モノクロデイズ

石動なつめ

第1話


 悪意が世界を滅ぼす原因であると、どこかの研究者が言った。

 言葉だけ聞けばまったく以って精神論だなとキロクは思う。

 しかし実際にそれが精神論だ、なんて言葉で切り捨てられないくらい、この世界では納得できる話だった。


 二十五年前。キロクが生まれた頃にすでに、あちこちに黒い靄のようなものが浮かんでいた。

 それが何なのかは分からない。ただそれは良くないもので、黒い靄に触れた人間は異形と化して、暴れまわる化け物に変わる。

 黒い靄。

 その謎にずっと挑んでいた研究者の一人が、それが人の<悪意>であると突き止めて、世の中に発表したのだ。


 人から生まれた<悪意>が、人を化け物に変える。

 その化け物が暴れまわって、周囲を壊す。

 人によって人が滅ぶシステムが、自然に生まれていたのである。

 

 当然、それを知った人々は恐怖した。

 <悪意>など持つなと言われても、それは無理な話だ。<悪意>の欠片もないなんて、どんな聖人君子だろう。

 だから研究者は考えた。例え<悪意>が生まれても、その対処さえできればどうってことはないと。

 人が化け物に変わる前に、<悪意>が黒い靄である内に、何とかしてしまえば良いのだと。


 そうして彼らは一つの発明品を生み出した。

 『リカバリーシステム』と言う巨大な機械だ。

 『リカバリーシステム』は、発生した悪意を一か所に集めことができる。

 素晴らしい発明品であると人々は称賛した。


 しかし――――ある意味で、これは欠陥品でもあった。

 『リカバリーシステム』がため込める<悪意>には限界がある。

 <悪意>が膨らみすぎれば、あっという間に機械は壊れて<悪意>は再び外へ飛び出す。


 そのために、このシステムには人間が一人、必要だった。

 ため込み過ぎた<悪意>を、一人の人間に肩代わりさせる事で、『リカバリーシステム内』の<悪意>を消去できるようになっているのだ。

 人間以外も試したが駄目だった。人間の<悪意>は人間でないと体に馴染まなかったのだ。


 そして肩代わりさせた後のシステムは通常通りに動き出し、再び<悪意>を集めて行く。

 そしてこの世界の日常も、また通常通りに動いて行く。

 

