Article 4. Who Stole the Heart? ⑨

 づきの言葉に、うたは悲しそうに言った。


「ええ、そうね。ALISアリスは単なる道具だわ。そういう意味では、確かにこれに罪はないのかもしれない。でもね、私は赤の女王から聞いたのよ。EASイーエーエスの手を離れていた彼女は洗いざらい話してくれた。何のためにこんなものが作られたのか、その目的を」


「それは……どんな目的だったの」


 きっと、知らない方が幸せなのだろう。それでも真実を聞かずにはいられない。


 静かに、どこまでも冷え切った声で、謠子が告げた。


「彼女は……赤の女王は言ったわ。この計画にはたくさんの出資者がいるって」


「出資者って……」


 葉月の声がかすれる。


「欲にまみれたEAS社の幹部と出資者たちは、現実の肉体を捨ててこちらの世界に移住する算段だった。ALISに自分自身をそっくり再現して、老いも死もない人生を満喫する。……この世界は、そんな一部の金持ちの、ふざけた欲望を実現するために作られた。そのために連中は、日本中の人間を実験台にしたのよ。EASには初めから、ALISを社会に還元するつもりなんてなかったんだわ。この計画を主導した人間は、自分たち以外は単なるモルモットだとしか思っていない」


 そんな……と葉月は絶句した。


 外界から電力の供給さえ受けられれば、ALISには実質無限のリソースがある。物理法則すらも超越して、望むものは指先ひとつで実現できる。――現実のあらゆる制限から解き放たれたALISでは、個人個人がいわば神にも等しい力を振るえる。


 ALISは、夢のシステムでもなんでもなかった。汚い人間の、私欲の掃き溜め。それが世間をにぎわせた仮想現実の正体だった。


 謠子の言葉に、熱が、憎しみがこもっていく。


「私はね、ALISも、まあいいかなって思っていたのよ。ALISが社会のためになって、人々の幸せにつながるのなら、きっとこのシステムは世の中から望まれた存在なんだって。つらかった日々も、陽奈子ひなこのことも、本当は許せなかったけど、みんなが喜んでくれるなら、それで受け入れようと思った。……だから、葉月がALISの話をしてくれたとき、私は嬉しかったのよ。こんな風に喜んでくれる人がいて、私の苦労も少しは報われたんだって。……でも、それも結局まやかしだった。ALISは社会の為なんかじゃなく、一部の選ばれた人間だけのものだった」


 謠子の胸の内が、葉月には痛いほど伝わってきた。自分の苦労は、みんなの幸せのためだったんだという思い。過去を乗り越えるためのそんな最後のよりどころすらも、現実は無残に打ち砕いてしまった。


 謠子は、いつの間にか再び光の球を手にしていた。禍々しい光に照らされたその表情には、悲壮な決意が満ちていた。


「だから、全部ぶち壊してやることにしたのよ。赤の女王にALISのすべてを聞いたときに、そう決心したわ。塩漬けにしていたお金で、設備はみんな買い戻した。足りないプログラムは一から作った」


「先週の欠席は、そのために……」


 葉月の声が力なく響く。ということは、昨日の打ち合わせもすでに計画の一部だったのか。そんな葉月の心を見透かすように、謠子が告げる。


「最後のカギが、昨日完成させた憲法だったのよ。……本当はあなたとの憲法をこんなことに使うつもりはなかったのだけれど。立法学を選択したのは、いまにして思えば運命だったのかもしれないわね」


 背負ってきたものすべてを前にして、自分に言い聞かせるように、謠子が宣言した。


「私は、こんな結末認めない。こんなもののために、陽奈子の人生はめちゃくちゃにされてしまった。全部終わりにしてやる。私が、幕を引いてやる!」


「謠子、待って!」


 思わず一歩前に出た。謠子は張り裂けそうな声で、葉月の声を遮る。


「止めないで! いま、この世界には楽園に逃げ込もうとするEASの幹部と出資者たちが接続されている。じきにALISは完全に起動して、彼らだけの閉じた世界になるわ。外界からのアクセスも一切遮断して、特権階級気取りの夢物語が完成する。だから、その前に……!」


 謠子の手の上の光の球が輝きを増した。それで、世界を上書きするつもりなのか。いやそもそも、そんなことは本当に可能なのか。


「そんなの、うまくいく保証もないじゃない! うたこくと、ALISは何もかも違う。スケールも環境も。憲法は、ここでもきちんと機能するなんて、そんな確証どこにあるの!」


