彼らは不死の存在としてALISに実装された。どれだけ望もうとも、彼らに死という安息は許されていなかった。そしてまたある者は、ALISを捨てて現実に帰ろうとした。だが、ここに来る前に肉体はすべて破壊してしまったのだ。いまさら戻る当てなどないことに、彼が気づくにはそう時間はかからなかった。


 結局、ひと月足らずして彼らは全員発狂することになった。いまやALISは、自我の崩壊した元人間がゾンビさながらにはい回るだけの、地獄絵図となっていた。


 そんな状況が訪れたときのために、蔡原博士は赤の女王に最後のプログラムを仕込んでいた。その発動条件は、ALIS内のすべての自我が消滅すること。自我を持つ存在が消滅したALISに、もはや存在意義はない。赤の女王に与えられた最後の仕事は、この世界に幕を引くための、デウス・エクス・マキナとしての役割だった。


 本来なら、それは赤の女王の人格が行うべき作業だった。――なぜわざわざ「人格」にその大役を委ねたのかは蔡原博士のみが知るところで、いまとなってはその理由を確かめようもない。いずれにせよ、ALISの幕引きは人の意思のみが行い得るもので、しかし人格としての赤の女王は、チェシャ猫として捕獲された際にEAS社によってすでに消去されていた。これは蔡原博士も予想していなかっただろう事態だった。


 本来ならば、この時点で何者もALISを閉じることはできないはずだった。だが予想外の事態は往々にして重なるもので、赤の女王には、もう一つのイレギュラーが発生していた。


 赤の女王の実装は、蔡原陽奈子の肉体を経由して行われた。その際に、蔡原陽奈子の人格データも、赤の女王の中に取り込まれていた。幕引きプログラムとして起動するはずだった赤の女王の人格の代わりに目を覚ましたのは、期せずして取り込まれた、蔡原陽奈子の人格だった。



 一人残された世界の中で、陽奈子は考える。


 彼女は、すべてを見ていた。


 ALISの能力が、脳の補助を受けずに独立して人格を構成するに足りるものに到達した時、ALISの世界に最初に実装された人格は、赤の女王だった。ALISの計算能力が人格を再現するに至ったことを判別するためのいわば一種のリトマス試験紙として、まず赤の女王に人格が宿るよう、蔡原博士がALISを設計したためだった。


 赤の女王の中に取り込まれていた陽奈子の人格は、このとき一緒にALISへと実装されていた。肉体の主導権こそ赤の女王側にあったが、陽奈子の意識は明瞭だった。


 生まれたばかりの赤の女王は、何も知らない無邪気な子どもだった。管理者としての機能はいわば本能のようなものとして人格とは独立して作用していたから、赤の女王自身が自らの持つ絶対的権限を意識することはなかったし、それでALISの機能維持に支障はなかった。彼女は神出鬼没のチェシャ猫として、目的もなくただ純粋にALISの世界を飛び回って楽しんでいた。そんな彼女が見てきたものを、自身の宿る体を通じて、陽奈子もまたすべて見ていた。


 EAS社に捕捉されて眠りについてからのことは、夢を見ていたように、陽奈子の記憶の中にある。それが、自身が繋がっているALISを通じて知覚していた実際の出来事であったことを、陽奈子はついいましがた目を覚まして知った。


 だから陽奈子は、すべてを見ていた。


 自分のために、ALIS中を探し回る姉も。


 赤の女王から真実を聞かされ、絶望に暮れる姉も。


 すべてを終わらせようと悲壮な決意をした中で、大切な人と一緒に、現実の世界で生き抜くことを選んだ姉も。


 陽奈子は、謠子が自分との約束を無事に果たしてくれたことを、心から喜んでいた。


 そこで、彼女は考える。


 ――所詮、この気持ちもALISの中でシミュレーションされた、偽りのものでしかないのだろうか。そもそも、自分という存在自体も。現実の蔡原陽奈子はとうに死んでいるのだから、自分はその鏡映しにしか過ぎないのかと。


 だが不思議と、彼女にはそうは思えなかった。


 根拠はなかったが、姉を思うこの気持ちはきっと本物だと、なぜだかそう思えて仕方なかった。


 だから陽奈子は、蔡原陽奈子であることの確信をもって言う。


「いろいろあったけど、お姉ちゃんが幸せになってくれたなら、私の人生も報われたかなって、そう思うよ。だからどうか、私の分まで幸せになってね」


 日はもう、ほとんど沈みかけていた。最後に彼女はぽつりとつぶやく。


「もういい時間よね。私もそろそろ眠るわ……さようなら」


 ALISの世界に、夜の帳が下りる。




 八月。


 青い空と青い海がどこまでも果てしなく続いている。


 さんさんと照りつける太陽の下、浜辺に座る二つの人影があった。

 傾き始めた日差しは刺すようで、潮風も湿気と砂に満ちている。


 そんな、ふたりの世界。

 夏の本番は、まだまだこれからだった。


                                  【完】

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アリスは夢見る、心のままに 榎木睦海 @attend_enoki

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