DONADONA
なかoよしo
類似品
一
目の前には壊れた蓄音機。
レプリカで自分がつくったもの。
ただのインテリアで何の役にも立たない物。
一月以上も掃除をしていない芥溜めのように汚れた部屋の厄介物で必要のない存在。
俺と同類だ。
「イカれているわ。
あんた」
と女の声。
東南の国から留学してきた異国人。
彼女は異人館の女。
異人館とは中央公園前にある喫茶店の名前。
ちかくの学生たちに人気があって、店は結構にぎわっていることが多い。
彼女は其処の看板娘で、マトリと言った。
彼女が俺の部屋に出入りするようになったのは、俺の妹が異邦人の常連で彼女の友人になっていたからだった。
俺は妹と一緒に暮らしていた。
妹は賢かった。
俺は落ちこぼれの嫌われ者。
いつも除け者にされていて、いつも惨めに暮らしていた。
そんな俺と対等に話してくれる。
虫けらやゴミ屑ではなく人間として相手してくれる唯一の相手。
彼女は両親からも、その将来を期待されていた。俺とは別格。頭が良かったからだ。
だから、彼女が死んだときの両親の落胆ぶりといったら見ていられなかった。
「かわりにおまえが死んでいればよかったのに」
それが両親の本音で俺もその通りだと思ったんだ。
俺の方が人生に飽きがきていたのに、どうして俺じゃなく妹が死んだんだろうと俺は思った。
神様は不公平だ。
だれの願いも聞きいれてはくれなかったんだ。
「此処を出ていけ。
お前は希美の友人で、俺には縁もゆかりもない赤の他人にすぎないんだ」
だれとも言葉を交わしたくない。
それも俺の願いの一つ。
神様は聞きいれてはくれなかったが。
「むずかしい話は理解できないけれど、私にとって、此処は希美がいた場所なのよ。
だから、千年先でも綺麗にしておいてあげたいの」
気の長い話だと唾棄したくなった。
「あんたは屑で、だれからも愛されたこともない。
だれかを愛することもできない男。
だけど知っているわ。
あなたが彼女を大切にしていたことを。
彼女に愛着を感じていた。
彼女を手放したくはなかったの」
とマトリ。
俺とは肌の色が違う女。
なんのために俺と話をする。
言っていただろ。
俺は虫けらでしかないと。
「あなたなんでしょ。
そうとしか考えられないんだもの」
たしかな疑いの眼差し。
侮蔑と嫌悪。
それに俺はいつも憎悪を感じていた。
「なんの話を言っている?」
俺はシラをきっている。
マトリの話になんて興味はなかった。
無論、彼女自身にもだ。
「希美の遺体を隠しもっている。
そうでしょ?
だれも気がついていないけど、私だけが知っているわ」
「想いは同じ。
だったら俺の願いもわかるだろ。
おまえと話なんかしたくないんだ。
おまえも」
「あなたをコケにしていたから?
勘違いしないでね。
いまもコケにしているもの。
私は、あなたのことが大嫌い」
「しってるよ。
だから取りもどしたいのか」
「冗談。
わらえるわ。
あなたの手に触れたものは全部が汚物になる。
私が手を触れられる筈もない。
だけど、あなたが彼女を汚すのは、もっと許しがたいのよ」
「遺体なんて此処にはない。
見て解らないのか」
と俺は周囲を見渡して見せた。
彼女は平然、それがどうしたという感じだった。
「此処にあるとは思っていないわ。
何処にあるのかを聞いているの」
そして冷然、俺には笑顔どころか表情ひとつ作らない。
良くも悪くも、人間としての認識さえしていないのだろう。
「遺体がないことに気づいたのは昔みた刑事ドラマの影響なの。
あるべき場所にない物が気になってしまうのよ」
「それで得意気に俺を追求しにきたっていうことか。
いっておくが捜査ごっこの手順なんて聞きたくはないぞ。
遺体はもう墓の中だ。
俺は他人に馬鹿にもコケにもされてはいるが変質者ではないんでな。
とくに、希美の眠りを妨げるのは俺の本分ではないんだよ」
虫けらの戯言だと馬鹿にされる。
それでも俺には構わなかった。
この世界に信じられる者などいない。
たった一つの個体。
それが俺だったから。
「なにかあると思っているのね。
希美が死ぬには理由があると」
「なんにだって理由はあるさ。
だが、このままじゃ希美が浮かばれない。
俺には、それが苦痛なんだ。
なによりも?
悪夢よりも」
「現実は、それ以上に過酷で皮肉だっていうのに?」
「こんなの現実なんかじゃないさ。
俺はずっと夢の中を生きている」
「もしかしたら本当のあなたなんて誰も知らないのかもしれない。
でも、あなたが異常だってことは私にも解るわ」
「異常が正常なんだよ。
俺には悪夢が似あっているんだ」
「洋介。
あなたはイカれているわ。
いったい何を考えているの」
とマトリ。
彼女は怯えるように呟いていた。
それが黒羽洋介がはじめて見るマトリの表情の変化だった。
二
黒羽希美は無垢な女。
誰からも愛されている女。
だからこそ彼女をよく知らない人間は彼女に不快な感情を隠しもっていたのかもしれない。
「兄さんのことを悪く言うのはヤメテ。
ああ見えて本当は心優しい人なのよ。
ただし、その表現の仕方が解らないだけなのよ」
「そんな人間は山のようにいるさ。
俺だってそうだ。
おまえだって、そうじゃないのか」
憂鬱。
それに食いあらされていく感情。
自分が酷く浅ましく汚らわしいものに思えてしまう。
だから兄を弁護するのだ。
本当は、あんな兄さんなんていなくなれば、どんなに幸福かもしれないのに。
「理不尽なんだよ。
世の中の仕組みが全てそうだ」
なんで私はこんな所で、こんな男と話をしているんだろう。
面白くも何ともない。
感傷も感動もまるでないのに獣欲に押し流されて、私は今日もこの男の腕に抱かれて眠るんだろうな。
「世の中の仕組みのことなんか、よく解らない。
だけど自分の性格くらいは解っている。
踏ん切りがつかないのよ。
だから今日も同じ夢をみるの。
昨日と同じ夢。
そしてたぶん明日も同じ夢」
「何を言っているんだ」
汚れを知らない女だと信じてくれる人間なんていない。
実際は遠に汚れた女だから、無理矢理そんな言葉を使うのは偽善的で吐き気もする。
愛情なんて紙一重で、思えば悲恋さえも烏滸がましく、私には無縁のものだった。
「私は他人を好きになったことがない。
愛を知らずに生きてきたの。
それなのに、いつも周りには他人がいた。
私、嫌な女なの。
自覚しているのに世間は黙阿弥。
私を外見だけで判断した。
まるで聖女のように持て囃した。
それが私には唯一の苦痛で、感情と苦悩の大部分を占めていた。
それでも誰も私に気づいてくれない。
本当は誰も私の感情になんて興味がなかったからなのよ。
ただ一人。
同類を除いて」
「俺のことか?
