5杯目 お猫様

 そんなこんなで、名を与えられたナイスミドル出内いでうち(43歳)が、カウンターの上に置いてあった自身のスマートフォンを手に取り、慣れた手つきでカメラアプリを起動させた。盗撮魔もかくや、といった手際の良さである。これでシャッター音も消せるタイプのアプリであれば前科の有無を確認するところだ。


 さて、ハチワレの方はというと、緑色の毛糸玉(Like a Marimo)に興味を持ったらしく、ちょいちょいと転がしてじゃれている。その様が何とも愛らしく、カップルに注目していたヨリ子ちゃんも、特に詳しくは述べていないがまばらにいた他の客もその様子に心を奪われている。良かった、どうやらお客さんは全員猫派(とまではいかずとも猫に対して好意的)だったらしい。その辺はもちろん作者の匙加減でどうにでもなるやつだ。出内に至っては、そういうカメラマンさんなんですか? と思わずマスターがインタビューを試みようかと思ったほどの体勢で狂ったようにシャッターを切っている。つまり、床に這いつくばって低いアングルからハチワレのベストショットを狙っているのだった。良かった、シャッター音はあるタイプのアプリのようです。


 突如として始まった猫撮影会(這いつくばっているのは出内のみだが)に、8番テーブルの椎菜の熱も冷めたようだった。というか、椎菜もまた無類の――出内ほどではないものの――猫好きなのである。

 

 あぁ、あたしもあのハチワレちゃんを撮影したい。叶うなら、ナデナデもしたい。毛並みにそって優しく撫でたい。あ、あとそれから肉球も嗅ぎたい。


 そんなことを思っていた。


 実は彼女の父と妹が猫アレルギーであったため、飼うことを許されなかったのである。高校生の頃は、家を出て独り暮らしさえすれば猫も飼い放題! と思っていたのだが、実際に家を出て物件を探してみてわかったのだ。現実はそう甘くない、と。ペット可の物件は少ない上に家賃が高いのである。


 アパレル店の店員というのは、その店の服がそのまま制服となる。多少安くは買えるものの、制服代わりだからと毎日同じものを着るわけにもいかない。新作が出れば「あー、それ。いま私も着てるんですケド~、とっても着回しやすくってェ~、おすすめなんですゥ~」という接客のために買わなくてはならない(ならないわけではないけど)のだ。コーディネートが上手なオシャレ店員はやはり客からも信頼されるし、「○○さんが勧めるなら買う」というパターンもあるため、少ない給料を何とかやりくりしなければならないのである。


 そこへ来て、恋人文治の存在だ。


 同い年とはいえ、文治は学生、自分は社会人。「女に財布を出させる男なんてサイテー」と笑う友人の彼氏は皆、軒並み年上で定職についている。一応、それに同調するものの、割り勘が関の山だ。しかも、端数は椎菜が出す。


「あー、あたし大きいの崩したいからー」


 で全額払った場合、「俺もいま細かいのあんまりなくて」とかいって、会計は6,372円なのに2,000円しかもらえなかったこともある。それでも差額は請求しない。落ち着け私、相手は学生ぞ、と。


 そんなこんなで、正直なところ椎菜は常に財政難なのである。

 そんな時、風の噂というか、前髪数ミリカットも見逃さない女子ネットワークによって掴んだ『浮気』の一報。


 お前、居酒屋『たこ八』のバイト料を全部そいつにつぎ込んでんじゃねぇだろうな?! そりゃあ基本的に数百円多く払う程度ではあるものの、塵も積もれば何とやらなんだぞ、それに、こないだのヤツ(上記の約1,000円)、まだもらってないしな? こりゃあ多少きつく締めあげる必要がある。どちらかの部屋で2人きりの時にこんな話をすれば、どうせ猫なで声で甘えて来るか、泣き落としで上手いこと言いくるめられて最終的にはベッドなのだ。

 楽しみに取っておいたプリンを食べられた時もそうだった。

 続編が公開されたら一緒に見に行こうねって約束していた映画を男友達と見てきてしまった時もそうだった。いや、これもいま思えば、本当に男友達だったか疑わしいが。


 今回ばかりはそんな結末を迎えるわけにいかないのである。


 なので、人目のあるところにしよう、だけど、さすがに知り合いがいそうなところは駄目だ。適度に人がいて、だけど、混み過ぎてもいなくて、それでいて、まぁやっぱりそれなりに美味しいところが良い。だってどうせ今回は全額自分が払うことになりそうだし。


