【中編】 恐竜鳥と電気草

 飲まず食わずはきつい。

 ほんとにきつい。

 

 リコの隣ですこし眠ってから出発した。起きたら夢でした、ってなことを期待したけど現実は最悪に孤独なままだった。

 

 行くあてなんかないけど、膝を抱えてるだけじゃ何も解決しない。砂に残る自分の足跡を確認しながら、ひたすらまっすぐ歩くことにした。


 目的地がはっきりしないんだから急ぐ価値はない。ゆっくり進めば汗もかかない。疲れを最小限にして長く歩こう。


 気持ちは重いけど、なぜだか足は軽い。浮くような感じだとリコは言ってたけど、頭のてっぺんに紐がついてて、歩くたびにほんのすこし引っ張り上げられる感覚。操り人形の糸みたいな。地面のバウンドもきっとそのせい。


 ふと思いついて、軽くジャンプしてみた。


 思わず変な声が出た。想像以上に高く跳び上がったから。降りるときもゆっくりに感じて、逆に怖くて着地するときに腰が抜けた。両手を地面についてしゃがみこむ。


 砂を掴んだ。サラサラしてる。何の変哲もない、赤い砂。背筋がひやりとした。


 ――重力だ。


 重力が弱いんだ、これ。浮いてる感じもバウンドしてる感じも重力が弱いせいだ。宇宙飛行士の無重力遊泳みたいな。あそこまでクルクルまわらないけど、ちょっとの力で高く跳べちゃう。高く跳んだのに着地の衝撃が思ったほどじゃないのも重力が弱いせいだ。ほかに考えられる?


 でもどうして? 核戦争でも起こった? それで地球の重力まで変わっちゃった? あの一瞬で? みんなどこに行ったの? 空気は? 汚染されてる? 吸って平気? だめって言われても吸うしかないんだけど。


 とりあえず息苦しくはない。化学物質っぽい変なニオイもしない。


 深呼吸をして立ち上がった。


 歩こう。歩きながら探そう。自分以外の誰かを、飲み水を。水分を取らないと死ぬっていうのは重力の謎よりはるかに重要で確実だから。

 

 見渡す限りの砂だ。もし川があっても水を飲んで安全かどうかはわからない。魚が泳いでれば安全そうだから飲んでみよう。でも川なんて一向に見えてこない。

 

 あの虹色の木も見当たらない。生き物の気配すらない。行けども行けども同じ景色。時間が止まっている気分。静止した世界で自分だけ、その場で足踏みをしている気分。控えめに言って、かなりつらい。


 振り向けば自分の足跡がカーブを描いていた。まっすぐのつもりが曲がっている。ぐるっと一周してしまう可能性もあるんだろうか。そんなことになったら、もう、リコの隣でずっと眠るしかないのかもしれない。


 怖い。

 死にたくない。

 誰かいないの?

 誰もいないの?

 

 地面の様子が変わった。赤い砂が続いているのは変わらないけど、ところどころに草が生えている。黒い草だ。海苔みたいな色。

 

 独特な生え方だった。円になっている。草でできた円だ。大きさは肩幅ぐらい。そういう草の円がぽつんぽつんと出現するようになった。

 

 景色に変化が生まれた、それだけですこしホッとする。空の明るさに変化はない。でも雲は動いていた。あの渦巻き雲も消えている。

 

 夕方の四時。夜がやってこないのはどうしてなんだろう。夜がないから朝も来ない。ずっと夕暮れ。調べたいけどできないのが悔しい。繋がりたい。誰かと。


 誰か。

 誰か、生きている人。

 まさかどこにも誰もいないなんてこと、ないよね?

 それともここは誰もいなくなった未来? 核で滅んだ未来にタイムスリップした?――考えたくないな。


 スマホのバッテリー表示が赤くなっていた。電源が入らなくなったら時間も確認できないし、この中に詰め込まれている言葉や写真や、そういう思い出を取り出して見ることもできなくなる。

 

 ぞっとした。

 

 これまでの日常、築いてきたこと、繋がってきた証、それらすべてから断ち切られる。正真正銘、独りになる。

 

 画面が暗くなった。何も操作しなかったからだ。

 

 腕まくりしたままの袖口にスマホを持っていく。肘を曲げて、黒い画面についてしまった汚れを拭き取った。


 どこもかしこも汚れているなあって、あらためて思う。制服も靴も手足もだし、顔も汚れてるのを知ってる。誰も見てないからいいっていう、そういう問題じゃなかった。気持ちがつらい。

 