おなじ穴の狢って奴だ。
だから俺は此処にいる。
おまえも俺には腰を振ってケツを振る。
ただの女に成り下がるわけだ」
「そう?」
勝手に言っていればいい。
私は遠に壊れている。
心も体も粉々なのよ。
あんたなんかに抱かれたのはそれが理由。
そもそも私を抱いたのは、あなたが初めてという訳でもない。
もう両手では数え切れないほどの相手と関係を結んでいる。
愛情とは無縁で、ただ怠惰で自堕落な獣の習慣。
私には取るに足らない遊びだった。
肉体にモラルが欠如した私には。
「まだ夢のつづきなのかもしれない。
たぶん明日も、明後日もおなじ夢。
イガイガの機械を組み合わせて作られた不格好な時計みたいに正確だけど異物なの」
「なに言ってんだ、おまえ。
ワケわかんねぇ」
「この世には憎しみと痛みしかない。
それが兄さんの口癖なのよ。
兄さんの友人が言っていて、それが兄さんに移っちゃって今では私にも伝染してる」
「それが?」
「同感だなって思うのは、それを言っていた兄さんの友人に会ったからなのよ。
彼は誰にも愛されたことがない自分は、だれかを愛する試しもないって、よく言っていた。
裏腹な想いを抑えきれない科白よね。
彼、だれよりも愛に飢えているの。
だけど愛が、どんなものなのかも知らないの。
だから彼はいつも一人、孤独でいる他に術をもたなかったのよ」
「やっぱり意味がわからねぇ。
おまえ、何が言いたいんだよ」
「でしょうね。
だから私はあなたのことが嫌いなの。
本当よ。
だから帰るわ。
また暇になったら遊んであげる。
だけど、それだけの関係なのよ。
誤解しないで、あんた程度の男はザラにいる。
そして私は自由に扱うことができる女なの。
それは神様が私に与えてくれた特権だから」
と言いながら服を着て、希美は男の部屋から出ていった。
山間にある男のマンションから出ると雨が降っていた。
泥濘に足を取られそうになりながらも彼女は自分の車に乗り込むと、このまま男のマンションに突っ込んでやろうかなんて出来そうにもないことを妄想して、すこし可笑しくなって気分が晴れたと妙に笑って、「なぁんだ、私やっぱ変な奴じゃん」と独り言。
そのまま帰路についていた。
夢想家だというのも自覚。
彼女は自暴自棄になるのも好き。
自分に興味をもたないが、くだらないことで心を壊せる特技も持っていた。
「ESってのを知っている?
けっこう流行っているんだけど、ESは、あるアドレスの持ち主の名前。彼にメールを送るとね。なんでも思い通りになっちゃうんだって。
みんなは『なんでもできる魔法使い』だって言っているけど、もしも希美も願いがあるんだったら彼にお願いするといいよ。
彼に欲望のメールを送信して、そのあとに履歴を消すの。
したら、たったそれだけで、あなたの願いも魔法使いが叶えてくれちゃうんだよ」
と異邦人という喫茶店の女、マトリが教えてくれた時は、彼女の祖国で語り継がれている伝説の事かと勘違いして聞いていたんだけど、どうやら、そうではなかったらしい。
おとぎ話に夢中になれるほど子供ではないし、魔法使いなんてバカバカしいとは思ったんだけれど、幸福の糸口が掴めない私は、ホンの冗談でついメールをしてしまったの。
しかも悪いことに、そんなメールを残していることが何だか恥ずかしくなった私は自分の手で、そのメールを削除してしまったの。
それが、どういうことか解るでしょ。
私は自分の手で、私を殺してほしいと頼んだのよ。
その、なんでもできる魔法使いっていう奴にね。
だから、私は今こうして死んでいるんだよ。
なんか自業自得なんだけどね。
三
僕が住んでいた愛媛県南宇和郡愛南町ってとこにはチッチッチッと雀のように鳴く袂雀という化け物がいる。
こいつは山犬や狼なんかを呼びよせたり、迂闊に捕まえようとする者を呪いにかけ夜盲症にしたりするという。
そんな話を黒羽洋介に話してみると、不可思議なことは起こるものだと頷いていた。
「妹が死んだのは聞いているか」
と洋介。
彼が僕の全てを信頼している訳ではないのは解っているが、僕が希美の婚約者だったから、彼女を想う僕の気持ちに関しては信頼をしているといったところなのだろう。
「もちろん。
泣きあかしたよ。
とはいえ、まだ泣きたりない。
最初は、その事実を認識できずに放心状態だったんだが、日の巡りが心に余裕を与えてくれた。
今は泣けるんだ。
今日も、明日も、おそらく明後日も来年も。
十年後も百年後も、千年たっても僕は泣ける。
この身が朽ち果てて灰になってしまったとしても永遠に変わらない。
僕は彼女を愛しつづけるだろう。
たとえ他に誰と出会っても変わらない。
たとえ、どんなに時が流れても変わらない。
気持ち悪いだろう?
こんな想いが僕にはあるんだ」
夕べ、空を見あげて立ちつくした。
あまりに夕焼けが鮮やかな紫色に見えたから。
希美が何処かで僕を照らしてくれているんじゃないかと思ったんだよ。
「今は、いつも見逃していたような取るに足りないツマらない事も、彼女と関連づけないで考えることなんか不可能なんだ。
僕には彼女が全てだったから」
重いな。
我ながら思う言葉を洋介が呟いていた。
「だが解らない話じゃない。
俺なんか、あいつの死が信じられずに墓を掘り起こしたくらいなんだ」
「墓を掘り起こす?
何のために?」
「言ったろ。
希美の死が信じられなかったからだ。
だから墓を掘ってみた。
自分の目で遺体を確認するためにだ」
「でっ、いったい何が発見できたんだ」
「発見できたものなんか何もない。
まさに怪死だよ。
外傷もなく、腫瘍もなく、病気でさえなかったんだから」
「だから誰も死因を突きとめることができなかった。
専門家の知恵が及ばない領分に、僕たちが無力なのは仕方がないこと。
死者を冒涜してまで君は納得がしたかったのかい」
「さぁな。
だが納得はしたつもりだよ。
あいつは死んだ。
もう元には戻らない、ただの亡骸になっちまったんだってな」
と洋介の表情は苦虫を噛みつぶしたような悲痛なもの。
彼も僕と想いは同じ。
そう思って彼を追求することはやめてしまったが、心の底では気になっていた。
いったい何に疑惑を抱いたのかということだった。
「なるように成る。
それだけだよ。
水が天に昇れば雲になるように、なんだって場所に応じたカタチをもっているものなんだ。
だから僕は希美を周りの奴らが讃えるような聖女だとは思っていなかった。
無知で無垢な哀れな女性だと思っていた」
想いは人それぞれで、目にうつるものが真理だなんて少しも信じた事はない。
肉体を切断するよりも苦しい痛みが心にはある。
それすらも理解できない痴れ者の一味に自分はあった。
どんなに深い悲しみに打ちのめされようとも。
たとえ全身の皮を削ぎおとされ、その身に塩をぬりたくられようとも、流す事のないであろう涙を、いとも容易く溢れさせる。
「愛情なんて紙一重だよ。
誰もが幸せになれるレールがあるのだとしたら、意地でも其処から離れられなくなる。
其処から、踏みはずしても構わないと思わせられる幾つかのものに、あいつの存在があったんだろうな」
ずっと不遇な毎日を過ごしてきていて、僕は笑顔の作り方や使い方を忘れてしまった。
その意味を思い出させてくれた彼女。
その存在は自分にとって尊くかけがえのないものだったと・・・
だから僕は悲しいんだ。
四
もしも、もうひとつの世界が存在していたのならって考えることはない?
鏡の中にある世界とか、影の中にある世界とか、ある局面において自分の選択肢ひとつで大きく変動してしまった別の世界とかさ。
それをもしも自在に操ることが出来るとしたら、とても素晴らしいと思わない?
つまり今ある事象を、かつてあった事象や、あらゆるパターンの中で塗り替えられていった事象なんかに切り替えるのよ。
そうしたら運命さえも思うがまま、まるで『なんでもできる魔法使い』みたいになるんじゃないかと彼女は笑っていた。
透けるような水色の髪の毛。翡翠色の瞳。常に笑みを浮かべているが、その笑顔さえも仮面のような薄気味の悪い彼女。彼女は自らシャラン・ドナと名乗っていた。
年の頃は十六・七の少女。体躯はスラッとしていて背も高く、大人びていてモデルのように美しいが、彼女はいつも他人を疑っていたため、腹の内を覗かれるのを嫌っていた。
「だけどね。
本当にもうひとつの世界は存在しているのよ。
だれも気がついてないってだけでね。
いいえ、もしかしたら気がついてはいるけれど、そこに干渉する術をしらないから、ただ野放しになっているってのが正しいかも。
だけど不意に、なにかの弾みで、それを飛び越えてしまった人がいるとしたら、神様は、その人にとんでもない力を与えてしまったことになるってね。
あたしはそう思うのよ」
まるで自分は神様に選ばれたとでもいいたげな彼女を、他人は気が違っているものだといつも思っていたが、それは彼女の言っている言葉の意味を誰も理解しないから、それは仕方がないことだったのだ。
人間と神様の違いなんてホンの一欠片の違いでしかない。
薄い扉一枚隔てた生命の価値観の違い、もしかしたら本当にそれだけの違いなのかもしれない。
でも、あたしは結局人間でしかないから、しょせん神様にはなれないし、神様がどう言ったものかも理解することなんかはできないんだよ。
だけど、どうにかスレスレで、その境界線に手をかけられる者もいる。
だけど、どうにかスレスレで、人間の道を踏み外せる者もいる。
「ESのことかい?