『一人の人間の、たった一度の人生と引き換えに』


 この世界の役人であるキロクの仕事は、そんなリカバリーシステムのメンテナンスだった。

 帽子の位置を整えてキロクは今日もまた仕事へと向かう。

 大勢の人間を守るために、一人の人間を犠牲とする仕事へ。





「リカバリーシステムは生贄とどう違うんでしょうか」


 中庭でベンチに座った男は、何だかまずそうな色合いのサンドイッチをパクパクと一定のリズムで食べながら、相変わらずの無表情で言った。

 歳は二十代半ば。品良く切りそろえられた短い黒髪に、灰色の目をした長身痩躯の男である。

 身に纏っているのは白色のシャツに黒色の上着、同色のズボン。どれもシワひとつなくびしっとアイロンがかけられている。

 襟首には太陽を模した金色のバッジが輝いていた。

 彼の名前はキロクと言い、ここ、白の古都クレスメントの役人であった。


 そんなキッチリと制服に身を包んだ仏頂面の役人にそう問いかけられて、隣に座る少女は困ったように顔をかいて笑う。

 白い服を着た彼女の名前はキオクと言い、リカバリーシステムに貯め込んだ<悪意>の代替人として選ばれた人間だ。


 代替人になるには体質的に<悪意>を受け入れやすい人間が選ばれるが、彼女もまたそうだった。

 ただ一つ違うのは、彼女は選ばれて無理やり連れて来られた――というわけではなく。

 非常に稀な例だが、代替人候補として選出された際に「自ら立候補」してやって来た人間だった。


「それをキロクさんが聞いちゃいますか」

「疑問は口に出す方です」


 リカバリーシステムを管理する役人が口にするには酷い台詞である。

 しかしキロクは大真面目だ。

 周囲の人間が言うには、キロクはどこか人間らしさが欠けているらしい。機械みたいだと言われたこともある。

 キロク自身あまり自覚はないが、だからこそこんな仕事に就くことができたのだろうと思っている。

 リカバリーシステムの代替人には誰もなりたがらないが、同じくらい、その人間の命を奪う仕事をする役人になりたいと思う者は少なかったから。


「代替人なんて、良いように言葉で濁しているだけでしょう」

「あー、うーん。まー生贄って言う人もいますけれど、それに挑んだ理由じゃないですかねぇ」

「例えば?」

「私は立候補したらお金がたくさん貰えました」

「俗っぽい理由ですね」


 キロクの淡々とした言葉に、思わずキオクは噴き出した。

 実際に、リカバリーシステムの代替人となった者には多額の報酬が与えられる。

 貰ったところで使い道などないのだが――大体はその金を手に入れるのは、代替人の家族や縁の深い者だった。

 くすくす笑うキオクに、キロクは軽く首を傾げる。


「何故噴く」

「いや、キロクさんが正直者なので」

「私が正直者だとあなたは笑うのですか?」

「あなたが正直者なので私は嬉しいです」

「理解できません」

「はい」


 キオクは笑いながら、右手の人差し指をピンと立てる。


「私はそのお金で、孤児院を立て直しました」

「そうですか」

「立派なので機会があったら見に行って下さい」

「分かりました」


 相変わらず素気のない返事だが、これがキロクの性分だと知っているので、キオクは気分を害した様子はない。

 そして笑顔のまま話を続ける。


「それで、残りのお金で桜の木を買いました」

「桜の木?」

「はい」


 初めて興味を持ったようなキロク。

 キオクは立ち上がると、庭の真ん中に向かって歩いていく。

 ちょうどベンチの真ん前だ。先ほどからそこに、何かが布で隠されていたのは気になっていたが、どうやらキオクのものだったらし。

 キオクが布をそっととると、そこには彼女の背の丈ほどの桜の木が植えてあった。


「じゃーん」

「布で隠してあったのはそれをやる為ですか」

「もっと驚いて下さいよ」

「驚きました」


 どこがだろうかとツッコミを受けそうなほどに、相変わらずの無表情でキロクは言う。


「ここに植えたのですか?」

「はい。キロクさんはここでずっと仕事するんですか?」

「質問に対する答えではないですが、そのつもりです」

「桜とか、あった方が楽しくないですか」

「あなたの楽しいという基準が分かりません」


 やや困惑した様子でキロクはそう返す。

 本当に、分からないのだろう。頭の上に疑問符を浮かべているのが目に見えるようだ。

 キオクは「楽しいですよ」と繰り返す。


「この世界は、もっとカラフルなんです」

「私にはモノクロにしか見えませんが」

「なら、記念すべきキロクさんの世界の、カラフルの一号ですよ」


 キオクはそう力説する。

 キロクはサンドイッチを食べる手を止め、桜の木をじっと見つめた。

 色は、分かる。

 けれどなぜカラフルだと楽しいのか――それはちっとも分からない。

 ただキオクがとても楽しそうなのが印象的で、キロクは「そうですか」と呟いた。


 そんなキオクと言う名前の少女。

 キロクが自分と良くにた名前のこの少女に出会ったのは、一週間ほど前のことだった。





 どこまでも続く青い空の下に、白亜の都が広がっている。

 白の古都クレスメント。この世界で一番古い時代から存在する、大きいという以外に取り立てて特徴のない街。

 その街の一番高い位置に、石造りの城が建っている。

 キロクはその城で役人として働いていた。

 