 急に日が陰った。


 雲かなと思って見上げた瞬間、息がこぼれた。声にならない息だけの悲鳴が出た。

 

 巨大な鳥だ。後ろから飛んできて、サッと影を落として飛び去っていくところだった。

 

 すごく大きい。どれくらい大きいかって、飛行機ぐらい。あ、いや、遠近感がわからないな。飛行機よりは小さいかもしれない。でもカラスとかじゃあり得ないくらい大きい。カラスなら、百か二百が集まって飛んでいるくらいの大きさ。

 

 こっちには見向きもせず、まっすぐ飛んでいく後ろ姿を見つめた。速い。どんどん遠ざかっていく。でも建物が何もないから遠くなってもまだ見える。

 

 ひとつの言葉が浮かんだ。

 

「恐竜……?」


 なんとかサウルスとかトリケラなんとかとか。弟が読みあさってた恐竜図鑑に鳥っぽいのがいたな。プテ……プテラノドン? とにかくそういうの。ああいう、太古の巨大生物っぽいやつに見える。

 

「大昔の地球に来ちゃったってこと?」

 

 タイムスリップ。超常現象。未来じゃなくて過去。


 そんなまさかって言いたいけど、もういろいろとおかしいんだからそれもあり得るって思う。

 

 でもここが恐竜の時代だとしたらほかにも恐竜がいるはずで、これまでまったく見かけていないのはどうしてだろう。このあたりには偶然いないだけ、だろうか。

 

「じゃあ、人間はいないの?」


 自分の声がぽつんと吐き出されて消えるのを聞いた。


 自分以外には誰も聞いてない。誰もいないし何もない。巨大な鳥が遠ざかっていくだけ。それ以外は三百六十度、起伏のない赤い地面と赤い空がずっと続いている。


 風は吹いていない。でも体温が下がった気がする。体の中を真っ黒で冷たい風が駆け抜けたような感覚。気力が持っていかれて、座り込みたくなる。

 

 やっぱり?

 やっぱり、誰もいないってこと?

 

「え、いや、待って」

 

 違う違う。恐竜って、ジャングルみたいなところで生きてたんじゃなかった? こんな赤い大地じゃなくて。

 

「わっかんない……」

 

 泣きたくなって、おでこに腕をくっつけた。本当は髪の毛をかき上げて頭を押さえたかったんだけど、手が汚れてるからやめた。こうやって自分を触るとすこし落ち着く。ほんとにすこしだけど。


 人がいるかいないかを考えるのは、いったんやめよう。怖くなるだけで何もいいことがない。優先順位はそこじゃない。晩ご飯も朝ご飯も昼ご飯もなしで何も飲んでないんだ。


 とりあえず足を止めるな。

 

 恐竜みたいな巨大な鳥が飛び去っていくのと同じ方向に歩いた。何かがあるかもしれないから。追いつけるわけもなくて、鳥はやがて点になって消えた。

 

 水が欲しい。

 

 ごはんも食べたいけど、まずは水だ。飲み物が欲しい。欲しくて欲しくて喉が無駄に飲み込もうとする。唾液すらろくに出ないってのに。

 

 足元の草に目が行った。さっきから数が増えてる気がする。草の円。そのうち円と円が繋がって草原になったりして。

 

 草って、食べられるかな。

 砂漠のサボテンは水分を蓄えてるんだっけ? じゃあこの草も水分たっぷりかな?

 

 立ち止まって観察した。スッと細長い形は笹の葉に似てる。よく見ると完全な黒じゃなくて、緑がかっていた。手を伸ばして葉っぱに触れた。


「いっ!」

 

 ビリッとした。すぐに手を引っ込めて指先を見つめる。痛みが尾を引いてるけど、見た目はなんともなっていない。


 電気? 電気が走った?


 草はさっきと何も変わらずそこにある。でもさっきまでとは違って見えた。拒絶するのが当然だという顔をしていた。


 もう、やだ。

  

 膝が崩れてお尻が地面にくっつく。体に力が入らない。


 もう無理だ。限界だ。どれだけ歩いたって水はない。知らない生き物と知らない植物にしか出会わない。もう疲れた。もう無理。

 

 スマホを取り出した。午後五時。昨日の今頃はまだ校舎にいた。リコを待っていた。何事もなく帰れるはずだった。

 

 痛みのない指で画面をタッチして、写真を呼び出す。

 

 リコのお墓。自分も一緒に映っているのが一枚、お墓だけのが一枚。

 

 移動したらもうあの場所に戻れないかもしれないから、心の中だけでも会いに行けるようにと撮ったんだ。映っている自分の顔は無表情。ほっぺたが汚れてるのは土のついた手でうっかり触ってしまったからだ。