それを君は言っているんだ」
公園のブランコで携帯電話をいじくっていたシャラン・ドナ。
彼女に声をかけたのは冴えない中年の男で名前を斐(ひ)月(づき)要(かなめ)だと、そう名乗っていた。
「どうでもいいよ。
自分のことも、他人のことも。
あたしの言葉なんて気にしないで」
「そこに不実や無誠実があるとでもいいたげな言葉だな。
真実が常に正しいと、そのままの意味があるとは誰も言い切れない。
時間や場所、あるいは事象に変化があるとすれば、今、真実と信じていることが不実や無誠実に変わることだってある。
君の言葉に意味がないとは、俺には到底信じられない」
「そっ。
ざらざらと、ざわつくもの。
じりじりと、おしよせるもの。
いらいらと、ゆれうごくもの。
あたしたちは不安に押しつぶされそうになる心を、幾度も奮いたたせて立ちあがっている。
だから無知蒙昧に、ありえない願いをクチにする。
できそうにもないことに夢中になる。
胸を焦がす。
だとしても・・・
決して届かない夢もある。
叶えることのできない現実や、手に触れることさえもできない焦れったさに人は痛みを感じるもの。
人は涙を流すものなの」
「人は心の中に扉を閉ざすことがある。
そして扉には必ず鍵がある。
その鍵は簡単に目には見えるものではないかもしれないが、必ず、その人の心の扉にあう鍵は存在する」
「なにを言ってんのさ」
「どんな不快な悩みさえも折り合いをつける大人らしい解釈ができるように人間はできていると言っているんだよ」
「あなたは叶わぬ願いなど捨てろと言うのね。
あきらめた方が楽なんだと。
だけど、理屈だけで解釈できないのも人間なんじゃないかしら?
だから、気持ちの問題って言葉があるんだよ」
「あきらめは肝心だぜ」
「あなたは、そうかもしれないわ。
だけど世の中の多くは、あきらめるくらいなら死を選ぶ。
そんな人間だって少なくはないのよ」
「戯れ事だな」
「そうかしら?
だとしたらESなんて蔓延らない。
人間がESに縋るのは、自分の限界を知って猶、あきらめることが出来ないから、そうなのよ」
「ESは必要か?
その者の願いを叶えるという魔法の手段に殺人というものが潜んでいたとしても君は、そんなことが言えるのか」
「人間はいづれ死ぬわ。
人間だけとは限らない。
この世界にあるすべての生き物は、やがて死に至るのよ」
「それが真理だと言うのなら、君には呆れるとしか言いようがない。
本当に大切なものが何なのか、まるで解っちゃいないんだ」
「涙ながらに追いつめられて助けを求める人の手を、あなたは払いのけることができるの?
その人は今にも死にそうな顔をしているっていうのに?」
「だとしても君に、その人物が善人か悪人かの判断はできない筈だ。
その人たちが、その状況に至るまでの状況を君に、把握できた筈がないのに」
斐月はドナに、こう伝えたかった。
「涙の希少価値がわかるなら。
君だって他人に優しくすることができた筈」
と。
シャラン・ドナは生まれつき異質な能力を持ちあわせていた。
我々のいる現実世界と、インターネットや電波によって成立する世界感に近い、もう一つの仮想世界を彼女はいつでも自由に行き交うことができたのだ。
「それは夢幻とは違うのかい?」
もうひとつの世界で自分が死ねば、現実世界でも自分が死ぬ。
もうひとつの世界で他人を殺せば、現実世界でも、その人が死ぬ。
世界はリンクしているのだったが、彼女は頭の中で、そのことを考えるだけでも他人を殺めることができる。
彼女は超能力を持っていたのだった。
握った手にある凶器の重さが実感できなければ、人間は罪悪感さえも抱かないんだ。
「君には誰の声も届かないのだろうか?
自身が信じる正義に絆されて、あたりまえである筈の善悪の解釈さえもつかなくなった」
「説教のつもり?
ウンザリなんだけど。
だって誰だって思っている筈じゃない。
こんな奴いなければいいいのにとか、殺してやりたいとかさ」
「思うのと実行するのでは雲泥の差だ。
わからないのかい?
君は今、道を踏みはずしているんだよ」
「いい根性をしてるのね。
説教なんてウンザリだって言ってんのに。
あんた、そんなにあたしを怒らせて死にたいの?」
「たしかに。
とてもやってみろとは言えないな。
その手段は解らないとしても、君が連続殺人犯であることに変わりはない。
俺の生命なんて簡単にむしりとってしまえるんだろう。
その訳の解らない手段を使って」
「そうね。
自分でも説明不可能だわ。
現実世界と仮想世界を渡り歩けるなんて、タネを言っても誰も信じてはくれないでしょうし」
「いや、俺は信じるよ。
げんに君が殺人鬼の精神経を持っていることは理解したつもりだから」
「みたいね。
だから、あたしはあなたも殺すかも。
あなたさえ殺してしまえば、世の中にあたしを殺人鬼扱いする人間はいなくなる」
「さぁ、それはどうだろう?
たいへん買いかぶってくれているので恐縮だが、俺程度の男が辿りつけるんだ。
君が、誰か見知らぬ他人から報復を受けるのは時間の問題だと俺は思うぜ」
「どういうこと?」
「君の能力が完璧ではないということだよ。
つまり、君が仮想世界に干渉するために、他人の願いや送信したデーターを打ち消したことを受信できる範囲は、この町内に限られていて、さらに君がこれまでに殺害した人間の範囲は、それよりも狭い。
その中心にある公園に佇む君へと辿りつく人間は他にもいるだろうというだけさ」
「そっ。
でも、それをあたしが聞いたのなら、おなじ轍は踏まないって思わない?」
「かもな。
でも、もう手遅れだよ。
この公園はすでに包囲してある」
「それでもあたしは、此処にいる全員を殺害して立ち去ることができる。
たとえ、あたしの能力に限界があるとしても、制限なんてないのだから」
と、その科白を言い終わるか終わらぬかという合間に、彼女は見知らぬ何者かによって、背中に包丁を突きたてられていた。
彼女、そのまま前に倒れこむが、そこには斐月が立っていた。
彼女は斐月によりかかる。
「もしかして、あたし殺されるの?」
とシャラン・ドナ。
彼女は自分の行為に悪意がなかった。
ただ多くの人を救ってあげたいと。
その人たちの願いを叶えてあげたいと。
最初は純粋な想いしかなかったのだ。
「恐いのか?
だったら俺を道連れにしたらいい。
俺はちっとも構わないんだ」
「無理だよ。
あたしに、そんな覇気はない」
と彼女の遺言。
「わりぃね。
たぶん、そう言わなくちゃダメなんだよ」
と。
陽の光が眩しかった。
光陽に昂揚しているだけなんだと言い訳をしたいが、胸の中に穴があいた心地。
斐月の痛みは想いの外に深かったのだ。
「君を殺したのは俺のせいだ。
俺が君を殺させた。
それ以外に言葉もないよ」
彼女は安らかに眼をとじていた。
その素顔を見て、彼女は解放されたのだと斐月は思った。
もっとも神様の寵愛を受けた人間なんているのだとしたら、それが彼女なのかもしれないと改めて思う斐月。
「もっと心について話がしたいと、そう思ったのは彼女に対してだけという訳ではないのだが」
と悔やむ。
それはシャラン・ドナが殺害された夜に、殺人がおきたと噂のあるライト&シャドウというバーでの愚痴だった。
シャラン・ドナを殺害した男は、その場で自首をしてきますと言い、その言葉の通り警察に出頭した。
斐月には縁もゆかりもない男で、一度も顔を見たことはなかったのだが、斐月が殺人犯を見せてやると言って連れてきていた黒羽洋介は、妹の婚約者だった男だと説明した。
「もしも俺が殺されたなら、その犯行現場を君に撮してもらいたかったのだが」
そのために黒羽を木陰に隠していた斐月。
「君も俺とおなじことを考えていたんだな」
と、斐月は黒羽に聞いてみると、
「善人が間違いを犯さないとは限らない。
被害者にとって仮定は関係がないんだよ。
ただ罪を償わせてやりたいだけだ」
「目には目を。
歯には歯をってか?
