2杯目 男には変わる時がある
「俺、絶対、このカフェには何か秘密があると思うんだ」
性懲りもなく、龍がそんなことを言い出したのは、それから一週間後のこと。あーはいはい、そんなことよりお冷や、と冷たくあしらうヨリ子ちゃんである。
ここ最近、ヨリ子ちゃんの仏スマイルは全方位型から、対お客様・マスター用になっていて、龍の前では明王へとその表情を変えている。なんだかんだマスターのことは大好き(異性としてではなく)なヨリ子ちゃんなのだ。
いとこ同士は結婚出来る。
そんなことを思い出したマスターは、「ヨリちゃんは、彼の前だと素の自分になれるんだなぁ」などと、それをほほえましく見つめていた。
これまでランチタイムなどの時間帯には多少ホール仕事も手伝っていたマスターは、龍の出勤日のみキッチンに専念出来るようになり、より一層手持ち無沙汰な時間が増えた。
そこで豆ばかり挽くのではなく、店の様子をSNSにアップしたら、もっとおしゃれカフェのマスターっぽいんじゃなかろうかという浅い目論見のもと、
たまにみたらしの動画を上げたりすると、尋常じゃないスピードでグッドをもらえたり、何か熱量の間違ったコメントが音の速さで届くのだが、おそらくこれは
なので、ここ数日は常にカウンターの上に、マスターのノートパソコンやスマートフォンが出しっぱなしの状態であった。
もうね、そんなことを書いたら、絶対これが何かしらの事件に発展すると思うところですよ。皆さんもそう思うでしょう? 作者だってそう思いますよ。
ま、何かしらの事件に発展するんだけど。
「ねぇ、このカフェ絶対おかしいって。売り上げ絶対そんなでもないじゃん。何で潰れないの?」
またしても龍がそんなことを言ってきた。もちろん、マスターにではない。ヨリ子ちゃんにである。
「もしかして、材料とかヤバイやつ仕入れてるんじゃない?」
ひょえええこっわー、とあきらかに小馬鹿にしたような声を発しつつ、白目を向いて自身の両肩を震わせる。純度100%の馬鹿である。このまま剥製にしてハーバード大学辺りに送りつけてやりたい。クール便で。
しかし確かに、その辺はヨリ子ちゃんも疑問ではあったのだ。昔、思いきってマスターに聞いたこともあるのだが、そこで得られたのが、
「昔に書いた小説が当たって、その印税がいまでも入るんだよね」
というやつである。
絶対嘘だ。
当時のヨリ子ちゃんは3秒で見抜いた。
ただ、それ以上深く追究しなかった。宝くじで一発当てたとか、不動産収入があるとか、あるいは株とかそういうやつなんじゃなかろうか、と考えたのである。一緒に働いてみてわかったのは、このマスターが本当にこの店を趣味で経営している、ということだ。恐らくこの人は利益のことなんてまるで考えていない。確かに食材なんかは商店街から安く仕入れているのだろうが、ということはつまり100%国産なのである。もっとその辺を安く抑えようと思えば外国産を使うという手もあるわけだが、彼は断固としてそれをしないのである。
これがとんでもないイケメンだったら、実はパトロンがいて、という可能性もあるわけだが、マスターのこの顔面にパトロンがつくとは思えない。
当時からヨリ子ちゃんはマスターの顔面について、かなり辛辣だったのである。
とりあえず、裏に悪い人がいる感じでもないし、もしもの時は逃げれば良いか、と気楽に構えているヨリ子ちゃんなのだ。
というわけで、そろそろ龍のことが煩わしくなってきたヨリ子ちゃんは、
「マスターって、昔に書いた小説の印税がいまでも入るんだって」
と彼に伝えた。ちょうどマスターが隣の【
「えっ、マスターって小説家なの?!」
「いまはわかんないけどね。書いてたんだって」
「しかも、いまだに印税が入るってすごくない? それってえっと、ほら、あれレベルじゃん」
「あれレベル?」
「えっとほら……なんてったっけ……。そう、芥川次郎! 芥川次郎みたいじゃん!」