 とにかく、謠子を思いとどまらせねばならなかった。葉月は思いついたことをがむしゃらに叫ぶ。だが葉月の必死の呼びかけに、謠子はなぜか小さく笑った。


「ふふ、その点は確認済みよ。というより、必然的に問題ないの。ねえ葉月、私たちが使っていた大学のシミュレーター、あれの出所ってどこだか知ってるかしら?」


 シミュレーターの出所? そんなもの、葉月にわかるはずなかった。とにかく何か答えなければと思うが、何も言葉が出てこない。黙り込む葉月に、謠子が冷え切った声で言葉を続けた。


「あれはね、ALIS開発用のプロトシミュレーターだったのよ。ALISの本格開発の、前段階用のね。EAS社が開発したけれど、ALIS実現のめどが立った時点で売却された。まさか、あんなところに流れ着いているとは思わなかったわ」


 葉月は、謠子が最初にシミュレーターを見たときに、とても驚いたような表情をしていたことを思い出した。謠子はあれが何なのか知っていたのだ。


「いわば、あのシミュレーターの世界はALISのミニチュアなのよ。だから、謠葉国憲法はこの世界でも問題なく機能するわ。……楽園を夢見た連中に、地獄の社会を味わわせてやる。目を覚ましたら、そこに広がるのはディストピアよ。現実からこっちに来たことを、死ぬまで後悔すればいい」謠子のものとは思えないような、ドスのきいた声。


「謠子は、謠子はどうなるの!」


 無我夢中で問いかける。


 この世界をディストピアに作り替えて、それで謠子はどうするのか。


「私もここに残るわ」


 謠子は、静かにそう告げた。その目は本気だった。これだけ壮絶な過去を聞かされて、ここまでのことを実行に移して、それで冗談だと思う方がおかしいだろう。すべてを失った謠子は、この世界と心中するつもりなのだ。


「そんな……っ。謠子は、それでいいの⁉」


 その質問に、謠子は悲壮な声で答えた。


「私はね、このディストピアも悪くないと思っているのよ。昨日も言ったでしょう? 誰かを犠牲にして一部が幸せになる社会なんて、本当にそれでいいのかしら。私は、みんなが平等に幸福も不幸も共有して、手を取り合って生きる社会も、一つの世界の在り方なんじゃないかって思うのよ」


「だけど、そんなのは……」


 そんなものは、夢物語に過ぎないはず――いや、はず


「確かに、現実でそれをやろうとしたお馬鹿さんたちは、みんな破滅していったわ。でもこの世界には無限のリソースと、私欲を捨てたAIがある。何より、私たちの憲法の実効性は、葉月もよく知っているでしょう? ここでは、それが現実になるのよ。……私にとってはね、誰かに不平等を押し付ける現実の方が、ずっとずっとディストピアなのよ。そんな現実に比べたら、個人が抑圧されてでもみんな平等な社会の方が、よっぽどマシよ!」


 謠子の言葉は、真に迫っていた。彼女の過去をすべて聞いたいまなら、その考えに納得できる自分がいた。謠子と陽奈子は、この不平等な世界でババを引かされ続けてきた。謠子がやろうとしていることは、彼女の、この不条理な世界に対する革命なのだ。


 それでも葉月は考える。謠子は、本当にそれを望んでいるのだろうか。もしその革命を実現したいだけならば、あんな意味深なメッセージを残す必要など、なかったはずだ。


「……どうして、私に書置きを残したの?」


 葉月の問いかけに、ふいに謠子の口調が優しげなものになった。


「……そうね、どうしてかしらね。本当は、何も手掛かりなんか残さず、黙って消えるべきだったのよ。正直なところ、私もどうしてあんな言葉を残したのか、よくわからないの。でも、あなたと過ごしたこの二か月間は、本当に楽しくて幸せだったわ。それは紛れもない事実で、そんな思いが、私にそうさせたのかもしれないわね」