「城と言えば聞こえは良いが、城主なんてものはいないのだがなぁ」


 この職場の話になると、変わり者のキロクの上司は良くそう言っている。

 見てくれだけは立派なこの城は、フタを開けてみればただ古いだけの石造りの建築物だ。

 大昔は主がいたらしいのだが、病か何かでなくなり、その後はもうずいぶんと長い間放置されていたらしい。

 そう、城主はいない。いるのは役人と、とある役目を持った者だけだ。


 城を取り壊すには勿体ないが、放置していても何だかな――などと思ったらしいこの国の上層部が、ここを役人達の仕事場としてリフォームしてから大分経つ。

 それこそ名ばかりで、住み込みで働ける程度に修繕したしたというのが正しい。

 キロクがここに派遣されてようやく一年ほど経つ。

 十八で役人として採用され、あちこちに派遣されて七年。ちょうど中堅くらいには仕事が出来るようになった頃の事だった。


「やあやあ、新人君。元気かね?」


 ファイルを抱えてキロクが古城の中を歩いていると、芝居がかった口調で声をかけられた。

 振り返るとそこには灰色のロングへアに、猫のような金の目をした女性が立っている。

 この古城の管理者で、キロクの上司であるメモリだ。

 歳は三十代前半らしい。同僚が「美女」だと称していたので、恐らくそういう女性なのだとキロクは思っている。


 ここへやって来てから、キロクはずっとメモリから『新人君』と呼ばれている。

 確かにクレスメントの仕事場では、キロクは一番新人だ。しかしここへきて一年、それまでも、それなりの年月を役人として働いてきた。

 だからいつまでも新人君と呼ばれると、若干複雑な気持ちにもなる。キロクは小さく息を吐いて、上司に訴える。


「特に問題はありません、メモリ。それよりもいい加減、新人君はやめて頂けませんか」

「新人君は新人君さ。うーん、そうだねぇ。ま、君が三十路を過ぎたら訂正しよう」

「まだ五年もあるのですが……」

「細かい事は気にしなーい。それより新人君、そろそろ新しい子が到着する時間だ。悪いが、門まで迎えに行ってくれるかい」


 メモリはそう言うと、古城の北にある門の方を指でさした。

 城と同じ材質の白い石材で出来た門――名称を『誠意の門』を言う。

 大通りや商店街と通じる門は南であるため、普段はあまり人が通らない場所だ。


「分かりました。では、行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい。ああ、それと、分かっているだろうが……」

「ええ。逃がすな、ですね。心得ております」

「それは何よりだ。では、頼んだよ。到着したら私の部屋まで案内してくれたまえ」

「承知しました」


 キロクが軽く頭を下げると、メモリは手をひらひら振って、どこかへ歩いて行った。


(……相変わらず良く分からない人だ)


 キロクはそう思った。クレスメントへ来て一年の付き合いだが、キロクにはメモリの考えが全く掴めない。

 上司と部下の関係にあるため、円滑なコミュニケーションは仕事をする上で重要だと思っているのだが、なかなか難しいものだ。

 そんな事を思いながらキロクは誠意の門へと向かった。





 誠意の門とは、この街の北にある白い門のことだ。

 その凝ったディティールは一見の価値ありなどと、だいぶ昔に雑誌でも特集されているくらい、細工の美しい門だ。

 まぁ雑誌の効果もなく、この門を目的とした観光客など誰も来なかったのだが。

 それもそのはず、この門に良いイメージを抱く人間がいないからだ。


 この門は世の中の常識では『死』を意味する。

 別にくぐったところで死ぬわけではない。しかし死ぬことになる者だけが、この門を通るのだ。

 つまり、リカバリーシステムの代替人だけが。


 誠意の門自体は昔からここにあるが、その名前が付けられたのはクレスメントが出来てずいぶん後のこと。

 通った者――代替人は生きて再びこの門を通る事はない。だからか誠意の門は『死の門』とも呼ばれる事があった。

 だから、ここを通る者の大抵は、酷く暗く、沈んだ顔をしている。


(今回の代替人は確か……十五の子供か)


 資料に書かれていた内容を思い出しながら、心の中で呟く。

 十五なら、まだまだ未来がある若者だ。この世界の仕組みとして仕方のない犠牲ではあるが――――それでも僅かに哀れに思った。

 きっと彼女も今までの者たちと同じく、沈んだ顔をしているだろう。


(さて、どう声をかけたものか……)


 誰かを慰めたり、そういう類の声をかけるのはキロクは昔から苦手だった。

 心配して何かを言っても「人の心がない」と逆に怒られる事が多い。

 ならいっそ最低限事務的な対応に留めておいて、下手な言葉は何も言わない方がマシかとキロクは思い直す。

 

 そう思って歩いていると、誠意の門の辺りに、それらしい少女が一人立っているのが見えた。

 書類に書かれていた名前は『キオク』と言う。

 自分の名前と似ていてややこしいな、と見た時にキロクは思った。

 