ハムラビ法典の信者だとは知らなかった」
「おまえが超能力なんて言葉を口走ってからは、たとえ捕まえても法で立証して彼女を裁くのは難しいとは思ったんだ」
「だから、おまえが変わりに裁くと?」
「俺じゃないさ。
見てただろ?
あの男だ。
希美を殺されたんだぜ。
俺だって気持ちはおなじだった」
「わかっているよ。
だから、俺も責めはしない。
だけど、なんだか・・・」
・・・やるせないんだ。
「あなたは優しすぎるのかもしれないわね。
だから他人が恐いのよ。
その人の傍にいるのも恐ろしかった?
愛する人の傍にいることさえも恐い?」
ライト&シャドウではピアニストもやっているウエイトレスのティンカー・ベル。
彼女は皆からティンクと呼ばれているが、それが本名なのか、綽名なのかも斐月は知らない。
ただ彼女に言われるままにティンクと呼んでいる。
その彼女が斐月に馴れ馴れしいのは彼が常連という以上に意味のあることだった。
彼女は、彼が恋心をよせる女性のことを知っていて、彼に恋愛のアドバイスをしていたからだった。
そんな相談ができる相手が斐月の身近には誰もいない。
斐月は孤独な男だったのだ。
「俺のことなんかどうでもいいんだよ。
それよりあの女?」
「調べたわよ。
シャラン・ドナって名乗っていたみたいね。
本名はシュー・レラ・クレームって、今は亡き王国の王女様だったみたい」
「今は亡き?」
「クーデターで祖国を追われたのよ。
クレーム王国は王制を敷いていたみたいなんだけど、父親を亡くし、継母の連れ子と王位をめぐって戦ったらしいの。
敗れて国を追われたのよ」
彼女は王女でありながら幸福な人生を送ってはいなかったとティンクは言う。
彼女には、そう見える人生があったのだ。
王の娘といっても早くに母を亡くしており、彼女は王室という檻よりも酷な、牢獄に閉じこめられて幼少期を過ごしていた。
それは母親の死の直後、王が再婚した新しい妃の手によるものだったのだが、その母の死さえも新しい王妃の仕業とさえ睨んでいたシューは、王妃にとって邪魔な存在。
女の色香に目を奪われて心まで翻弄されていた王は絆されるまま、王妃の言いなりになるだけだった。
シューが牢獄から解き放たれたのは三年後、それは王妃に娘が産まれたからだった。
牢から解き放たれた彼女は世間一般の生活を望み、それ以外は何一つ求めようともしていなかった。
「ながい牢獄での生活が、彼女の心を屈折させた」
監視つきではあるものの部屋を宛われた彼女が、なによりも欲しかったのは平凡な幸せだけだった。
「彼女が欲しかったのは平凡な幸せ?
それは君の勘違いだろ。
あの娘が欲しかったのは心だよ。
人々から愛されたい、感謝されたい、想われたい。
悲痛な祈りのようなものを感じたよ」
「それは、あなたも同類だからよ。
わたしには何も解らないもの」
「かもな。
でも、だとしたら、
俺の祈りだって誰にも届かないのかもしれない」
「そうね。
テレパシーなんかに頼っていちゃダメね」
「そりゃ、そうだろう?」
「あなたがしていることなのよ」
「・・・?」
「言葉にしなきゃ想いは伝わらないって言ってんのよ。
愛しているんでしょ?
まだ彼女を。
でないと、とっくに誰かと一緒になっている筈だもの」
「かいかぶんなよ。
俺には相手がいないだけだよ」
「さっき、あの子も来ていたのよ。
あなたの大好きなあの子がさぁ」
「それがどうした?
もう忘れてんだよ」
「んなわけないじゃない。
ほんと、嘘つきなんだから」
シュー・レラ・クレームの監視役を任された青年は思慮深く、心優しい男だった。
「君は、こんなところに居てはいけない。
もっと青い空の下、広い世界をめぐるべきなんだ。
そうしたら、きっと君の幸せも見つかるから」
「あたしを連れて逃げてほしいの」
と願う彼女に手をさしだした青年。
その存在は彼女にとって神々しいものだった。
たとえ、打ち砕かれる運命とは悟っていても・・・
「逃亡は失敗。
眼の前で惨殺された青年は、いまわの際にこう言い残したの。
けっして怨んではいけない。
憎しみは人を貶め苦しめるから。
君は、けっして人を憎んではいけない。
僕も、誰も憎んではいないからねって」
絶叫。
喉が潰れても彼女は叫ぶのをやめなかった。
心の痛みに耐えきれず、全身の毛穴から血しぶきが吹き飛ぶほどの無惨さで。
彼女は気がふれるしか選択肢がなかったのだ。
「その頃から、きっと始まっていたんだね。
彼女の中で。
自分以外の誰かのために生きたいという悲痛な想いが」
「自分がどうやったら幸せになれるのか解らなくなったんだ。
だから他人のために生きるしかない。
哀れだよ。
それ以外に言葉もないよ」
とまた斐月。
勝手に落ち込み、悪い酒を呑みはじめた。
彼も、彼女と同じ気持ちが心の何処かを漂っていると、そう感じる人間だったからだった。
五
緩い脳みその記憶と照らしあわせて朝食のメニューを思いだしてみる。
思いだせない。
あつい陽気に汗ばんだ脇の下で体が溶けていくような錯覚をおぼえる。
しあわせなのは悪いことではない。
ただ、本当にしあわせだというのならだ。
自転車は必需品。
自分にある唯一の移動手段。
そして、自分という人間を社会に刻む身分証明は保険証だけ。
随分と貧しい女である。
世間の枠から価値を見いだすのなら、そうなのである。
卑下することは高徳ではない。
財産なんて、その言葉さえも勿体ない。
母は昔に死んでいる。
父は運送業を営んでいる。
姉は男と出ていった。
弟は土木作業に勤しんだ。
無能の自分、行き場が見つからないからレストランで働いている。
幸福の鳴き声は聴こえない。
自分から進んでいく道は、誰かが踏みならした跡しかない。
石碑をみつめる。
彫り込まれている文字を読んだことは一度もない。
その横には天狗岩。
天狗岩には願いを叶えてくれるという伝説がある。
天狗岩とは天狗の顔を象った岩であり、その鼻に触れて心に三度、願い事をとなえると、かならず願いが叶うという。願い事なんてない。諦めることに自分は馴れてしまっているから。自分を自分たらしめるもの。存在意義なんて必要だろうか。仕事場で昔から働いていた先輩は病気で長に入院をしているという。誰も見舞いには行っていないらしい。自分のことを好きだと言っていた。その気持ちが解らないから答えてあげることが出来なかった。
そういえば何度か血を吐いたのを見たことがある。
人なんて呆気ない。
大切な人もいなくなる。
優しさの使い道が解らない。
善悪の判断も解らない。
男なら誰だっていいように思えてくる。
たいした男じゃなくったって自分はそれに抱かれたがって見せることができるのだ。
ただ、その人とは年が離れていたために抵抗があった。
ほんとうは風評に惑わされた?
