3杯目 15番テーブルの客

 さて、そう、だだだだという異音が鳴り響く店内なのである。

 コーヒーミルでも、エスプレッソマシンでも、ビールサーバーでも、とにかくカフェにありそうな音を発する機器の類ではない音が鳴り響いているのである。何だ何だと辺りを見回したのは8番テーブルに座る郁子と孝明くらいなもので、その他の人間(従業員と客)は、数人がその音の方をちらりと一瞥した程度であった。ああ、まぁ、戻ってきたみたらしも迷惑そうな顔をして「とりあえず戻って来てやったし、どうしてもって言うからここにいるけど、だったら……わかるよな?」みたいな態度でヨリ子ちゃんが差し出した煮干しを払いのけている。これじゃない、もっと良いやつがあるのを知ってるんだぞ俺様は、というわけだ。


「えっ、ちょ、まじ?」


 15番テーブルを見た郁子が思わず呟いた。もちろん、向かいに座る孝明くらいにしか聞こえないほどの小さな声であったが。


「良いの? ここ、カフェだよ?」


 身を乗り出し、ひそひそ声でそう言うと、孝明もそちらをもう一度見、「いや、普通は駄目だろ」と返す。けれども、「でも、ほら、いまはパソコン持ち込んで仕事する人もいるし、コンセントとかあるから」と続けた。つまり、そういうものを使える環境にしているということは、使っても良いということだろう、ということが言いたいらしい。


「いや、パソコンはそこまでうるさくないじゃん。ていうか、根本的に違うじゃん、パソコンとは。だって――ミシンだよ?」


 そう、ミシンなのである。

 8番テーブルから離れること5メートル程度、店の奥にある4人掛けの15番テーブルで、女性が2人、楽し気に談笑しながら、針仕事をしているのだった。さっきまでは少々話し声が聞こえてくる程度だったはずなのだが。恐らく、ミシンはいま取り出した(どこから?)のだろう。


「でも、誰も注意したりしてないじゃん。もしかしたら店の人なんじゃない?」

「店の人?」

「そう、例えば、この店のテーブルクロスを作ってるとかさ」

「テーブルクロス? これナイロンじゃん」

「だから、例えばだって。あとほら……ドアノブのカバーとかさ」

「ふっる! いまどきドアノブにカバーなんてつける? おばあちゃん家じゃん!」

「俺のばあちゃんは受話器にもつけてたし」

「言われてみればあたしのおばあちゃんもつけてたかも。ていうかさ、ドアノブもだけど、カバーつけると滑って逆に使いにくくない?」

「俺のばあちゃんは中に滑り止めも縫い付けてたからなぁ」

「な、成る程、一工夫必要なわけね」


 作者の記憶でも、知り合いのおばあちゃんの家のドアノブにはカバーが装着されていたように思う。正直なところあれが何の目的でつけられているのかはわからないが、レバータイプならまだしも、ノブだと中でつるつると滑ってしまって開けにくいのだ。一説によると、ノブそのものの汚れや、壁と衝突した時の傷を防止してくれるだけではなく、静電気をも防いでくれるらしい。ということは、冬になると雷属性にチェンジする作者にも必要なものなのではないかと思うのだが、実家感が増してしまう気がして躊躇っているところである。


「ちょ、ヤバいヤバいヤバい」


 15番テーブルの『ミシンを使っていない方』こと木更津きさらづ康美やすみ(通称ヤスミン)が、手に持っていたスマートフォンの画面をその向かいに座る湯部ゆべ松子まつこ(ミシンを使っている方)の眼前に突きつけた。湯部は「近い近い近い」と言いながら、画面から少し距離をとり、目を細めている。

 

「何、どしたのよ、木更津さん――お? 何、オザワヤ?」


 オザワヤというのは大手手芸専門店である。もちろん、実在する店をモデルにしているので、名前を聞いてピンと来た方もいるだろう。実店舗は関東を中心に北は北海道から、南は九州まであるのだが、さすがに47都道府県すべてにあるわけでもなく、当然のように秋田県にもない。そんなオザワヤ難民のために通販サイトもあるので、全国どこに住んでいてもワンクリックで手芸用品が買えてしまうのである。まったく便利な世の中になったものだ。


