4杯目 出ないのか出るのか
さて、堂々とカフェ内で編み物をしていた湯部が、思い出したように編み棒を置いた。そう、マフラーにしては細すぎて、ハチマキにしては太すぎる、穴だらけの何かについて議論を交わしている場合ではないのである。それはそれとして、とりあえずは毛糸玉を回収しなくてはならないのだ。
そしてまた、カフェ内でも『それはそれとして』といった空気になりつつあった。
そう、それはそれとして、なのだ。
例え毛糸玉が転がって来たとて、妙齢の女性が「アララー」などと叫んだとて、それはあくまでも15番テーブルの話なのだ。こっちはこっちでいま大事な話をしているのだから。
と思ったのはヨリ子ちゃんである。
その『こっち』の当事者である椎菜についても「あーまじ、この男どうしてくれよう」くらいは思っていたけれど、文治に至っては、この一連のあれこれで「出来れば上手いこと有耶無耶にならねぇかな」などと考えていた。そうは問屋が卸さない。問屋というか、この場合は主に彼女の方だが。
「だからさ、もうこっちは全部わかってるからね?」
と言いながら、椎菜が文治の皿に残っていたプチトマトをぐさりと刺した。さすがは八百万自慢のプチトマトなのである。少々値は張るが、一度食べたら他のトマトには戻れないと近所の奥様達からも評判なのだ。こんな状況でもしっかりリピーターを獲得してしまうとは、全く罪なプチトマトである。
それをこっそり見ていたマスターは、
「これはお会計の際に一言添えるべきだろうか」と顎をさすった。つまり、「このプチトマト、八百万で買えますよ」という。
どう思う? とヨリ子ちゃんに聞こうと隣を見ると、既に彼女の姿はなかった。本日何度目かわからないお冷巡回のようである。いや、5分前にも行ったよね?
「ぜ、全部わかってるって……」
さて、この場合の『全部わかってる』だが、椎菜の方で掴んでる情報としては、フルネームや、学部、交友関係、バイト先辺りである。探偵も真っ青の情報収集能力。ギャルというのは本人にその力がなくとも、その辺の能力がずば抜けた友人がいたりするのだ(偏見)。
というわけで、その辺りの情報は掴んだ椎菜であったが、正直なところ、彼女と文治が具体的にどこまでやっちゃってるかについては知らなかった。ただ、彼がサークルの飲み会の帰りに彼女を家まで送り届けた後、なぜか朝までそこから出てこなかった、という情報だけは掴んでいる。男女のことなんて、それだけで十分なのである。そしてこの反応。はい、有罪。
「別にさ、あたしはどっちでも良いんだよね。あたしでも、その『むーちゃん』でも?」
「い、いや、それは……」
「良いんじゃない? べーつーにーさー。そのむーちゃん? 男のお友達、たぁっくさんいるみたいだし? 仲間に入れてもらったら良いんじゃん?」
「えっ?」
「あれー、知らなかったー? 千秋短大家政科の『
「えっと、有名なのかまでは……」
ここでフルネームが飛び出たことで、文治はかなり動揺した。スマホには『むーちゃん』で登録しているし、メッセージアプリについても、彼女は自分のことを『むー』で登録しているのである。それなのに、なぜ名字までしっかりバレているんだ、と。ということは、きっと本当に何もかもバレているのだと文治は思った。
椎菜は椎菜で、「まぁ、有名かどうかまでは知らんけど」と思っていた。この『中橋睦美』のSNSをチェックしていたところ、彼女の書き込みに反応しているのが軒並み男性のアカウントだった、というだけである。
おおお、キタキタ、とヨリ子ちゃんも大興奮。ヨリ子ちゃんだけではなく、カウンター席のナイスミドル(40代)も何やら気持ち椅子を後ろに引いているようだ。漫画かアニメなら、耳が通常の3倍、「でっかくなっちゃった!」状態と思われる。
いやもう彼氏、さっさと諦めて謝っちゃえよ。
誰もがそう思っていた。
違うな。誰もが、は語弊がある。ヨリ子ちゃんとカウンター席のナイスミドルはそう思っていた。15番テーブルの例の2人組はそんなことより毛糸玉なのである。湯部がよっこらせ、と腰を浮かせ、床に落ちた毛糸玉に手を伸ばしたその時、
風よりも速く――って作者は風の速さがどれくらいなのかぶっちゃけわからないのだが、まぁそよ風よりは確実に速いだろう――ハチワレ猫が現れたのである。
あれ? ハチワレちゃん? とヨリ子ちゃんは思った。
いつの間に箱から脱走したのかしら、とカウンターの下に置いてある段ボールを見た。もしかしたらこれは別のハチワレちゃんかもしれないからだ。可能性は0じゃない。よしんばさっきのハチワレちゃんだとしても、だ。目の前のこのハチワレちゃんはもしかしたら生霊かもしれないし、残像とかそういうやつかもしれないではないか。しれないわけはない。
まぁ、当然のように、そのハチワレは後にここの看板猫となる『みたらし』であるわけなのだが。
いつの間に現れたのだ。さてはお主、忍者でござるか。伊賀か? それとも甲賀か? などと絶対に返事は来ない24時な問い掛けをしつつ、湯部は手を引っ込めた。
「何、どしたのよゆべっち」
と、『ヤスミン』こと木更津康美が身を乗り出す。ちなみに、木更津はまだ一度も湯部から『ヤスミン』と呼ばれたことはない。個人的には『ヤスミン』の綴りは『Jasmin』、Jで始まるのが好きだ。『Johann』は『ヨハン』と読みたいし、『Jacob』はもちろん『ジェイコブ』ではなく『ヤコブ』と読みたい。ただ、いくらそう読みたくても個人の名前なのでどうにもならないわけだが。完全に余談でしたね。
「猫がいるのよ、木更津さん」
飲食店に動物というのは、基本的には、本来いてはいけないものだと作者は思う。が、猫カフェ等、それを売りにしているところももちろんあるため、店側が「ここには何かしらの動物がいます」と大っぴらに宣伝していればアリなのである。ただ、こうやって騙まし討ちのように出てきてしまうと、アレルギー持ちの人は大変なことになるし、よしんば、アレルギーがなかったとしても、衛生面が気になるから嫌、という人もいるだろう。
余談だが、この『よしんば』、『
そんなわけで、サプライズキャットの登場にヨリ子ちゃんとマスターは「ヤバい」と思った。マスターに至っては、こんなことならさっき蓋を開けた際に「ただいま、看板猫が入荷致しました」とか気の利いた言い回しで知らせておくんだった、などと考えていた。それが気の利いた言い回しなのかはさておいて。あぁ、どうか店内のお客さんが全員猫派でありますように。
「え、ね、猫?!」
湯部のその言葉で、カウンターのナイスミドルが慌てて席を立った。そして、猫、猫、と呟きながら辺りを見回している。そろそろこのナイスミドルにも名前くらいくれてやろう。この章限りでもう出番はないかもしれないので、記念に、というやつである。彼が準レギュラーの座をつかみ取れるかについては、今後の頑張り次第となっている。小説だからって油断するな。この世は実力社会なのだ。レギュラーくらい己の手で掴み取れ! いつまでも作者をあてにするんじゃねぇ。
というわけで、彼の名前は『
まぁ、いまのところ『でない』に傾いている彼ではあるが、今後の活躍(というか使いやすさ)如何ではまだチャンスはある。もしここから
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