よく解らない。
いま思ってた事が、いまの事ではなくなるの。
目の前で他人に侮られている彼。
友人に気味が悪いと言われている彼。
財産もなく将来性のない彼。
どんどん否定することで自分の了見が小さくなる。
そういう環境にあったからだと肯定している自分の頭は短絡的。
もっと大人になれればいいのに。
姿形なんかじゃない内面。
精神的に子供だから真実から眼をそむけ、好き嫌いの判断さえも怪しくなった。
人は恋をするのだろうか。
打算や世間体なんかじゃなくて、ただ心の動きだけで。
あたしには理解できないことなんだけど。
このさき自分は、いったい何人の男と体を重ねることになるのだろうか。
衝動的な肉体が感じる快楽だけを、しあわせだと思うのは、自分が無知蒙昧であることが原因なのだろうか。
履歴書を書く。
学歴をみて気づく。
自分には何もないことを。
男に委ねて死ぬ以外に、自分には道がないということも。
人生を諦めるには充分なんだ。
「人見知りをする?」
「はい」
「それじゃ、ちょっとねぇ。
受付といっても接客業だし、笑顔は綺麗だけど喋れないとダメなんだよ」
そう、つくり笑いは苦手じゃない。
自分が魅せる上っ面だけしかみない人間には便利な道具だ。
自分に実力以上の価値があると勝手に思いこんで重宝してくれるから。
「あたし、しあわせだよね」
やがて、子供を産むことで、それを男に確認した。
他人の評価や自分の仮定なんかは気にしない。
ただ、しあわせだと実感したかったんだ。
君が涙を流すのは、
ただ己がため?
他人がため?
心で悲鳴をあげていた。
それは誰の耳にも入らない。
ただ悲痛というより外にない。
「家庭に入り家族を守る幸せが何より大切だと私は思う。
だから、あなたはそれで、しあわせなのよ」
と元気づけるカットソー素材のボーダーニットパーカーを羽織りサテンストレッチ素材のカーキ色ショートパンツの女は片桐(かたぎり)空(くう)。
寂しがり屋の彼女。
彼女も心に歪みを持っていた。
「あなたが幸せだというのなら、わたしもほんとに幸せだよ」
と心にもない科白を平然と言う。
我ながら嘘が得意だと自分に思った彼女。
嘘が女のアクセサリーなら浮気は女のゲームってことになるのだろうな。
なんて考えもする。
彼女は打算的な女。
外見は頗る美しいが、それ故に他人に対する警戒心が強い。
その癖、人を見る目を持っていない。
そんな彼女は斐月要の元同僚で、斐月は彼女に初めて出逢った瞬間から、彼女から眼が離せられないほどに惹かれていたのに、彼女にそれを伝えることは出来なかった。
彼には彼女が眩しすぎて、まともに顔を見ることが出来なかったからだった。
彼女も斐月とは距離を置きたがっていた。
それは彼女が斐月を嫌っていたからだった。
それも周知。
「両親を幼くして亡くしたわたしにとって唯一の肉親は兄だけだった。
斐月は、その兄を貶めたのよ」
収賄の容疑で捕らえたのだ。
根も葉もないことではない。
斐月には正当な理由があり、正当な手段と何よりも証拠があった。
それでも彼女は彼を許せない。
やすっぽい正義感で兄を刑に服させたあの男が・・・
片桐空の兄、名前は脩と言った。
彼と斐月は親友だった。
だから脩は安心して、斐月には何でも話すことができたのだった。
たとえ、それが非合法な事だとしても。
まさか自分を裏切ろうなどとは夢にも思わず・・・
「殺してやりたいほど憎い相手もいるってことよ。
そんな相手とは解りあいたいとも思えない」
片桐空は探偵事務所に勤めていた。
その探偵事務所には、これといった名前がない。
この名前がないことがトレードマークの探偵事務所を知る者は、名前のない探偵事務所と呼んでいた。
それは同じ県内に、日本一の名探偵と呼ばれる架(か)山(やま)弾(はずむ)の所属する日本一探偵事務所があるため、それと区別するためだったと言われている。
斐月要も、元は片桐空とおなじ名前のない探偵事務所の所員ではあったが、今は辞めて独立開業中。
名前のない探偵事務所の所長、氷高りんたろうは浮気がバレて、妻の小夜と離婚調停中。
潔癖な斐月は、それを理由にして辞めたのだが。
片桐空に愛想を尽かされ、逃げるように出ていったのが本当の理由。
それでも、
「狭い町内に住んでいるんだもん。
偶然会ってしまうことだってあるよ」
そう、彼女の物語は、いつもバーで進行する。
「あたり前じゃない。
朝おきて、いつもの会社で仕事が終わるまでミッチリ働いて、そこに変わりばえなんかないんだもの。
たまの休みに出かける飲み屋での遊び、楽しまなくちゃ人生やってられる訳がない」
そういって訪れる行きつけのライト&シャドウは、斐月の行きつけでもあった。
「女一人で悲しいお酒?
ふられたのかしら。
ねぇ、あなた?」
とティンカー・ベル。
「やめてよ。
そんな挑発。
わたしの趣味じゃないんだから」
と飲み干すコーラー。
そして、
「おかわり、頼めるかしら」
と聞いてみる。
「もちろん。
やすいドリンクでも大歓迎よ」
とティンクは笑っていった。
「待ち合わせ?
まだ氷高と不倫してるの?」
「バカ言わないでよ。
所長なんかタイプじゃないわよ」
「じゃぁ、斐月要は?」
「眼中にない。
あたしの恋人は葉月翔なの」
「なぁんだ。
残念、あんな表禄玉がいいなんてさ」
「彼は優しいよ。
わたしを大事にしてくれる」
「女の扱いになれた男は肝っ玉が小さいってね。
いざという時、為にはならないかもしれないわ」
「女を武器にできるあんたなんかに言われたくはないでしょうね。
「翔と待ち合わせか?
彼、わたしを抱いてるわよ。
女を抱くのが気持ちいいんだもん、優しくして当然じゃない。
でも、本当に愛しているのかしら」
「暗示にかけるようなマネはやめて。
結婚するまで誰とも関係を結ばないなんて、そんな人間の方が珍しいわよ。
わたしだって、誰とも関係を持っていないわけじゃない」
「そう?
でも斐月要は?
わたしに靡かなかったわよ。
彼、自分は不能だなんて嘘を言っていたけどさ。
ほかに大切な人がいるのよね。
この世界で一番好きな人がいるから拒めるんだよ」
「あいつの話は聞きたくない。
耳が腐るような気がするんだ」
「腐ってしまえばいいじゃない。
本当の優しさの価値観なんて、あなたが解っているわけないんだからさ」
と。
ティンクは片桐空のことが好きではない。
彼女はコソコソと逃げ回るような女が嫌いだったからだった。
だから、その席を離れると、ティンクは彼女のことを忘れようとしていた。
彼女は恋人の葉月翔と待ちあわせしているものと思い、遠目に彼女を視界にいれる程度のものだったが、彼女の待ちあわせの相手が男ではなかったので、彼女は少し気になって見ていた。
話し声は聞こえない。
見覚えのない顔だったが、彼女の知らない女ではない。
彼女は整形をしていたのだ。
「ちっす」
と誰にともなく呟いて玄関扉をあけた女。
彼女は迷わず片桐空の隣りに座っていった。
そして、空の顔も見ずにマスターのダラー・プラッチフォードにむかって、
「マルガリータぷりーず」
と強めのカクテルをオーダーする。
それから聞いてもいないのに、
「もう、参った詣った隣の神社。
今日も残業ざんぎょう悲しい寂しい一日だったってね」
と語呂の悪い独り言のあと、ようやく「待った?」と空に聞いた。
「そうですね。
少し」
と遠慮がちに、彼女は恐縮していたのだ。
それを不服な彼女は国際警察機構のエージェント。
世界でも五十人に満たない一級の肩書きをもつ捜査官だった。
「あたしだって、すぐに解った?」
と彼女は自分の顔を指さす。
整形したことを言ったのだ。
「雰囲気で・・・
変わりませんから」
と片桐空は眈々と言う。
「それは残念。
美人になったとは言ってくれないんだね」
と女。
「いいえ。
美里さんは、いつも綺麗です」
と空。
「またまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたまたま・・・
嬉しいこと言ってくれんじゃないさ」
と彼女。
名前を高槻美里と言う。
実際の年齢は五十を過ぎていたが、彼女は整形で若さを保ち、外見は二十代にみえる。
ジャケットにサテンブラウスとスカート姿のオフィスライクな彼女。
たしかに普段とは違う。
もっと派手な色合いを好んでいると思ったが、今日は少しシックで地味だなと空は想ったが。
「本心ですから」
とお世辞。
でも、それを見透かしている美里は笑って、
「まぁ、いいさ。
女は正々堂々。
男は威風堂々って言うからね」
「誰の言葉ですか」
「もちろん、あたしのさ。
んなことよりも、せっかく呼んだげたんだからさ。
なんか食べない?」
「いいえ。
あたしには不要ですから」
「そっ。
あいかわらず、かたっくるしい性分だね」
「解っていますから。
自分のことは結構です」
「そっ。
じゃぁいいや。
あたしは無理強いも説教も嫌いだからさ。
それよりも頼んでいたものできてるかな?」
「はい。
こちらが先月までで三十八名の死傷者がでた連続殺人事件に関する資料です」
「さんきゅす。
わりぃね、なんか興味があったからさ」
「捜査一課に頼んだ方が正確な資料が手に入りますよ。
うちは新聞の切り抜きとインターネットくらいですから」
「かもね。
でも、あたしが探ると妙に勘ぐられるからさ。
動きづらい場所では知的好奇心を満足させることさえも儘ならなくってさ」
「いったい何に興味を示したんですか?」
「ESさ。
ESPから力を除いたものという意味があったんだろうね。
まぁ、この国でも超能力犯罪が認められるとは画期的だと思ったからさ」
「超能力犯罪?