 

 これがお墓。墓石も何もない、ただ土と砂を盛っただけのお墓。

 

 あんまりだよね。こんなふうにお別れするはずじゃなかったのに。卒業までに彼氏が欲しいって言ってたの、かなわなかったね。わたしもそうなりそうだよ。

 

 赤と白の縞模様になった渦巻き雲の写真。何でこんなものを撮ったんだろう。見せる相手もいないのに。

 

 色違いのそっくりな渦巻き雲も撮ってあった。灰色と白の縞模様。そっくりなのは偶然? 偶然だろうな。意味があるとしても、考えたってわからない。すくなくともこの雲を見たのは間違いなく偶然だ。

 

 リコの写真がいっぱい出てきた。変顔してるやつとか、飼い猫を抱いて笑ってるのとか。

 

 もう会えない。もう、消える。リコも自分もさよならだ。

 こんなわけのわからない、誰もいない世界で。


 未来か過去か。あるいはもっと別の場所か。わからないけど、でもきっと、アスファルトが虫に見えたあの瞬間に地球がこうなっちゃったってわけじゃなくて、わたしとリコのふたりだけが誰もいない世界に迷い込んでしまった。そういうことなんだろう。


 だって地球が一瞬で様変わりしたって考えるより、自分たちだけが別の場所に移動したんだって考えるほうが納得できる。

 

 いや、できないよ。納得なんて。

 

 腹が立つ。どうしてこんな目に遭わなくちゃいけない? どうして、わたしたちだった?

 

 きっと理由なんてない。たまたまだ。ちょっと運が悪かっただけ。見放されただけ。

 

 やだなあ。

 死にたくない。こんなところで。独りで。

 

 画面が黒に落ちる。バッテリーが切れた。


 手が震えた。ぎゅっとスマホを握りしめる。悲しくて悔しくて、イライラして、スマホを地面に叩きつけようとした。

 

 でも、やめた。


 取り出せなくても思い出が詰まっている。リコのスマホはリコと一緒に埋めてあげた。リコのこれまでが詰まっている唯一のものだから。大事なものだから。


 リコとの思い出ならここにある。記憶の中、スマホの中。捨てたらだめだ。

 

 リコを忘れない。だから捨てないし、生き延びるんだ。ずっとこの記憶の中に、心の中に、リコはいる。自分が死なない限り。


 スマホをブレザーのポケットに落としこむ。立ち上がるためには気合を入れる必要があった。もうちょっと休もう。

 

 地平線は遠くかすんでよくわからない。空とくっついているように見える。だだっぴろくて、ほんとに砂漠って感じ。でも足を取られるほどの歩きにくさはない。砂の下が土だからなのか、あるいは重力が小さいせいなのか。


 表面だけ砂っていうのは、砂漠化が進んでいる最中ってことなんだろうか。確かに空気は乾燥している。川が見つからないのもそのせい?

 

 そういえば太陽ってどこだろう。

 

 空はずっと夕暮れ色で雲も動いてるけど、太陽らしきものをまだ見ていない。雲に隠れてるだけだと思ってたけど、存在しないのかな。太陽がないから日が沈まないのかな。でも太陽がないなら何で明るいの。


 この無音も嫌だ。静かすぎて死んでるみたい。世界が、死んでる。

 

 水だ。水を探そう。水さえあれば生きられる。虹色のヘビも恐竜みたいな鳥もいるんだから、きっとどこかには人がいる。いるって信じよう。まずは水だ。植物が生えてるなら地下には水がある。湧き水とか井戸とか、どこかにはあるでしょ。探そう。

 

 そう決心したのに体は動かなかった。地面にくっついたみたい。力が入らない。立ち上がる動作に移れない。

 

 もうちょっと、もうちょっとしたら頑張る。頑張らないと死ぬ。

 そう思ったとき、静まりかえる空気のどこかが裂けた気がした。

 

 あたりを見渡す。いま、かすかに音が聞こえた。

 あ、まただ。聞こえる。

 動物の鳴き声?

 いや、これは――

 話し声。

 

 だるい体に希望を込めて、ゆっくり立ち上がった。

 

 声だ。声が聞こえる。誰かがいる。

 

 どこから聞こえてくるんだろう。おおざっぱに見当をつけて歩き出す。

 

 何を話してるのかはわからない。でも二つの声が聞こえる。すごく小さい声と、それよりは大きめの声。高い声だ。女の子?

 

 誰でもいい。会いたい。

 助けて。

 

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