Article 4. Who Stole the Heart? ⑦
時計塔の最上階は、大きく開けていた。
その文字盤の前に、静かに街を見下ろす一人の女性が立っていた。長い髪が月の光を反射して、幻想的に煌めいている。
「
葉月は大声で叫んだ。早足で彼女のもとに近づいていく。葉月の声を聴いて、謠子はゆっくりと振り返った。
「あら葉月。こんばんは」
この場には似つかわしくない暢気な声で謠子が挨拶をする。かすかに微笑みを浮かべるその姿は、現実の彼女と少しも変わるところはなかった。ただ一点を除いては。
謠子の手の上で禍々しくうごめく光の球。青白い光を放つそれを見て、葉月は足を止めた。
「謠子、それは……」
葉月の問いかけに、謠子は自分の手元を見やると、にっこりと笑って答えた。
「あなたと私の憲法よ。
「それを、どうするつもり……」
「ふふ、ここまでたどり着けたんですもの。私が答えなくたってわかってるでしょう?」
謠子が挑戦的な笑みを浮かべる。葉月が黙っていると、彼女は続けた。
「私の謎掛け、どうだったかしら? 即興で考えたにしては、なかなかだったと思うのだけど」
その言葉に、葉月はただじっと謠子を見据えていた。一瞬の間。それから、彼女の問いかけには答えず、ただ一言口にする。
「ねえ、どうして……」
謠子もまた、葉月の質問には答えなかった。代わりに彼女はおもむろに光の玉から手を離す。そのまま宙に浮かび続けるそれを見やりながら、謠子が穏やかに呼びかけた。
「ほら葉月、こっちに来てみて。きれいな夜景よ。キャロルが暮らした街並みと、満天の星空。こんなの、現実じゃ見られないわ」
謠子が文字盤に、その向こうに広がるALISの世界に向き直る。葉月は彼女に言われるがまま、その隣に並んだ。
時計塔から見下ろす景色はどこまでもきれいで、しかし、完全に死んでいた。そこに生命の気配は感じられない。冷たい街をぼんやりと眺めながら、葉月は口を開いた。
「
「そう」
簡潔な言葉だけが返ってきた。うつむく葉月からは、頭半分以上高くにある謠子の表情はうかがえない。
「私の……それに
葉月が黙ってうなずくと、謠子はどこまでも冷え切った声で、滔々と話し始めた。
「私の父は、まあ天才だったわ。
葉月は黙って首を縦に振った。謠子は静かに話を続ける。
「運が悪かったのは、私にも陽奈子にもそれなりに適性があったことだわ。朝昼晩毎日毎日、私たちはひたすらモニターに向かい、電極を全身につけて、キーボードをたたいては、よくわからない電流を浴びる、そんな生活を続けていたわ。――辛くなかったと言えば嘘になるわね。それでも、私は耐えられた。私のそばには、いつも陽奈子がいたから」
謠子がゆっくりと歩き出した。教師が教室を巡回するように、ぐるりと広間を歩いていく。葉月も顔を上げて、彼女を目で追った。
「そんなある日、彼の研究も大きな転換点を迎えようとしていたの。仮想世界自体の構築がおおむね完成して、いよいよ制御システムを実装する段階になったわ。ねえ葉月、制御システムって、なんのことかわかるかしら」
謠子の唐突な質問に、葉月はうろたえた。嫌な予感がする。質問に対する答え自体は簡単だった。ALISの制御システムなど、一つしかない。
「赤の女王……」
「そう、赤の女王。彼は、赤の女王を一つのアカウントとして実装しようとしたの。だけど、単なるプログラムでしかない赤の女王は、ALISに一個のアカウントを獲得するための、その入口となる肉体を持たなかったわ」
話の流れが、嫌な方向に向いていた。先ほどの予感が気のせいであってくれと強く思う。全身を走る悪寒に耐えながら、葉月は謠子の話を聞いていた。
「どうしたものかと彼は悩んだわ。機械やデータは経費で買えても、さすがに人間は無理だものね。そこで彼は気づいたのよ。赤の女王を実装するための、ちょうどいい肉体と脳がすぐ近くにあることに。でも、あいにくそれは二つあった。彼は少し考えて、ちょっとだけ優秀な方を温存することにしたのよ。彼は、陽奈子を赤の女王を実装する触媒に、実験材料にしたわ」
葉月は、こらえきれないほどの胸のむかつきを覚えていた。猛烈な吐き気に、思わずかがみこんでしまう。全身の震えが止まらない。自分の娘を人体実験に? そんなことが許されていいのかと、葉月の脳はただひたすらに理解を拒否していた。
――どのくらいそうしていただろうか。ようやく葉月が落ち着きを取り戻すと、謠子はまた話し始めた。
「実験はうまくいったわ。赤の女王は晴れて、ALISの世界に顕現した。陽奈子も、別に気が狂ったり、意識不明になったりはしなかったわ。ただ、寿命が七十年ばかり縮んだだけで。それから半年ほどして、あの子は亡くなった」
その言葉に、葉月はただ顔を歪めることしかできなかった。
いま謠子はどんな気持ちでこの話をしているのだろう。おそらく他人に聞かせるのは初めてのはずだ。弓美もここまでのことは知らなかった。こんな過去を、謠子はずっと一人で抱えていたのか。
「陽奈子がいなくなって、私はいよいよおかしくなりかけた。でも、あの子と約束をしていたから、それだけを励みに私はひたすらに耐えたわ。そうして去年の夏、彼があっさり病気で死んだ。人生を、娘をささげたALISの完成を目にすることなく、本当にあっさりとね。それで私も、これまでの二十年が嘘だったみたいに、自分の人生を取り戻した」