 そんなキオクは周囲をきょろきょろと見回している。

 どうやら自分を探しているようだ。

 キロクが近づいていくと、足音に気が付いたのか彼女はこちらを見た。

 そして――――、


「あ! 役人さんですか? 初めまして、初めまして! 私、キオクと言います! 今回は、どうぞよろしくお願いします!」


 なんて、笑って頭を下げたのだった。





「いやぁ、君が面食らった顔なんて初めて見たよ」


 幾つかの手続きを終え、メモリと面会を終えたキロクを部屋へ送って行った帰り。

 上司からくつくつと楽しそうに笑われて、キオクが半眼になった。


「……別に、面食らってなどいませんが」

「いーや、食らっていたね! いやあ良いものを見た。堅物な新人君でも、驚くことがあるんだなぁ」

「だから新人君はやめて下さいと……」

「だがな、新人君」


 もう百は超えたであろう苦情を言おうとした時、メモリはスッと真面目な顔になった。

 丸眼鏡越しの眼差しは、忠告するように真剣なものだ。


「いくら風変りな子でも、代替人にはあまり関わるな。これからも、この仕事を続けていくならな」

「……今までも関わったことなどありませんが」

「ああ、知っているよ。これは、まぁ、お守りみたいなものだ。私はこの仕事をしていて、正気でなくなった者を何人も見ている」

「メモリはどうなんです?」

「私がまともに見えるなら幸いだよ」


 メモリはそう言うと、キロクの肩を軽く叩く。

 すでにその表情は元の飄々としたものに変わっていた。


「代替は二週間後だ。いいかい、新人君。決して――――」

「逃がすな、ですね。何度も言われなくとも、承知しています」

「……そうか、それならばいいんだ」


 メモリはそう言うと、くるりと背を向け、


「それじゃあ、頼んだよ」


 と軽く手を振りながら、自分の部屋へと向かって歩いて行った。

 それを見送ってからキロクは反対方向へ歩き出す。

 リカバリーシステムの点検があるのだ。

 ある意味で爆弾のようなものである。毎日欠かさず調子を見て、異常があればすぐに対応しなければならない。

 下手に手を抜いた時に何かあれば、クレスメントの街一つが簡単に崩壊しかねない代物なのだ。


 だがまぁ、それでもチェック項目通りに真面目にそれを行っているのは、キロクくらいのものである。

 大体の役人はさらっと点検してそれで終わりだ。

 何せ大きな機械である。項目通りに細かく点検していれば、二時間以上はかかってしまう。

 だから大体の役人は、大事な部分だけしっかりと点検するだけで済ませていた。


 そんな話をキロクも同僚から聞いたが「馬鹿なんですか?」と返してしまい、場を凍らせた事がある。

 実際に愚かな事だとキロクは思う。

 あれほどに大事な機械を、一歩間違えば兵器になりかねない機械を、そんな手抜きで扱って良いはずがない。


 しかし――――キロクはこうも思った。

 メモリが先ほど「私はこの仕事をしていて、正気でなくなった者を何人も見ている」と言っていたが、もしかしたら。

 彼らはただ、その機械を直視することが辛かったのではないかと。


「……怠慢なのに変わりはないか」

「誰かと喧嘩するんですか?」

「!?」


 ポロリと呟いた声に反応があり、キロクはぎょっとそちらの方を向いた。

 いつやって来たのか、そこには先ほど迎え入れた代替人の少女、キオクの姿がある。


「喧嘩などはしませんが、いつからそこに」

「今です。お手洗いを借りようと思ったんですが、場所が分からなくて」

「ああ、失礼。案内していませんでしたね。そこの通路を曲がって直ぐです」

「なるほど。ありがとうございます!」


 キオクは軽く頭を下げて礼を言うと、軽い足取りでそちらへ歩いていく。

 向かう先が一緒だったが、お手洗いに向かう少女についていくのも何だかなとキロクは思ったので、その場で少し待つ事にした。

 すると、少し歩いた先でキオクが足を止め、振り返る。


「あ! そうだ! ところで、今日の夕飯は何時ですか?」

「十八時頃です。部屋の方へ運びますから、そこで食べて下さい」

「朝とかお昼は?」