 というポイントで選ばれたのが、ここ、それなりのコーヒーと激ウマのケーキでお馴染み――いや、この当時はまだそこまで馴染んでなかったけど――のカフェ『TWO BOTTOM』なのだった。まぁとにかく、椎菜のお眼鏡に適う混み具合だったのである。


 コーヒーはそこそこだが、この日替わりランチ『白身魚のフライとクロワッサン(お好みでフライを挟めるように切れ目入り)、ミニサラダとスープ付き』は美味しい。特にこのタルタルソース、最高。あとトマト、何これ、フルーツ? ってくらい甘い、美味しい。えー嘘、この店、もしかして当たり?


 などと思いながらランチを食し、想定通りに文治を追い詰めていたところでまさかのお猫様登場である。


 ちょっともー何? この店絶対当たりじゃん?


 正直なところ、目の前の彼氏よりも15番テーブル前のお猫様である。

 文治とその浮気相手への怒りは氷点下レベルに冷えたが、お猫様への思いでこのそこそこにたわわな胸が焦がれてしまいそうだ。


 そこでハッと気づいたのである。


 この男を捨てれば、猫が飼えるんじゃない? と。


 こいつがいるから必要以上にオシャレだなんだってお金が飛んでいくわけだし、少額とはいってもデートもそれなりにかかる。その分をペット可の家賃なり、餌代やら何やらに回せば良いのでは?


 それに何より、猫のためだと思ったら、仕事ももっと頑張れそう!


「すみません、その猫!」


 急にそんなことを叫んで椎菜は立ち上がった。


 やべぇ! と思ったのはマスターである。


 この人きっと猫が嫌いなんだ!

 これは、即刻つまみ出します! と言うべきなのか、それとも何かそれなりのサービスで相殺すべきなのか。


 とりあえずここは猫カフェでもないわけだし、看板猫がいます、とあらかじめ知らせていたわけでもないので、つまみ出すのが正解なのだろう。けれども、もう早速愛着がわき始めているスーパーチョロ助のマスターは、「とりあえず食後のケーキをおまけして何とかならないだろうか」と、8番テーブルの伝票を見た。幸いなことに、というのか、8番テーブルの日替わりランチはケーキ付ではなかったのである。もうこの時点でマスターの心は決まっていたのだ。


 YOU、ここの看板猫になっちゃいなYO、と。


 ハチワレ、安心しろ。俺はお前を追い出したりはしない。

 そんなことを思いながら、いつもより三割増しの男前フェイスでマスターは8番テーブルへと向かった。彼氏の方はやけに勇ましい顔つきで、俺の彼女にどうしてくれる、みたいな雰囲気を醸し出しており、正直ちょっとおっかないが、ここは俺がどうにかおさめるしかない、と。そりゃそうだ、アンタこの店のマスターなんだから。


 椎菜が声を荒らげた件について、正直、文治の方では何が何やらさっぱりであったが、「その猫」と言っていたし、恐らくその猫が何かしらの粗相をしたのだろう。だとしたらここで自分がどう動くかによって、今回の失点を帳消しに出来るのではないか、と彼はやる気に満ちていたのだ。若い女(むーちゃん)も良いが、彼女はどうやらが多いみたいだし、正直胸も小さい。顔は可愛い系だとは思うものの、連れて歩くには椎菜コッチの方が断然良い。顔は派手だが意外と一途だし。あと、飯代も多く払ってくれる。って、お前最低だな。


「お客様、どうかなさいましたか」


 もうちゃっかり『ウチの猫』呼ばわりである。いつもよりちょっと低めの声でそう言いながら、頭の中では「つい『ウチの猫』とか言っちゃったけど、『お名前は?』とか聞かれたらどうしよう。やっぱりカフェっぽい名前が良いかなぁ」といったことを考えていた。基本マスターはのんきなのだ。

 

 やっぱりコーヒーにちなんだやつが良いかな?

 ネルとか? それかもしくはドリッパーとか?

 違うな、器具の方じゃなくて……ああ、グアテマラとか、ブラジルとか? 

 それも何か違うなぁ。何かこの子、和っぽい模様だし。

 それじゃ、和だな。和、和、和……。


 ……羊羹、とか?

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