 そう、そのオザワヤが、なのである。


「うわ、マジで? 30%オフじゃん!」

「ヤバくない?」

「ヤバいヤバい。財布の紐緩んじゃうんだけど」

「何、湯部っちの財布、紐タイプなの? 巾着?」

「言葉のあやじゃん? 実際はあれよ、がま口」

「がま口可愛いよね、良いよね」

「でも私、がま口苦手なのよ」

「何、がま口に苦手とかある? 指挟むとか?」

「違うんだって木更津さん。作る方よ。がま口を取り付ける時に、最後ペンチでぎゅっと挟むじゃん? あの工程で絶対に歪むのよ」

「やりすぎなんじゃん?」

「そんで、絶対ボンドもはみ出てベタベタになるし」

「量が多すぎるだけじゃん?」

「ちまちました作業、向いてないのかなぁ」

「がさつなだけじゃん?」

「それだわ」


 カフェで堂々と針仕事(しかもミシンまで)をするとなると、そこそこにお年を召したマダム(というかおばちゃん)なのではと思われたかもしれないが、全然マドモアゼルというか、見たところアラサーのようである。ようである、って作者なんだからはっきりと年齢を書いちゃっても良いのだが、いやちょっとここは濁させてほしい。諸々の事情があるのだ。

 

 そんなアラサー2人組の木更津と湯部は、このカフェの従業員というわけではもちろんない。こうやってすぐに種を明かせるのも、作者視点で書いていればこそである。もっと感謝してくれても良い。

 まぁ言ってしまえば、2人はこのカフェの常連なのである。ここまでのことが許されるとなると、さぞかし売り上げに貢献して――と思われたかもしれないが、そんなことはない。木更津は自家製ハーブティー(お茶が出る限りお代わりは何杯でも無料、茶葉の追加は有料)のケーキセット(¥750)だし、湯部にしても日替わりコーヒー(3杯までお代わり無料)のケーキセット(¥750)なのである。それでほぼ半日居座るのだ。


 しかし、それについて、マスターは何も言わない。

 実はどちらかがマスターの恋人で――であるとか、実は何かしらの弱味を握られてて――ということもない。そんな常連さんがいてもまぁ良いかな、と思っているのである。何せ、席が埋まっているというのは良いことなのだ。追加注文さえなければ、これ以上忙しくもならない。定期的にお冷を注いだり、紙おしぼりを差し入れれば良いのである。


 枯れ木も山の賑わいと言うじゃないか、とマスターは思っている。最も、枯れ木呼ばわりされていると思ったら、さすがにあの2人も怒るだろうが。


 正直なところ、この店はマスターの道楽で始めたことなのだ。別に彼としては、あくせく働かずとも生きていけるのである。いわゆる――金持ちの息子ボンボンってやつだ。

 彼は親からいくつかの不動産をもらっているので、それの家賃収入だけで家族だけではなく愛人も2人くらいなら囲えてしまう。問題は、養う家族も、囲う愛人もいないという点だけだ。それを言っちゃうと、金目当てに女が寄ってくる(と親から言い聞かせられただけで、実際に寄ってくるのかはわからない)ので、内緒にしている。ヨリ子ちゃんも知らない事実である。一応彼女には、昔書いた小説の印税がちょっとね、と恰好つけているのだが、よくよく考えたらそれでやっていけるということは結構なベストセラーなんじゃなかろうか。信じる方も信じる方だとは思うものの、サインをねだられたこともないため、案外その辺は嘘だとバレているのかもしれない。


 なので、彼としては、正直なところ『カフェのマスターごっこ』をしているだけなのである。豆だけは金にものを言わせて良いものを仕入れているが、彼の腕がそこそこなので、美味しさもそこそこ止まりなのが現状だ。ただ、ケーキだけは格別に美味い。なぜならここの隣が老舗の洋菓子店だからである。メニューに載っているのはそのまま隣の洋菓子店のケーキで、注文があればマスターが自ら買いに行くのだ。もちろんお値段はそのままである。当初はワンホール買っていたのだが、それをおさめる場所の確保が難しいというのと、もっといろんな種類があった方が良いんじゃないのか、というヨリ子ちゃんのナイスアイディアにより、この方法が採用された。

 幸いなことにその洋菓子店の現店長が彼の高校時代の後輩であるため、ケーキの在庫情報は逐一メッセージアプリで知らせてもらえるのである。持つべきものは従順な駒……じゃなかった可愛い後輩である。

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