そうなのだ。車の中で弓美から聞いたときも思ったことだが、これはわずか一年前の話なのだ。去年のいまごろはまだ謠子は軟禁状態で、ALISの開発に無理やり携わらされていた。葉月には、到底信じがたい話だった。
「自由の身になった私は、すべてを捨てることにしたわ。それで一からやり直そうと思った。家も、土地もすべて売った。地下にあった設備は、弓美に協力してもらって、足がつかないように処分した。お金だけはどうにかするといろいろ目立つから、仕方なく私の名義で銀行に塩漬けにすることにした。私は過去をすべて清算して、それから、陽奈子との約束を果たすことにしたの」
「妹さんとの……約束? それは、さっき言ってた……」
葉月は、「陽奈子との約束を励みに耐えた」という先ほどの言葉を思い出していた。その質問に、謠子は笑ってうなずく。
「ええそうよ。その約束。つらい日々の中で、私とあの子は誓ったの。絶対にここを出て、普通の人生を幸せに生きるんだって。こんな狂った世界とは無縁な、普通の女の子として人生を楽しむんだって。でも、あの子はそれを果たせなかった。赤の女王の触媒になる直前、陽奈子は私に言ったわ。自分の分も幸せに生きて欲しいって。……いま思えば、あの子はもうそのとき自分の運命を悟っていたのよね。それで私は、二人分幸せになろうって決めた。消えてしまった二人分の人生を、これから取り戻すんだって」
喫茶店でパフェを食べたときの、教室で憲法を作っていたときの、チェスの話をしたときの、楽しそうな謠子の顔が目に浮かぶ。
謠子は素直で、何事も全力で楽しむタイプで、見ていてとても気持ちがよかった。だからこそ、そんな彼女に憧れて、葉月はいまもこうしてここにいる。だけどそんな彼女の素直さの裏には、ここまで悲壮な決意があったのか。
「それで私は、いろいろ吹っ切ることにしたの。確かにつらいことはあったけど、無意味に過去にとらわれる必要はないもの。前だけを見て、これからの人生を思う存分楽しんでやろうって、そう思ったわ。だって私は、まだほんの二十二歳だもの。人生はまだこれまでの三倍はある。それに、ALISを開発していたことも、悪いことだけじゃなかったわ。少なくとも、私のシミュレーションの技術は本物だって自負はある。世界中の誰も踏み込めないような領域に、私はいたんだから。与えられたもの、手に入れたものまで、卑下することはないって」
その言葉には、無理をしているような様子はなかった。謠子は、心の底から前向きに日々を生きていたと、葉月にだってそう思える。楽しそうに過ごす彼女のまなざしは本物で、謠子は決して、陽奈子との約束を果たすために自らの気持ちを偽っていたわけではないと、確信できる自分がいた。そのことに、葉月はわずかながらも救いを覚える。
「こんなこと言う資格があるのかはわからないけれど、私もそう思うよ。謠子は謠子が言う通りに生きられてるって、私は思う」
謠子は「ありがとう」と言って、少しはにかんだ。
「大学は、父の指示で入学だけしていたわ。それからずっと休学していたけど、大学にも無理を言って、ALISを開発しながらこっそり書いていた論文を提出して、特別に復学を認めてもらった。……本当は、直接大学院に行くこともできたのだけど、どうしても『大学生』をやってみたくて。それで年齢通り学部の四年生をやらせてもらったの。それが今年の春よ。立法学は、面白そうだなと思って本当にたまたま履修したのよ」
そんな経緯だったのか、と葉月は春を振り返って考えていた。謠子が大学院に行くことを選んでいたら、立法学に興味を持たなかったら、葉月と謠子は出会うこともなかった。
「それからは、葉月もよく知っている通り。――というか、この言い方はおかしいわね。私たち、ずっと一緒にいたんだもの。それでそのまま、今日にいたるのよ」
謠子には、到底想像もできないような不幸な過去があった。でもそれを乗り越えようとして、人生を目いっぱい楽しんでいる。――だからこそ、葉月は最初の質問に立ち返らねばならなかった。
「だったら、どうして……」
謠子の中では過去は清算された。そう語る彼女の口ぶりに、偽りはないと思う。ならばなぜ。
葉月の問いに、謠子はしばらく黙りこんでいた。が、やがてゆっくりと口を開き、再び話し始めた。
「……転機は、葉月からチェシャ猫の話を聞いたことよ」
「それって……」
謠子の言葉に、葉月は思わず身を固くする。それはつまり、自分が謠子に余計な話をしたせいで――。
そんな葉月の様子に気づいたのか、謠子が慌てて付け加えた。
「勘違いしないでね。チェシャ猫のことは遅かれ早かれ私の耳にも入っていたと思うわ。だから葉月のせいじゃない」
その言葉を聞いて、葉月は少し安心できた。だが、そこであらためて自分に言い聞かせる。大事なのは自分のせいかどうかなどではない。謠子に何があったかなのだ。自分のことなど二の次でいい。
しかし、そう思い直した葉月に謠子が告げた言葉は、またしても衝撃的なものだった。
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