この事件はまだ未解決ですよ。
たぶん、永遠に犯人は捕まりません」
「そりゃ、見解の相違だね。
要だったら、もっと違う見方ができたんじゃないかい」
「だれです、それ?」
「そっ。
あいつのことは禁句なのかい。
いい男だと思うけど?」
「それは勘違いじゃないですか?」
「かもね。
まぁいいや。
あいつのこと、話したくなかったら話さなくてもいいんじゃない。
でも言っとこうか。
女だったら逃げ隠れしてんじゃないよ。
正々堂々、あいつと向きあって話をしなよ。
それでフったらいいんだからさぁ」
「余計なお世話です」
「兄貴には会ってんの?」
「先日、刑務所で亡くなりました。
火事があって巻きこまれたんです。
兄と数人が逃げおくれて」
「でっ、要は正真正銘あんたの仇になったってぇの?
まぁ、許せとは言わないよ。
でも向きあって話すしかないんだよ。
たぶん要も命がけで、あんたのことは考えている筈だからさぁ」
「そんなの・・・」
言われなくても解っています。
でも、割り切れない想いがあるんです。
簡単には忘れられない。
簡単には埋まらない。
お互いの距離感と、この歪みは。
「いいかい。
命をかけてくる相手に、命をかけないなんて失礼なことだと自覚しなよ。
あたしら人間は所詮、ぜんぶ一括りなんだからさ。
頭がいいとか、顔がいいとか、性格がいいとか、学歴がいいとか、仕事ができるとか、勉強ができるとか、資産があるとか、年をとってるとか関係ないんだ。
おなじ人間なんだから、命には命で返すもの。
それが対等の人間に対する礼儀なんだよ」
「人間なんて対等じゃないです。
いくつもの想いが交錯して、人間は不公平になっているんです」
「だとしても、命をかける者には裸で受けとめてやるべきだと、あたしは思うよ。
たとえ誰にバカにされようが、反対されようが構わないね。
あたしは自分を変えられないし、止められない。
そして、それは人が美しく生きるという意味だとあたしは思う。
って、わりぃね。
あたしらしくない説教しちゃってさ。
まぁ、酒でも呑んで水に流しなよ。
それにあんたも、すこし頭を冷やすといいよ。
したら幸せが見えてくるかも。
あんたにしか馴染めない、あんただけの幸せがさぁ」
と、高槻美里の言葉は深く片桐空の胸に突き刺さっていた。
しあわせになりたい。
ただそれだけの筈なのに、その手段も方法も、誰にも誇ることができない惨めなものだなんて・・・
「あたし、しあわせだよね」
ときく友人に、
「家庭に入り家族を守る幸せが何より大切だと私は思う。
だから、あなたはそれで、しあわせなのよ」
と返答したが、わたしには幸せなんてものが解らなかった。
だけどムリヤリ。
「あなたが幸せだというのなら、わたしも本当に幸せだよ」
と励ました。
「ありがとう。
やさしいのね、空は」
と感謝の言葉。
心にもないことを平然といえるのは彼女の特技。
それでも心が動いたのは、友人が連れてきた赤ん坊を抱きしめた時だった。
母性を揺り動かされる。
おもわず涙が零れそうになる。
自分はいったい、いつになったら本物の母親になれるのだろうと脳裏をよぎる。
わたしも自分の赤ん坊が欲しい。
ずっと兄と二人で暮らしていたけど、孤独じゃなかった。
いえ、そう思ってはいけないと思っていたからだろうか。
わたしは子供をいっぱい産んで家庭をつくりたいと、そんなことを考えていた。
これから、わたしが創る大切な家族。
いつかわたしの横に立ち、神様の前で誓いをたてる人は、いったいどんな人なのだろうか?
恋人の葉月翔?
わたしと不倫していた所長の氷高りんたろう?
それとも・・・
心の中でうちけしたあの男・・・
涙が、あとからあとから溢れてきて、どんどん視界が霞んでいく。
ぼやけたその目には鮮明に映るのに、理性がそれを許さない。
その一線を越えてはダメだと咎めるのだ。
まるで犯罪者に恋をする警察官のようなもの。
あってはならないことなのだと咎めるのは自分自身。
だけど・・・
わたしの心は揺れうごいている。
自分がこわくて、怖くてそれが仕方なかった。
惹かれてはいけない人に惹かれてしまう。
自分の脆さが幸せを遠ざけているようで。
こばんでいるのに・・・
だから、わたしの心はずっと途方に暮れているのだろうか?
そして心は迷路を彷徨う。
夜明けの見えない夜に身を縮めて・・・
かがやく朝日を待ち侘びながら・・・
六
目の前には壊れた蓄音機。
レプリカで自分がつくったもの。
ただのインテリアで何の役にも立たない物。
一月以上も掃除をしていない芥溜めのように汚れた部屋の厄介物で必要のない存在。
俺と同類だ。
「イカれているわ。
あんた」
と女の声。
東南の国から留学してきた異国人。
彼女は異人館の女。
異人館とは中央公園前にある喫茶店の名前。
ちかくの学生たちに人気があって、店は結構にぎわっていることが多い。
彼女は其処の看板娘で、マトリと言った。
彼女が俺の部屋に出入りするようになったのは、俺の妹が異邦人の常連で彼女の友人になっていたからだった。
俺は妹と一緒に暮らしていた。
妹は賢かった。
俺は落ちこぼれの嫌われ者。
いつも除け者にされていて、いつも惨めに暮らしていた。
そんな俺と対等に話してくれる。
虫けらやゴミ屑ではなく人間として相手してくれる唯一の相手。
彼女は両親からも、その将来を期待されていた。俺とは別格。頭が良かったからだ。
だから、彼女が死んだときの両親の落胆ぶりといったら見ていられなかった。
「かわりにおまえが死んでいればよかったのに」
それが両親の本音で俺もその通りだと思ったんだ。
俺の方が人生に飽きがきていたのに、どうして俺じゃなく妹が死んだんだろうと俺は思った。
神様は不公平だ。
だれの願いも聞きいれてはくれなかったんだ。
しかし、その見解と認識を悔い改める。
亡くなった人間は戻って来ない。
泥を捏ねて人形をつくり、それがたとえ、どんなに亡くなった人に似ていたとしても、それは、まるで違うただの異物。
亡骸にさえ愛おしかった日々は時間が経過するにつれ、その想いごと忘れてしまう。
勘定のできない恋愛を算段に、俺は重い鉛を腹にためこんで生きている。
「人間なんて都合のいい生き物さ。
順応できる。
愛情だって諸刃のものさ。
今は、この人しかいないと慕っていても、自分の気持ち次第でどうとでもなる。
恋してはならぬ相手に惚れるなんて、それは弱い人間の考えだ。
死んだ人間のことなら忘れればいい。
無理な恋愛なら諦めればいい。
結局、自分以外の誰かにまで不幸が降りかかるような選択ができる人間を俺は決して許せないんだろうな」
という男に。
「訳が解らないんだけど。
あんた、誰よ?」
「さぁな。
俺のことなんかどうでもいい。
俺自身も興味がないんだ。
それより洋介に話があるんだろ?