「朝は七時、お昼は十二時頃ですね。それも部屋の方へ私が運びます」

「たまに外で食べても良いですか?」

「外?」


 そう言われてキロクは目を瞬いた。

 外、と言われても。

 キロクは窓の外へ目を向ける。そこには中庭が広がっていた。


「……そうですね。敷地内の中庭でしたら良いですよ。しかし何でまた」

「室内にこもりっきりって息が詰まりませんか?」

「空調は修理したばかりですが……」

「いえいえ、こう、気分的な? でも、やったー! ありがとうございます、そうします!」


 再び礼を言うと、キオクはスキップしそうな勢いで、通路の向こうへ消えて行った。

 やや呆然とキロクは彼女を見送る。


「……そんなに喜ぶ事だっただろうか」


 得体のしれない、未知の者。

 そんな類に遭遇したような奇妙な感覚になって、キロクは首を傾げた。





 翌日から、キオクはお昼になると中庭にやってくるようになった。

 という事を知っているのは、キロクもまた中庭のベンチで昼食をとっているからだ。

 キオクは古城にやって来てからほぼ毎日、天候が良い日はこうして中庭へやってくる。

 気が付けば彼女と隣に並んで昼食をとるのが、キロクの日課になっていた。


 その日もキロクは中庭のベンチに腰かけて、報告書の束に目を通しながら、昼食のサンドイッチを食べていた。

 キロクはあまり感情の起伏を感じられない顔で、黙々と口を動かしサンドイッチをその腹に収めている。


「お昼ご飯ですか、キロクさん」


 ふと、頭上に影が差したかと思えば、そんな言葉が耳に届く。

 キロクが顔を上げると、キオクが立っていた。

 やや癖っ毛の薄茶の髪に、空色の目をした小柄の少女から見下ろされるのは、何とも不思議な気分である。


「……って、何食べているんですかキロクさん。それってもしかして、栄養補助食品だけ挟んだサンドイッチじゃないですか? 体に悪いですよ」

「栄養補助食品を食べているのに体に悪いというのは、いささか理解致しかねます」

「いや、サンドイッチって、もっとこう、新鮮な野菜とかハムとか、ハムとかハムとかを挟むものです」

「それはさすがに栄養が偏ります」

「あれ? そうだっけ? ……って、違った! 栄養の話じゃないですって」


 キオクは肩をすくめると、キロクの隣に腰を下ろした。

 その姿を横目で見てから、キロクは再び報告書へ視線を落とす。

 そして、そのままキオクに問いかけた。


「キオクはお昼ご飯は済みましたか?」

「これからです! 見てください、サンドイッチです!」

「……具材は?」

「目玉焼きとベーコンですね。今日のはケチャップで味つけされています。美味」

「ケチャップ……」

「……もしやマヨ派?」

「いいえ。栄養補助食品派です。何なら砕いてかけます」

「調味料の意味!」


 キオクはそう言って頭を抱えた。

 賑やかな少女だと思いながら、キロクはサンドイッチを食べる。

 柔らかいパンと固い栄養補助食品の何とも言えない触感が口の中に広がっていく。


「美味しいですか?」

「個々の味はしっかりします」


 別にまずいとは思わないが、大して美味しくもない。

 そんな感想を率直にキオクに言うと、彼女は笑って、


「じゃあ、今度作ってきますよ。野菜とハムとハムとハムのサンドイッチ!」

「いえ、私にはこれがありますので。これも立派なサンドイッチです」

「確かに挟めば大体はサンドイッチですけど違います。もっとこう『サンドイッチ!』ってサンドイッチを食べて欲しいです」

「あなたは意外と頑固ですね」


 呆れたように言うキロクに、キオクは大きく頷く。


「石頭と評判でした! 滑って転んで頭を打っても無傷です」


 もしかして、それでこんなにズレているのではないだろうか。

 何て酷い感想をキオクは抱いたが、さすがに言葉にするのはやめた。


 だが、まぁ、しかし。

 作ってくれるというのならば、別に拒む理由はない。むしろありがたい。

 キオクとて栄養補給にちょうど良いから、こんなサンドイッチを食べているのであって、美味しいものは嫌いではない。


「……それでは、その内で良いので、お願いします」

「はい!」