誰だよ、芥川次郎。
たぶん芥川龍之介と赤川次郎が混ざったものと思われる。もしかしたら浅田次郎辺りも混ざったかもしれない。それかもしくは赤川次郎の『赤』部分がバグったか。バグった線が濃厚な気もするが。
いずれにしても、それっぽい名前が出てきただけも奇跡だな、とヨリ子ちゃんは思った。龍の国語の成績はいつも1だったのだ。『文学』というものから最も遠い位置にいる男である。彼の愛読書はゲームの攻略本くらいなもので、それすらも文章の意味がわからなかったりもし、「ま、最終的にこういうのはフィーリングだから」とぶん投げる始末。
「えっ、超恰好良いじゃん! えー嘘、ちょ、まじ見直したかも、俺」
いやお前、何様だよ、とヨリ子ちゃんは思った。そして、こんな嘘をするっと信じるこいつやべぇな、とも思った。
すっげぇ、すっげぇ、と興奮している三十路の男を見て、「これ言わない方が良かったかもな」とも思ったが、時すでに遅し。覆水盆に返らず。こぼれたミルクを嘆いても無駄なのである。ただ、ミルクの場合、こぼれた場所によってはストロー等を使って啜れなくもないかもしれない。やめろ汚い。
「ただいまー。ヨリちゃんか龍君、配膳お願いー」
いつものちょっとのんびりとした感じでマスターが戻ってきた。はぁい、とヨリ子ちゃんが返事をするより先に、元気よく龍が挙手をする。
「はいっ、俺行くっす!」
「あれ、何かすごく元気良いね。じゃあ龍君お願い」
「うっす!」
数分前とは別人のように気合の入っている龍の背中を見て、「龍君なんかやる気出てきたみたいだねぇ」とマスターは嬉しそうに笑った。
「ヨリちゃんも嬉しいでしょ? 龍君がバリバリ働くようになったらさ」
「別に……。あ、でも、もうお金貸してって言ってこなくなるのは良いですね」
「でしょう? 大丈夫だよ、ほら、彼を見てよ。何かいきなりスイッチ入っちゃって俺もびっくりしたけどさ。男って、ある日突然変わったりするもんなんだよね、うんうん」
「えっ、そういうものなんですか?」
「そうそう、あるんだよ。男にはさ、そういう瞬間が。いやぁ、まさか龍君のその瞬間に立ち会えるなんて感激だな、俺。龍君はこれからもっと変わるよ。ヨリちゃんと俺とでさ、小さなことでも良いからどんどん褒めて彼のやる気を伸ばしていこう」
つくづく良い人である。
良い人、というかこの人も大概馬鹿なのである。
いやぁ、良かった良かったと言いながら、マスターは再びカウンターの上のパソコンをカタカタし始めた。
「マスター、オーダー入りました~。ナポリタン2つです~」
「了解~」
ケーキを配膳し終えた龍が、その隣のテーブルからオーダーを受けて戻ってきた。ひらりと得意気に伝票を振っていてちょっと腹立つ。それをヨリ子ちゃんが受け取って、キッチンの所定の位置にマグネットで貼り付けた。
「ついでにオーダー取ってくるなんて、龍君、成長したね」
ついそんな声をかけたのは、さっきのマスターとのやり取りの影響かもしれない。
「まぁね~」
龍の方でもまんざらでもなさそうである。もしかしたら彼に必要なのはこうやって褒められることだったのかもしれない。もともと調子に乗りやすい人間なのだ。こうやって乗せ続けていけば、本当に変わるかもしれない。
と、龍が「あれ?」と言って、カウンターの上のパソコンをちらりと見た。
さすがに触るのはアウトだがチラ見する分には問題はない。見られて困るようなことはしてないから、と、マスターからの許可も得ているのである。
「ちょ、ちょちょちょ、これってもしかして……」
チラ見から明らかにガン見に変わった龍が、口許を押さえて小刻みに震え出した。
えぇー!?
一体全体何を見たのー?!
という雑な引きで、次回へ!
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