だから此処に来た筈だ」
「さぁ、それはどうだか。
とても第三者を前には話せない話題だから」
とマトリが渋ると黒羽洋介は、
「そいつに任せろ。
悪いようにはしない筈だ」
と言うが、その前に面倒は御免だと立ち去る男。
黒羽は彼を引き止めようともしなかった。
そして、男が立ち去ったあと。
「あいつが犯人を見つけたんだ」
と説明したが。
「犯人って何?」
「希美を殺した犯人だ。
忘れたのか」
と洋介の疑問。
「希美って誰よ?」
とマトリの科白。
「いつまでも過去に縛られているなんてバカよ。
どうせ死んだら、ただの物質になりはてる。
もう血も枯れ果てて肉は土にかえるだけだわ」
と、身も蓋もないことを言う。
「希美の婚約者にも同じことが言えるのか」
「それは最近流行のリベンジをしたかっただけじゃないの」
「復讐の代償には命が必要だ。
まぁ多くの場合はな。
それだけの覚悟がお前には持てない。
お前は人生を舐めているんだ」
「冗談にもならないわ。
命よりも価値のあるものがあると考えるのは男の考え。
女は、もっとリアリストなだけなのに」
「ロマンチストでも夢想家でも構わんよ。
男は大儀のために死をも厭わぬことができる」
「吉田松陰の言う狂たる正義ってことね」
「そういうことだ。
お前だって、いつか人生に一度くらいはそう思える時がくる筈さ。
命を捨ててさえも守りたいものを見つけたのならな」
「いえ、たぶんそれはないと誓うわ。
私だって希美のことが大好きなのよ。
でも、いつまでも死んだ者を生きている者と対等に扱うのは危険だと言っているだけ」
「どういう意味だ?」
「さぁ、自分で考えなさい」
「それは冷たい話だな」
「私が温かかったなんてこと、あったかしら。
私はいつも冷たいの。
だけど人はちゃんと見ているつもりよ」
「じゃぁ、お前はその目で何を見ている?」
「そうね。
すくなくとも、あなたは悪い人じゃないって思い出したわ。
けっして好きにはなれないし、タイプでもないんだけれどね」
「って、それはどういう意味なんだよ」
「さぁね。
あなたには解らないわ。
だって、私にも解らないもの」
「あの男なら解るかもな。
人間の腹の中が見透かせるらしい」
「サトリって妖怪がいるわ。
それの話?
人の考えがよめるんだって」
「そんな話をしていると思うか?」
「いいえ、ぜんぜん。
でもいいの。
なんか言ってみたかっただけ」
「リアリストがきいて呆れるぜ」
「かもね。
でも、いいの。
自己満足。
私が勝手に納得しているだけなんだから」
「そうか。
それならば別にいい」
本当に?
とマトリは問いかけたくなっていたが、それを喉の奥へと押しこんでいた。
あなたは気づいていないかもしれないけれど・・・
こんな風に私があなたと平気で話をしているなんて奇跡なのよ。
こんなこと、希美が生きていたなら想像だって出来なかった。
それが希美が天に召された理由だと今は私も思っている。
現実なんて、どうでもいいのよ。
自分の中で解釈がきけば、それが私だけの現実になる。
私だけの人生ならば、それだけで私は満足なの。
私は、それで充分なのよ。
七
夢の残骸に埋もれて重荷を背負うだけの日々が、やけに人生を生々しく、俺を世間から孤立させていく。
一人きりには慣れていた。
いつもそうだ。
誰の手も借りたくはない。
誰かの力になることがあっても、それは感情的な決意によるものではない。
損得勘定の上に利益を追求した結果によるもの。
たとえどんなに感情を揺りうごかされる相手であったとしても、俺がそれによって動くことなど有りえなかった。
なぜなら俺が・・・
「ちっす。
一人で呑むのがこの街では流行なのかしら?
あなた以外にも見たってわけじゃないんだけどさ」
「べつにブームってわけじゃない」
「自分だけのマイブームって奴?」
「ってわけでもない」
「じゃぁ、なんなのさ」
「単に俺には連れ合いがいないってだけだ」
「じゃ、頼れるような仲間もいる筈がないか・・・」
「まぁ、そうだな」
「って思われていることが少し悲しいかもね。
あたしは要のために力になってあげる気があんのにさ」
「冗談だろ。
あんたは他人を利用しているだけさ。
使えなくなったら、たとえどんなに信頼している人間だって切りはなせる」
「かもね。
でも、それなら尚更あんたとは繋がっていたいと思えるんだよ。
なんてたって、あんたには利用価値があるからさ」
「なるほど。
それは褒め言葉と受けとっておこう。
だが、そんなおだてにのるほど青くもないんでな。
そろそろ本題に入らないか」
「あたしの言葉には裏があるとでも勘ぐってんのなら期待を裏切って悪いわね。
ただのバケーションでやってきてんだよ」
「それを許す国際警察機構じゃないだろ。
あんたがやって来たってことは核兵器が飛んできてるようなものだ。
物騒で落ち着かない」
「まぁね。
いちど泥に足を突っこんだものは、なかなか抜けだせるようなものではない。
あたしがこの世界を抜けることができるなら、その時は亡骸になってからか、シャブづけにされて頭がオカしくなってからってことになるからね」
「そんな常人の常識を越えていることを平気で言える奴がやってきたんだ。
生命の危機にかかわるような大事件に巻きこまれるんじゃないかと俺は気が気じゃねぇんだよ」
「そぉ?
それは呑気な話だね。
生命どころか、人類の存亡にかかわるかもしれない大事件かもしれないのにさ」
「なんだって?
おまえ今、なんて言いやがった」
「いいえぇ、べつにぃ・・・
でも要、あんたの能力をあたしはかっている。
そういうことさ」
「俺なんかより役に立つ奴はいるだろう。
日本一の架山弾なんかどうだ?