 そんなことを言われたら、何と答えていいかわからない。いきなり胸が苦しくなって、わけもなく泣き出しそうになる。


 謠子は自分のことを大切に思ってくれている。それはとても嬉しいことだけれど。


 張り裂けそうな胸の中で、しかし葉月は、やめて――と叫んでいた。謠子の想いがそうならば、おそらく、次に彼女が口にする言葉は――。


 葉月の想いに重ねるように、謠子がとどめの一言を投げかける。


「こんなところまで追いかけてきてくれて、私は本当に嬉しいのよ。だったらいっそ……。――――ねえ葉月。私と一緒に、私たちふたりの国に、来てくれないかしら?」


 ああ、やっぱり。


 謠子と一緒に、ふたりの理想のディストピアに閉じこもる。


 謠子が「ここに残る」と言った時点で、葉月には薄々この結末が見えていた。いや、そもそもこの城に来る途中、ALISを駆け抜けていたときから。


 また月が出てきた。文字盤から差し込む光を受けて、謠子の姿がくっきりと浮かび上がる。柔らかな光に照らされた彼女は、さまよい人を導く女神のようで。


 謠子の思想は、葉月には痛いほど理解できるものだった。


 現実なんて不条理なものだと、ずっと思っていた。自分を放っておいてくれない世界に、他人と愛し合える人間が尊ばれる不平等に、いつも憤っていた。自分の不甲斐なさを自覚させられるたび、世の中を、社会を、自分を呪った。こんな現実なんて消えてなくなればいいと、そう考えることも幾度もあった。


 いままさに、その機会が訪れている。自分の望みが現実になろうとしている。


 理不尽も不平等もない世界で、謠子とともに過ごす。それは、ある意味では悪くない選択肢のように思えた。


「でも……」


 葉月のつぶやきに、謠子は眉をひそめた。


 でも、と葉月は考える。自分と謠子のディストピア。この二か月半を思い返して、自然と口から言葉がこぼれた。


「その世界じゃ、謠子にメッセージも送れない」


 ――謠葉国憲法は、通信の秘密を保障しない。


「チェスも、カラオケもできない。謠子と一緒に遊べない」


 ――謠葉国憲法は、集会の自由を認めない。


「好きな映画のことも、好きな小説のことも、謠子と自由に話ができない」


 ――謠葉国憲法は、国家の思想に反する表現の自由を認めない。


「謠子と一緒に、旅行もできない」


 ――謠葉国憲法は、国民の自由な移動も、出国も認めない。


 なにより。


「その世界じゃ、謠子と一緒に幸せになれない。私たちだけの幸せを、見つけられないんだ」


 ――謠葉国憲法は、個人の幸福追求を、認めない。自分らしい幸せなんて、国にとって害悪でしかないから。


 そこまで口にして、葉月は泣いていた。涙があふれて止まらなかった。言わなきゃいけない。伝えたいことは、いま、伝えなきゃいけない。あのときみたいな後悔は、もう二度としたくないから。葉月は、湧き出る感情のままに絶叫した。


「私は、そんな世界は嫌だ! そんな世界じゃ、私がしたいことはなんにもできない! 確かに現実は理不尽で、不条理で、くそったれだけど。でも、それでも、謠子のいる現実が私にとっての理想の世界なんだ! 私は、こんな作り物じゃなくて、本物の世界で、謠子ともっと一緒にいたい! それが私の幸せだ! 邪魔するな!」


 理屈なんてなかった。


 溢れる思いに身を任せて、謠子の方に駆け出す。そのまま彼女の胸に飛び込むと、思いっきり抱きしめた。謠子の胸に顔をうずめて、葉月は小さくつぶやいた。


「それに、約束したじゃん……。海、見に行くって。約束、破るの……? それともALISの海なんか見て、そんな偽物で、それで満足なの?」


 謠子にしがみついたまま、葉月はその場に崩れ落ちる。最後に一言、言わねば気が済まなかった。


「私がいるのに。こんなくだらない世界のために、私の幸せを壊すの? そんなの、許さないんだから……。謠子の馬鹿」


 ふっ、と謠子が小さく笑って息を吐くのが聞こえた。座りこんで目線を合わせた彼女が、力強く葉月を抱きしめる。葉月ももう一度、力いっぱいそれに応えた。


 光の球は、もう消えていた。


 葉月の頭に手を回して、謠子が膝へと乗せてくれる。謠子に見下ろされて、葉月はなぜだか不思議な安心感に包まれていた。


 震える声で、謠子がぽつりと言った。


「……馬鹿はどっちよ」


 葉月の頬に、一粒の滴が落ちる。その言葉を聞いて、葉月も笑った。月の光に照らされた謠子の顔をじっと見つめる。


 優しい笑みに彩られたその顔は、相変わらず、とてもきれいだった。

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