Article 4. Who Stole the Heart? ⑧

「私はね、チェシャ猫の話を聞いたときに、陽奈子ひなこじゃないかと思ったのよ。父は、私と陽奈子にALISアリスへの秘匿回線での接続方法を教えていた。づきから聞いたチェシャ猫の様子は、秘匿回線で接続したときの状況そのものだったわ。この世界でその方法を知っているのは、おそらく私とあの子だけのはず。私以外にそんな真似ができる人間がいると聞いて、とっさに陽奈子だって思ったのよ」


「でも……でも、妹さんは……」


 彼女は、もう亡くなっているのだ。いくらALISでも、死者をよみがえらせることはできないはずだ。


「そうね。冷静に考えれば、そんなことはありえないって分かり切っていたわ。でも私は一縷の望みにかけた。ALISなんて二度と関わりたくなかったけれど、それでも、陽奈子かもしれないって気持ちが押さえられなかった。それで、父から聞いた方法でログインしたの。……いま思えば、止めておけばよかったのにね」


 月が雲に隠れた。部屋の中が一気に暗くなり、うたの表情はうかがえない。だが、彼女の言葉は暗い影を帯びていた。いよいよ、真相に近づいてきたように葉月には思われた。


「私が植物園で謠子を見たのも、そのときだったんだね」


「あのときはまさか見られているとは思わなかったわ。……そうして私はALIS中を飛び回っていたけれど、一方的な鬼ごっこは無理があった。どうしてもうまくいかなくなって、私は賭けに出た。秘匿回線での接続者だけが探知できるように、特別な信号を出したの。赤の女王に見つかるリスクはあったけれど、結果的にこの作戦はうまくいったわ。チェシャ猫は私のところに飛んできた」


 葉月はごくりとつばを飲み込んだ。謠子とチェシャ猫は、接触していたのだ。葉月は、聞かずにはいられない。


「……チェシャ猫の正体は、誰だったの? まさか本当に、妹さん?」


 少しの間をおいて暗闇の奥から聞こえてきたのは、悲しげな声で告げられた真実。


「いいえ、違ったわ。彼女は陽奈子じゃなかった。……むしろそれ以上にありえない存在だった。ねえ葉月。チェシャ猫の正体は、赤の女王だったのよ」


 チェシャ猫の正体は赤の女王? そんな馬鹿な、と葉月は思う。弓美の話によれば、赤の女王は、所詮は管理用の人工知能だ。いうなれば、ただのシステム――プログラムでしかない。


 そこまで考えて、いや、と思い直す。ひょっとしたら、そういう機能を与えられていたのかもしれない。


「直感的には理解しにくいけど、でも、そういうこともあるものなのかな。NPCみたいなものと思えば……」


 先ほどの謠子の話の通りなら、赤の女王は一個のアカウントとしてALISに存在している。アバターなんかも持っていて、それで動いたりしゃべったりできても、別におかしくはないようにも思われた。


「ええ、そうね。たしかに、NPCの一種だと思えば、別におかしくはないわ。でも、決定的な問題点があるのよ。赤の女王は、ALISの中枢、制御システムそのものだわ。その存在を、動向を、運営が把握していないわけがない。でも事実として、チェシャ猫はEASイーエーエス社のコントロールを超えていた。これって変だと思わないかしら?」


 謠子の示唆に、葉月は「確かに」と納得するほかなかった。言われてみればそうだ。運営がチェシャ猫のことを捕捉できていなかったというのは、腑に落ちない。考え込む葉月に、謠子が重々しい声で告げる。


「結論から言うとね。状況としてはやはりおかしかったのよ。……私は赤の女王と話したわ。なぜ彼女が自由にALISの中をうろついているのか。一体何がどうなっているのか。無邪気な赤の女王は、一切合切を私に話してくれた」


 そこで謠子は一度言葉を切る。


「……ところで葉月、ALISって何の略称だか知ってるかしら?」


 突然話題が変わった。困惑のさなか、謠子からの質問に葉月は再度考え込む。ALISが何の略称かなんて、気にしたこともなかった。周りの人間も、テレビでもネットでも、みなALISはALISと呼んでいる。いや思い返せば、EAS社自体も、ALISとしか呼んでいなかったのではないだろうか。


「謠子、わからない。そもそも正式名称なんてあるの?」


 暗闇の向こうで、謠子が皮肉げに笑った気がした。絞り出すような声で答えが告げられる。


「開発に携わっていた私ですら知らされていなかった。ALISの名前は、Artificial Life Implementation Systemの頭文字をとったもの。日本語で言うなら、人工生命実装システムってところね。……ALISの正体はね、仮想空間内に人の生命を人工的に再現するためのシステムだったのよ」


「それって、どういう……」


 謠子の言っている言葉の意味が、よくわからなかった。人の生命を再現するとは、どういうことだろう。


「ALISの仕組みは、知ってるわね?」


「弓美さんから聞いたよ。細かいところはわからないけど、大枠は理解してると思う」


 葉月の返事を受けて、謠子が続けた。


「ALISは、接続者の脳の状況を解析してそれを仮想空間に再現する、双方向なシミュレーターよ。その機能には解析とフィードバックの対象である、現実の脳が存在することが前提になっているわ。ALISは、いうなれば効率よく人間に妄想を体験させるためのツールでしかなくて、あくまで妄想の本体は、現実に存在する接続者の側にある。ここまではいいわね?」