すくなくとも俺よりは凄腕だぜ」
「そっ、かもね。
でも、あたしの知るかぎり、あんたより使える人間はこの世界にいないよ。
世間の風聞には惑わされないタチだからさ」
「まぁいいさ。
どんなことだって、いずれは明るみになるものだ。
いま狼狽えたって仕方がない。
そのときを精々たのしみにしているよ」
斐月は無関心を装うのが好きな男だった。
見て見ぬ振りをする以外に術を持たないこともあるが、彼はその行為が得意なだけで、その行為が正しいとまでは思っていない。
だけど自分の流儀を容易く変えられるほど、彼は人間ができてはいなかった。
それを高槻美里は見透かして。
見越して話しているので彼と話をするときは用件を一つに纏めて端的に伝えるように心がけ、そのあとはどうでもいい四方山話で濁すことにしている。
彼女は斐月を扱いやすい男だと認識していた。
「感情はリンクするからね。
想いはやがて明るみにでる。
陽の出をみれば、いつかはその輝きが鮮やかな色を成していくものさ。
そういうのって無駄じゃぁないよ」
と美里。
それは彼への慰めだった。
想っていれば、たとえ直接言葉で伝えなくとも、どこかで感じてもらえることもあると、それは傲慢な態度だが、美里は要をみてそう思っていた。
それが彼を幸せにするかどうかは別として。
余命わずかと知らされたならば逢いたくなる人間はいるものさ。
それを疎まれようが、嫌われようが、抑えきれない想いってものはある。
これを感情というんだろうが、あたしだって菩薩じゃないんだ。
完璧な自分を演じていたいって見栄もある。
泣き言なんて誰にも言わない。
あたしには強いあたしがある。
誰にも貶められたくはない自分が創りあげた、本当の自分とはちがう別の自分が・・・
「核兵器だなんて大袈裟なこと言ってるからさ。
なんか妙なこと言っちゃったじゃないさ。
まぁ、あたしのことは気にしないでよ。
本当に、ただの休暇で、たまたまあんたたちに逢いたくなっただけなんだからさ」
「そうかい。
そんな時もあるからな。
俺は別に何とも思っちゃいない」
と答える斐月は、いつもの美里と何処か違うと違和感のようなものを感じていたが言わなかった。
それは顔を整形したからだろうと思ってみるが、彼女が整形してくるのはいつものこと、それも重々承知の上。
彼は彼女が必要なことしか喋らないことを知っていたから追求もしない。
しかし胸に燻るものがある。
常日頃から無断で心の内に泊まり込んでいる彼女のことで頭が一杯の斐月にとっては、美里のことを考える余裕なんて欠片もなかった。
彼の頭の中は、片桐空のことで一杯だったのだ。
そんな彼が、ぐうぜん彼女に出会ったのは、その翌週のことだった。
「お久しぶりです」
と礼儀正しくお辞儀をした葉月翔が空の今の恋人だった。
「ああ」
と言葉でもない返事をするのは彼が空を意識しすぎているからだった。
そして、斐月は葉月のことが好きではなかった。
たしかに好青年で頭も良く、気の利く男だとは思っていたが、斐月は葉月が他にも付きあっている女がいることを知っていた。
一人の女だけを愛することができない男が、彼女を幸せにできるわけがないと、斐月にとっては空が葉月とつきあっているという現実が耐えがたいほどの苦痛だったが、臆面にもせぬ風体で通り過ぎようとする。
葉月の傍らに斐月から隠れるように男の腕を抱いている空がいて、斐月は見て見ぬ振りをするのだが、「斐月さん、待ってください」と葉月が呼びとめるので立ちどまる。
葉月は、「この前のお礼です」と茶封筒をとりだした。
その中には薄くお金の札が透けている。
「このまえ?」
「斐月さんのアドバイスで一つの案件を解決できましたから」
「それはお前の手柄だろ?
俺が礼を言われる磐余がない」
「ですが」
と何やら反論があるようだったが、その言葉の前にかかってきた電話。
「ちょっと待ってください」
と葉月は断ってから少し距離をおいて電話に出ていた。
片桐空は彼を追わず、そこに立ちどまっていた。
斐月も同様。
「もらっちゃダメよ。
翔は事件を解決したけど証拠が不十分なまま犯人を自供においやったの」
「それじゃ裁判でひっくりかえされても文句が言えないな」
「そういうこと。
いちど無罪になったものを同じ案件で裁くことはできないから翔は窮地に追いこまれている」
「だから俺に金を受けとるなか?
葉月が気の毒になるからな」
「・・・バカ。
どこまでお人好しなんだか・・・
あんた、利用されようとしてんのよ。
あんたを巻きこんで助けてもらうつもりなのよ。
翔は探偵としての素養には欠けるかもしんないけど、あんたよりも抜け目のない男なんだよ」
「見くびるなってことか。
まぁ忠告は有り難く受けとっておく。
もとより、おまえらに関わりあう気はないからな」
「こわいの?」
「ああ」
「わたしが・・・
こわいの?」
「ああ、こわい。
触れれば崩れおちる蝶の羽のように。
ガラス細工のバラの花びらのごとく。
俺が手にとってしまったら、その瞬間に粉々になってしまいそうで」
「考えすぎ。
もっとリアルに生きてんだよ。
普通の女の子だもん」
「俺には女が解らないんだ」
「そっか。
じゃぁ女なら誰でもいい?
誰でも変わらないのよね。
一生、孤独に苦しむといいわ」
と片桐空。
斐月には解らないのだ。
彼女が、どんなことを言えば喜ぶのか。
どんなことをして楽しむのか。
それが解らないから嘖むのだ。
・・・考えすぎる。
だから結局、何もできずにクチを閉ざす。
他に対処の仕方を知らないからだ。
「電話、ながびきそうだな」
「そうね。
わたしたちの事務所は暇じゃないから」
「それはあてつけか?
まぁ、うらやましいかぎりだよ」
「あなたの活躍は耳に入ってきてる。
独立開業して正解だったんじゃない?」
「さぁな。
肯定も否定もしない。
複雑な質問だからだ」
「複雑?
どこが?」
「その答えがだ」
「そっか。
じゃぁ悪くはないんだ。
今の生活・・・」
「べつに・・・
一人きりはいつものことさ」
「さびしいのには慣れている?」
「そういうことだ。
俺のことなんてどうでもいいよ。
それより葉月には焦るなと伝えておいてくれ。
まぁ、おまえが一緒なら心配はしていないがな」
「わたしの方が心配?」
「・・・」
その質問に斐月は言葉を詰まらせていた。
そうだと言えば、まるで告白をしているようで照れ臭いからだった。
「心配はいらないよ。
わたしは自分のことが解っているから」
「そうか。
なら問題はないが・・・」
と言葉を濁す斐月の胸の内には、「それはない」という結論がキッチリ出ていたのだった。
「もう行くよ。
俺なんかと一緒にいると、おまえの価値が下がっちまう」
「それでも構わないと思うけど・・・
それはわたしのため?
自分のため?」
と空の疑問に斐月は応えようともしなかったが、それも照れ臭いからだった。
それでも心の内では決まっていて、それは即座に浮かんだ答えだったのだ。
「もちろん、おまえのためさ。
それ以外に俺は何も考えられないんだからな」
と。
八
走馬灯。
絶命する瞬間に彼女は、これまでの人生の様々な光景を思い出していた。
そして一番、心のスクリーンに映しだされていた人物は、自分を監視するために義母に雇われた筈の男だった。
「君は、こんなところに居てはいけない。
もっと青い空の下、広い世界をめぐるべきなんだ。
そうしたら、きっと君の幸せも見つかるから」
と、そう励ましてくれた男性の最後。
「けっして怨んではいけない。
憎しみは人を貶め苦しめるから。
君は、けっして人を憎んではいけない。
僕も、誰も憎んではいないから」
と、それが彼の優しさだった。
あたしに勇気を与えてくれた。
諦めてはいけないという強さと、そして必ず悪は正義の心で打ち倒すべきなんだと勧善懲悪の心を。
絶叫。
喉が潰れても叫ぶのをやめなかった。
心の痛みに耐えきれず、全身の毛穴から血しぶきが吹き飛ぶほどの無惨さで。
あたしは忘れていた筈の絶望を味わったのだ。
「もしかして、あたし殺されるの?」
背後から刃物を突きたてられて、あたしは思った。
この人は彼に雰囲気が似ているんだと。
「恐いのか?
だったら俺を道連れにしたらいい。
俺はちっとも構わないんだ」
と男は言う。
嘘つき。
本当は死ぬのが怖いくせに。
嘘つき。
あんたには好きな人がいるって解る。
だから、あたしなんかに優しくできるんだよ。
「無理だよ。
あたしに、そんな覇気はない」
だから、あたしも嘘をつく。
あんたなんか簡単に殺せるけど、ほんの数秒で一緒に連れていけるんだけど・・・
わりぃね。
あたしには先約がいるんだよ。
きっと待っていてくれる彼が・・・
だから死ぬのは怖くない。
あんたなんか道連れにはしたくない。
「君を殺したのは俺のせいだ。
俺が君を殺させた。
それ以外に言葉もないよ」
と彼の声。
それが耳朶に優しい吐息となって降りかかる。
あたしは笑った。
そして泣けた。
なんかやっと自由になれると感じたから。
そうして、ゆっくりと瞼をつむぐの。
それが、あたしの幸せになる。
後悔ばかりの人生だけど、あたしにはこれで充分なの。
陽の光が眩しかった。
光陽に昂揚しているだけなんだと言い訳をしたいが、胸の中に穴があいた心地。
斐月の痛みは想いの外に深かったが、シャラン・ドナはそれで満足だったのだ。
絶命した彼女の人生は、あまりにも過酷なものだったから。
DONADONA なかoよしo @nakaoyoshio
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