3杯目 龍は何を見たのか
「マスター、俺、ちょっと考えたっすけど」
「どうしたの、龍君」
「これからは、もう少し長い時間働かせてもらえたらな、って」
彼の勤務時間は3時間である。ヨリ子ちゃんのようにフルタイムではない。理由は一つ、『疲れちゃうから』だ。
「ええっ?!」
マスターは驚いた。
渾身のナポリタンをヨリ子ちゃんに託した後で、ちょっと思い詰めたような顔をした龍からそんなことを言われてしまい、驚きつつも、内心「これはあれか、ヨリちゃんとケーキでお祝いした方が良いんじゃないか」などと考えたマスターである。その場合、もちろん、他の客にも配ることは確定している。
「良いよ、もちろん。何時間くらい頑張れそう?」
ヨリ子ちゃんから「龍君はこれまでまともに働いたことがないんです」と聞いていたマスターは、ほぼほぼリハビリのつもりで彼を働かせている。
「いま3時間だから……4時間とか? あっ、別に3時間半とかでも良いよ」
「いえ、5時間……、うん、5時間、5時間で!」
「ええっ、5時間も? 大丈夫?!」
「大丈夫っす! ですから」
「うん?」
「俺のこと、しっかり見ててください!」
「うん? わかった。しっかり見るね」
何をしっかり見れば良いのかぶっちゃけわからなかったが、マスターはそう答えた。龍はというと、小さくガッツポーズを決め、小声で「うおお」と吠えている。一応声をおさえるくらいの常識はあったらしい。
そんな二人のやり取りを見ていたらしいヨリ子ちゃんが怪訝そうな顔をして、カウンターへやって来た。
「龍君、どうしたの?」
「ヨッちゃん俺さ、これから5時間勤務にしてもらった」
「はぁ? マスター、本当ですか?」
「うん、本当。龍君ね、何かやる気あるみたいで」
「えぇ……本当? 大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫! さぁ、マスター! 何か仕事ありませんか?」
……と言われても、このカフェは大して混まないことでお馴染みなのである。
ランチタイムも終わり、ナポリタンも配膳してしまったいま、ぶっちゃけこれといってすることはない。せいぜいお冷回りが関の山である。
「そうだなぁ……。ああそうだ。みたらしの猫砂買ってきてくれないかな?」
「了解っす!」
「ええと、メーカーとかわかる? みたらし、結構その辺厳しいからさ、違うやつだと怒って砂かけてくるんだよね」
「マジすか。みたらしちゃん、何使ってましたっけ。空の袋とか取っといてないんすか?」
「ケースに移しかえたらすぐ捨てちゃうんだよね。ああ、ヨリちゃんがわかるか。じゃあ一緒に行ってきてくれる? お店そんなに混んでないし。俺の車使って良いから」
猫砂をいつも買っているホームセンターはこの商店街からは少々離れるものの、車を使えば5分である。マスターの車は一応この店の車ということになっており、今回のようなちょっとしたお使いなどで使用可能となっている。ちなみに、小回りの聞く軽自動車だ。
え?
マスターは金持ちなんだから、ベンツとかそういうのに乗ってるんじゃないかって?
いやいやもちろん、持ってますよ。ベンツとかそういうの。でも、マスターはそういう高級車は実家の専用ガレージに並べて鑑賞したい派なのである。
休みの日にふらりと実家に帰っては、その高級車達を色別に並べかえてみたり(専用ドライバーが)、メーカーごとに並べてかえてみたり(専用ドライバーが)、適当なグループを作らせて(専用ドライバーに)、これがお父さんで、大手家電メーカー勤務。それであっちがお母さん、専業主婦で趣味は――と庶民には理解出来ないごっこ遊びをしたりするのである。少年の心を忘れないマスターなのであった。
というわけで、ここではその軽のSUV(色はパールホワイト)がマスターの足なのである。オプションやら何やらは実はめちゃくちゃお金をかけていて、普通車が新車で買えるくらいの価格ではあったのだが、彼の中では『車=○○○○万』という認識だったため、
「軽自動車って本当に安いんだなぁ。これに命預けて大丈夫かな?」
とちょっぴり心配になったマスターである。うるせぇ、軽を馬鹿にするな。
というわけで、ヨリ子ちゃんに千円札を2枚持たせて(一万円を出したら「多すぎます。あと、龍君じゃなくて私が預かります」と言われた)送り出すと、マスターは再びパソコンに向き合った。
さて、ヨリ子&龍、ドキドキのお使いミッションである。
確かに心臓はドキドキしているが、心臓というのはそもそもドキドキして当たり前のやつである。特別なビートを刻んでいるということもなく、いつもと変わらぬドキドキぶりでヨリ子ちゃんはハンドルを握った。龍はペーパードライバーである。自称、日本で一番助手席に乗せたい男と豪語しているが、ヨリ子ちゃん的にはボンネットの上でも良いんじゃないかと思っている。
「急にやる気出してどうしたのよ龍君」
何の下心もなしに彼がやる気を出すわけがない。
さすがはヨリ子ちゃん。結局戻っては来たものの、だてにトータルでウン十万貸していないのだ。
すると、助手席でカフェラテ(出がけにマスターが持たせてくれたやつ)を飲んでいた龍は、デュフフ、と気持ち悪い声で笑った。
「俺、見ちゃったんだよね」
「何を」
「マスターのパソコン画面」
な、なんだってー!
