2杯目 店内に鳴り響く異音

「……あのさ」


 沈黙に耐え切れずなのか、女の方が口を開いた。彼女の名は小出こいで郁子いくこ。こういう時、作者の視点で書けるのは便利なのだ。どうにかごく自然な感じでフルネームを出さないとなぁ、などと悩まなくて済む。つまり、なぜかこのテーブルの上に彼女の免許証なり保険証なりが置いてあって、それには『小出郁子』と書かれていた――なんて事を書かなくて良いということである。普通、カフェのテーブルに免許証なり保険証なり、とにかく本名がバレるようなものを置くだろうか。受験生かよ。いや、受験生なら受験票だ。


 というわけで、とにかく彼女は小出郁子なのだ。『恋で、行く子』から名付けた、なんて、例えそれが事実であっても、そんな余計なことを書いてしまうと、この後に出す名前すべてにそれなりのこじつけが必要になってしまうので、絶対にやめた方が良い。あ、手遅れだったけど。

 

 郁子と、向かいに座った彼――高島孝明(つまりイニシャルはT・T)――の付き合いはもう5年になる。付き合い始めたのがお互いが24の時だったから、今年で29だ。そろそろ親戚辺りから「結婚の方はどうなんだ?」などと挨拶代わりのジャブを打ち込まれ、どうなのかはむしろこちらが知りたいというか、どうなんだって聞き方がどうなんだ、今年漬けた梅酒の具合はどうなんだ、みたいなテンションで聞くんじゃねぇよ、と拳なんかも振り上げてやりたいのをぐっとこらえる年齢になってしまったのである。心の中で一子相伝の必殺技を何度繰り出したかわからない。けれど、あくまでも心の中なので、相手はぴんぴんしているわけだが。


 ただ、郁子としては特別結婚に対して憧れがあるわけではなかった。絶対にしなくてはならないもんでもないだろう、とも思う。別に国民の義務でもないじゃないか、と。

 国民の義務といえば、勤労、納税、教育となるわけだが、脱税をする政治家やら何やらもいるわけだし、何やかんややむにやまれぬ事情があって働けない人もいる。ならば、仮に結婚が義務になったところで、出来ないものは仕方がないのです、と開き直られればそれまでなんじゃないのだろうか。


 そんな郁子ではあるが、全く焦っていないというわけでもなかった。友人達が結婚ラッシュなのである。中には2着目のウェディングドレスという強者もいたり、式の数ヶ月後に早速家族数を増やす者までいた。


 乗り遅れている。


 郁子はそう思っている。

 これがまだ、相手がいないというのなら諦めもつく。まだ土俵に立っていないからだ。けれど、自分は既にその中にいて、蹲踞そんきょの姿勢から立ち上がり、さぁはっけようい残った、と取り組みまで開始しているのである。


 残った残った、となかなかの良い勝負をしていると思っていたが、ちょっと待て、よもやこの「残った」は「売れ残った」ではあるまいな、と冷や汗をかきながらの大一番なのであった。


 郁子はこれまで『そこそこ』の人生を送っていると思っていた。概ね良好、可もなく不可もなく、いやいやこれぞ順風満帆、と。

 勉強もそこそこ出来たから、そこそこの公立大学へ進学出来た。そこでもそれなりに優秀だったし、就活でもそこまで苦労しなかった。高校の同級生である孝明と秋田で出会ったのは全くの偶然だったが、それがまた運命を感じさせた。結婚式で語るエピソードとして申し分ないと、そんなことを思ったりもした。


 まぁ、3年くらい付き合ったらプロポーズされるだろう。断る理由もないから受けるとして、子どもが出来るのはまぁ、その2年後くらいだろうか。29で出産、一昔前なら遅いと言われる年齢だが、現代においては概ね平均的なんじゃなかろうか。悪くない。


 そう思っていたのに、いまだに自分は『小出』のままだし、腹に命も宿していない。友人達は自分の思い描く計画通りの人生を送っているというのに。


 他に女がいるようにも思えない(彼のスマホはチェック済だ)し、自分を養えないほどの稼ぎでもない。第一、仕事を辞めるつもりはないので、多少給料が安くても問題はない。友人達が当たり前のように『人生の伴侶として選ばれて』いるのに、自分にそのお声がかからない。その事に郁子は焦っている。苛立っている。かといって、自分から結婚を仄めかすのも、何となく恰好悪い。あくまでも、乞われたい。


 ここまで来て、やっと、彼自身に結婚の意思がないのではないか、という考えに至った郁子である。

 となれば、さっさと見切りをつけた方が得策かもしれない。結婚がそこまで良いものかはわからないが、皆していることだし、体型が崩れていないうちにウェディングドレスっていうのも着てみたい。親戚連中からの「結婚はまだなのコール」も止むだろう、と。


 郁子は知らなかったのだ。結婚したらしたで今度はそれが「子どもはまだかコール」に進化するということを。


 だからもういっそ、別れ話をしようかと思ったのである。

 もしかしたら、それを切り出すことによって、彼の方でも考えを改めるかもしれない、という思惑もあった。いわゆる最後通牒ってやつだ。


 孝明がじっと郁子を見つめる。

 彼も彼で、決してイケメンとは言い難い面構えである。醜男というわけではない。味のある顔だと思う。ただちょっと鼻が長いかな? というのが郁子の評価だ。けれども、自分だって特別美人なわけでもない。ちょっと目と目の間が離れすぎな気もするし(小学生時代のあだ名はカエルだった)。それでも彼はそんな彼女のことを可愛いと言ってくれるのだ。父親以外の異性で彼女のことを可愛いと言ってくれるのなんて、カットモデルを探している美容師か、売れ残りのジャケットを売りつけたい販売員くらいのものである。


「あたし達……、結構長いじゃん?」


 もっとズバッと切り込めよ! とも思うのだが、小説の登場人物皆が皆ズバッと言えるタイプだったら、もう3ページくらいで話が終わってしまうのである。3ページで終わってしまうとなると、単行本にならないので困ってしまうのである。なのでこうやって細かい心理描写やら作者の考えやら果てはストーリーには一切関係のない雑学やらで限界まで薄く伸ばす必要が出て来る。あなたが読んでいるこの部分が正にそれです。


 さて、少々日和った郁子であったが、孝明も何か思うところがあるのだろう、「ああ、うん、まぁ」などと目を古式泳法で泳がせつつ、歯切れの悪い返答をした。


 その時である。


 だだだだだだだだだだだだだだ、という、明らかにカフェに置いていそうな何とかマシンの類ではない機械による音が店内に鳴り響いた。

 おっ、マスター、BGM変えた? これ有線? と尋ねる者はいない。マスターの方でも「何だ何だ、近くで工事の予定でもあったかな?」などと店の外を見ることもなかった。アルバイトのヨリ子ちゃんも「お冷のお代わりいかがですかー?」と平常運転である。

 しかし、看板猫のみたらしだけは違った。にゃっ! と叫んだかと思うと、脱兎のごとく(猫なのに『脱』とはこれ如何に)調理場の奥へと逃げてしまったのである。2話にして、やっと看板猫が登場したかと思ったら、もういなくなってしまった。せっかくそろそろ飽きて来たしブラウザバックしようかな、と思っているであろう読者様を繋ぎとめるべく登場させたというのに、こんなことでは困るのである。


 仕方がない。作者権限を振りかざし、数分後にはどうにか落ち着いたことにして戻らせるので、もうしばらくお付き合いいただければ幸いです。

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