 葉月は一言一言をかみしめるように、どうにか理解している旨を伝えた。謠子が説明を進める。


「人間の脳なんて、所詮は電気信号と化学物質のやり取りに過ぎないわ。だから、それらの在り方を完璧に解析して理解できれば、そしてシミュレーションできれば、人間の脳を、意識を、コンピューター上に再現できるはず。そんな仮定の下にALISの開発は始まった。思惑通り、ALISは一つ一つ着実に課題を克服していったわ。とうとう、接続者の脳と常時リンクして、その人格を完全に再現するところまで到達したの。そこで残された最後の壁は、接続者とのリンクを絶つこと。ALISの真の目的は、この壁を超えた先にあったのよ。EASは、接続者の脳の補助なしにはなしえないはずの人格の再現を、ALIS単独で実現しようとしていた」


 謠子の説明を聞いても、葉月はあまりピンときていなかった。謠子が補足する。


「もっと簡単に言えばね、補助輪である接続者の脳の力を借りずに、一個の人格ある生命を、コンピューター上に実装しようっていう、そういう取り組みだったのよ。だから、人工生命実装システムなんだわ」


「でも、そんなことできるの? 弓美さんが言ってたよ。ALISは、接続者の脳の状況を仮想空間に再現して、そこで体験したものを現実の脳にフィードバックするって。で、ALISに入力される値が、現実の脳の状況なんだよね。脳を接続しないなら、そもそも何に基づいて、シミュレーションを行うの?」


 葉月の質問に、謠子の声のトーンが少しだけ軽くなる。


「いい着眼点ね、葉月」


 そう言って褒めてくれた謠子の声に、ふたりで過ごした水曜日の午後を思い出して、葉月は途端に胸が苦しくなる。謠子の優しいその声を、なぜこんな形で聞かねばならないのか。


「確かに、初期値の入力だけは必要だわ。でも、必要なのはそれだけ。最初に一度接続すれば、もうALISには現実側の脳はいらないの。実証実験中のALISは自分だけでは脳の状況を計算しきれなかったから、刻々と変化する接続者の脳の状況を逐一取得することで、どうにかシミュレーションを実現していた。でもいまはもう違うわ。ALISは初期値さえ取得してしまえば、その後の人間の脳が、意識すらも含めて、どのようにふるまうかを完全に学習したのよ」


葉月は、謠子の口にしたある言葉が引っ掛かった。


「ALISが学習? それってつまり……」


 確か以前、謠子は言っていた。人工知能の基本は学習だと。ということは、ALISは……。


「葉月の思っている通りよ。ALIS自体が、一個の巨大な人工知能なの。ねえ葉月、もう一つ大事なことがあるわ。ALISは一体、何をもとに人間のふるまいを学習したのかしらね。ALISは一体、何のデータを食べたのか、気にならないかしら?」


 葉月はまたしても答えられなかった。謠子の問うていることはわかる。学習をするためには、その教材となるデータが必要だ。謠葉国の管理統制AIが世界各国の憲法をもとにして学習をしていったように。だが、葉月はALISが何をもとにして自らを進化させていったのか、皆目見当もつかなかった。黙り込む葉月に、謠子が静かに種明かしをする。


「答えはね、一般ユーザーたちよ。ALISの実証実験というのはね、このことを指していたの。ALISは、自分に接続した膨大な一般ユーザーのふるまいと脳の動きを、データとして蓄積していった。ALISを一般に開放して、システムが自力で人間の脳の動きを完全に再現できるくらいのデータを社会から調達する――それがこの計画の最終段階だったのよ」


 そういうことだったのか。なぜEAS社は、ALISの実証実験を、広く一般社会を対象に行ったのか。それは、老若男女あらゆる人間に脳を接続させ、その中で起きる脳の動きを、無数に収集するためだった。そうして集めた何百万人にもおよぶ数千万秒分の精神活動をもとに、ついにALISは補助輪に頼らず、脳の動きを自己完結的にシミュレーションする力を手に入れた。


 そのことを理解して、葉月は衝撃を受けるとともに強烈な気味悪さを覚えた。ALISの中での自分のふるまいは、すべて記録されていた。動作だけではなく、心の中の動きすらも。自分が抱えていた葛藤も、謠子への思いも、自分だけのものだと思っていた葉月の心は、すべてALISが自立するための材料にされてしまった。


「赤の女王がEASの監視から逃れていたのは、これが理由だったのよ。完成したALISによって、赤の女王は人としての意識を手に入れた。そうして彼女は、EASの監視から姿をくらましてALIS中を逃げ回っていたわ。――もっとも、彼女には目的なんかなくって、ただこの世界で遊んでいただけのつもりだったみたいだけど。ALISの完成に気づいたEASはサービス終了を決定して、彼女を捕まえるべく奔走していたわ。まあ、赤の女王はALISの全権限を握っていたから、捕獲作戦はさぞ大変だったでしょうけどね」


 謠子がチェシャ猫の真相について淡々と説明する。その間もずっと、葉月は全身を蝕む不快感をこらえていた。それでも、自分の体験を正当化するように、あるいはすがるような気持ちで、葉月は言葉を絞り出した。


「でも……でも、それって、別に悪いことじゃないよね。もちろん、勝手にそんなことされてたのは気持ち悪いけど……。でもそれは別に、ALISがさらに進化したっていう、それだけのことだよね……?」

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