1杯目 三人体制のそこそこカフェ
「ねぇヨッちゃん。このカフェって何かおかしくない?」
ある日のこと。
何もかもがそこそこでお馴染みの『そこそこカフェ』の新入りである
読者様の大半は「何をいまさら」と思ったであろう。その通りです。しかし、多目に見てほしい。なぜなら彼はまだここで一月程度しか働いていないからである。
「別に? 普通じゃない?」
普通なわけねぇだろ!
まさかの返答についつい声を荒らげてしまった。いけないいけない。でもご安心ください。ヨリ子ちゃんのこの言葉はもちろん本心ではない。数多のバイトを経験してきた百戦錬磨のヨリ子ちゃんが、このカフェのおかしさに気づいていないわけがないのだ。
ヨリ子ちゃんだってこのカフェがおかしいことくらい百も承知である。百も二百も承知で惚けているのだ。だって、いつまでもこのぬるま湯に浸かっていたいのである。女子はぬるま湯で半身浴するのが大好きな生き物なのだ。デトックスよデトックス。
「絶対おかしいでしょ。まずさ、時給ヤバくない? ありえないでしょ絶対。何? もしかしてここってほんとはそういうお店?」
「そういうお店って?」
「ほら、秘密の言葉を言うと奥の部屋に案内されたりしてさ。そんでそこはもう酒池肉林のパーティー会場だったりして――」
と、なぜか半分白目を向き、自身の左手に注射器を刺すジェスチャーをする龍である。どこからどう見ても馬鹿丸出しである。何が恐ろしいって、この男が立派な三十路だという事実であろう。
人間は、ただ欲望のままに食って寝ても一応身体は大きくなる。けれども、図体ばかりが大人サイズでもいけないのである。良いかキッズ達、勉強がすべてとは言わん。言わんけれども、こんな大人になりたくなかったら勉強しろ。パパとママの言うことはちゃんと聞いとけ。ばあちゃんの財布から金を抜くな。
えへへへ、うへへへと薄気味悪い笑みを浮かべながら何かしらのお薬を注射するふりをしていた龍は、急に真面目な顔に戻り「みたいな」と結んだ。
「龍君、馬鹿なこと言ってないでお冷回ってきて」
「えぇー、ちゃんと聞いてよぉ。俺、結構真剣に考えてたんだけど」
結構真剣に考えた結果がこれである。
良いかキッズ達、何度も言うが、このおじさんは悪い見本だ。彼のようにはなるな。
ぶーぶーと文句を言う龍を得意の仏スマイル(瞳の奥にキラリと明王)で送り出すと、ヨリ子ちゃんは、カウンターの上に置いてあるノートパソコンで何やらカタカタやっているマスターを見てため息をついた。
「マスター、どうして龍君なんか雇ったんですか」
「ええ? 駄目だった? もう一人いたらヨリちゃんもお休み取りやすいかなぁって思ってさ」
「別に私、そんなにお休みいりませんよ。
そう、全国レベルのアイドルの追っかけならこうはいかないが、何せ彼らの活動拠点はここ、天神商店街。基本的に彼らのアイドル活動は副業なので、自身の店が全国展開でもしない限りここを動くことはないのである。そして、全国展開出来るほど儲かっている店など存在しない。
「でもさ、例えばお友達と旅行に行くとか」
「そのお金がもったいないです」
「美容院とか、ネイルサロンとか――」
「それはここの定休日に行ってます」
「あとは……ええと……」
「何ですか、マスター。私を休ませたいんですか? 私が毎日ここにいるの、迷惑なんですか?」
「まさか! ヨリちゃんがいないとこの店はほぼ終わりだよ」
「ギリギリじゃないですか! 『ほぼ終わり』って!」
バイトがいないと成り立たない店、というのは、サービス業なんかではよくある。そもそも、こういった飲食店の従業員数なんて、どう考えてもアルバイトやパートの方が多いのだ。これが全国チェーンのお店だったりすると、正社員は異動でコロコロ変わるため、その店に長くいるアルバイトやパートの方がデカい顔をしていることもある。
確かにヨリ子ちゃんの顔は多少大きいかもしれない。けれどそういう意味ではないのである。
ちなみに、龍が働き始めたのは前章から約一月後のこと。一応、彼の方でもあきらめずに寄生先を探したのだが、今回はどうにも見つからなかったために腹をくくった形である。
彼の両親は、あの馬鹿息子が働くということに大層驚き、勤務初日には菓子折りを持って挨拶に来た。
そしてその菓子折りはというと、3分の2が龍の腹に収まる結果となったが。
龍は1日働いては2日休み、また1日働いては2日休み、という勤務のため、一月働いているといってもせいぜい10日かそこらである。ただ、仕事内容も主に配膳なので大して覚えることはないし、そもそもいままでホール担当が一人でも十分何とかなっていたわけで、そりゃあこんな雑談にも花が咲くわけだ。
ここのカフェは女性客が多いことから、女性に対して人当たりの良い龍はあっという間に店の雰囲気にも溶け込み、何やら楽しそうにお冷や回りをしている。
ヨリ子ちゃんは、「ウチの店はヨリちゃんと隣のケーキで持ってるからさぁ」と笑うマスターを呆れ顔で見つめた。
一応、マスターの淹れるコーヒーはそこそこに美味しいし、フードメニューだっておしゃれで美味しいと評判だ。マスターの作るドレッシングやタルタルソースについては、もう何度も「どこで売ってるんですか?」という問い合わせがあったくらいだし、その電話を受けたのもマスターなので、それくらい人気があることを彼も知っている。だからまぁ、ちょっとした謙遜というやつである。彼は一応(龍よりはちゃんとした)大人なので、謙遜とか、そういうことも出来るのだ。えっへん。
けれど、こと経営に関して、この人は馬鹿だ。
ヨリ子ちゃんはそう思っている。
詳しいことはわからないが、どう考えても経営は赤字だろう。けれども給料はきちんと支払われているので、ヨリ子ちゃんとしては、そこの店がどんなに火の車でもどうでも良いのである。そりゃあ最初は心配だったけど、もう慣れたのだ。
いや、こんなに良いバイトはどう考えてもここ以外に存在しないから、潰れるのは困るか。
そう思い直すヨリ子ちゃんであった。
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