もしかしてマスターったら、自身のクレジットカードの番号とそれの暗証番号、それからネットバンクのログインIDとパスワード、それからもちろんそれの残高などなどをうっかり表示させていたのかー!?
ということはもちろんない。
マスター、さすがにそこまで馬鹿じゃないのである。
お金のことはちゃーんと、税理士の資格も持っている『じいや(
ちなみにこの古じいこそが、マスターの専用ガレージで一台ウン千万の高級車をまるでミニカーのごとくに操る凄腕ドライバーでもある。年齢的に公道での運転からは引退したものの、マスターのガレージなら多少の事故は良いだろう、ということで、そのドライビングテクニックをいかんなく発揮しているのだった。
「これはボケ防止になりますなぁ」
と白い顎髭をわさわさ撫でながら笑うのだが、彼の脳年齢はまさかの40代。血管年齢も50代である。衰えという言葉の方が裸足で逃げ出すスーパーおじいちゃんなのだ。彼は朝からステーキも食えるし、歯も自前だ。
ちなみに古じい、と呼ばせたかったのは『フルでG(重力)を受けても平気なくらいタフなじいさん』という意味を持たせたかったからである。フルのGって何ですか? というアカデミックな質問はご遠慮いただきたい。この作者は基本的に雰囲気とか語感の良さとか勢いとかそういうので言葉を選んでいるのだ。
さて、あまり色々書いちゃうと予想外のキャラが予想外に人気出ちゃうのがこの小説なので、もう手遅れのような気がしないでもないがこの辺でやめておく。ちなみに彼の愛妻(いと・82歳)もまだ存命で、茶道と華道、なぎなたの師範であるとだけ述べておこう。
「マスターさ、いま新作書いてるっぽいんだよ。それも、この南由利ヶ浜を舞台にしたやつ」
「えぇ!? ほんと!?」
だとすると、昔小説を書いていたという話は本当だったのだろうか。だとしても、印税がいまだに入るようなベストセラーを書けるような筆力が彼にあるとは思えない。字も汚いし、よく漢字も間違えてるし。
ヨリ子ちゃんは手厳しい。
でも人は見かけによらないって言うしなぁ……。
「だからさ、俺もその小説に出してもらえないかなぁって思って」
「それでやる気出したの?」
「そうそう。
「まぁ……可能性としてはありそうね」
「そこで働くイケメン店員! 俺!」
龍君がイケメンなら、マスターもイケメンだよ。
ヨリ子ちゃんは手厳しい。
「まぁ、イケメンはおいといて。でも信じられないなぁ。そもそも何で新作を書いてると思ったの?」
龍君、文章読むの苦手じゃん。漢字もほぼ読めないでしょ?
という言葉は飲み込んだ。ヨリ子ちゃんはやっぱり優しいのだ。
「パソコン画面にね、ぶわーって字があってね。書いてる途中っぽいやつ」
何かもう頭の悪そうな説明が始まったな、とヨリ子ちゃんは思った。
「『ここは南由利ヶ浜、ごくごくありふれた田舎町』って。これ何かお話の始まりっぽくない?」
「まぁ……確かに」
「でもさ、俺ちょっと思うんだけど」
「何?」
「ちょっとこの文おかしくない?」
「おかしい? どこが?」
いや、本も読まないお前に何がわかる、とヨリ子ちゃんは思ったが。実は野性的な勘がどうたらこうたらで、龍にその才能がないとは言い切れない。この場合はないと言い切っても問題はない。
「その人さ、文の途中でいきなり『ごくごく』って何か飲んでんだよね。それってさ、読者に対して失礼じゃん?」
ここ一番のどや顔で最高に恥ずかしいことを言い出した龍に、最早かける言葉も見つからないヨリ子ちゃんであった。
しかし、マスターは何を書いていたのだろう。まさか本当に新作?
そう思いながら、ホームセンターの駐車場で車を停め、ペットコーナーへと向かった。
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