 キロクが頼むと、嬉しそうにキオクは頷いた。





 その日、キロクは何となく、中庭へ足を運んだ。

 目的はキオクが植えた桜の木だ。

 まだまだ小さいながらもその枝では、もうそろそろ花が咲くのではないか、というくらいに蕾が膨らんでいる。

 生まれてこの方、キロクは桜の花が咲くのを見たことがなかった。


 というよりも、この世界には植物が多くない。

 キロクが物心つくころには、道端の雑草すら、ほとんど生えていなかった。

 理由は良く分からないが、どうもそれも<悪意>の靄が原因らしい。


 食べ物に関しては温室で栽培されているので問題ないが、外の世界で自生している植物はほとんどない。

 生えていたとしても<悪意>の靄に当てられて、萎れて枯れてしまうのだ。

 もしかしたら桜の木もそうなってしまうのではないか。

 そんなことをふっと思ったら気になって、キロクはここへやって来た。

 いくらリカバリーシステムか作動しているクレスメントの街の中であっても、万が一ということがある。


(キオクがあんな事を言うから)


 ぽつりとキロクは心の中で独り言つ。

 先日キオクがこの桜の木はキロクの世界のカラフル一号だと言った。

 キロクは世界がカラフルという言葉の意味合いが、今一つ分からない。


 生まれてからずっと、キロクの世界はモノクロだった。

 もちろん色はそれ相応にちゃんと見える。けれど何と言うか、全てが味気なく感じるのだ。


「あ、キロクさーん! キロクさーん! お水あげに来てくれたんですか?」


 桜の木を見ていたら、元気な声が飛んできた。

 このクレスメントの古城で明るい声を出す人間など、件の少女くらいのものだ。

 キロクが声の方へ顔を向けると、やはりキオクがそこにいて、ぶんぶんと手を振っていた。

 それからキオクはキロクの方へ駆け寄ってくる。手にはジョウロを持っていた。


「こんにちは、キオク。ただ見に来ただけですよ」

「そうですか。なら、見て下さい。じゃんじゃん見て下さい。ほらここ! もう少しで咲きそうですよ!」


 キオクは蕾を指さして、にこにこ笑顔でそう話す。


「桜の花、見たことあります? とても綺麗なんですよ」

「そうですか。私は見たことはありませんが、資料としては知っています」

「たぶん資料以上に綺麗で、びっくりすると思いますよ!」


 力説するキオク。

 キロクはふと「綺麗、か」と呟いた。


「……私は美しいと思えるものを見たことがありません」

「え? そうなんですか? メモリさんとか美人で綺麗ですよ?」

「あの人は何というか……規格外です」


 同僚は美人だと称していたが、メモリの性格を知るキロクからすれば、いささか肯定する気が起きない。

 言葉を濁した形になったキロクの言葉を「確かに規格外の美しさ」などとキオクは良いように取っていた。

 訂正する必要はないので、キロクはそのままにしておくことにする。


「でも、そうか。なら、美しいものも第一号ですね!」

「桜が?」

「はい! うちの孤児院にも、大きな桜の木があるんですよ。毎年、綺麗な花を咲かせてくれるんです。花が咲くとね、キロクさん。まるで別の世界みたいになるんですよ」

「別の世界……」

「それで、咲いた桜の下で、みんなでご飯を食べるんです。サンドイッチとか」

「栄養補助食品を挟んだ」

「違います。えらく推しますね、キロクさん。実は好物ですか?」

「いえ、別に。冗談です」


 そう答えて、キロクは「あれ?」と思った。

 冗談なんて言葉にしたのは初めてだ。

 何でこんな事を言ったのだろうと不思議に思っていると、キオクはくすくす笑う。


「花が咲いたら、桜の木の下でご飯を食べましょう。お花見っていうんですよ、それ」

「お花見……」

「はい。綺麗で、とっても美味しいですよ!」

「…………」


 別に場所が変わったくらいで、味が変わるものではないだろう。

 今までのキロクであればそう返しているところだが、何故かそういう気持ちにはならなかった。

 その代わり、


「ええ。そうします」


 と、するりと言葉が出てきた。

 するとキオクが目を瞬く。


「キロクさんが笑っているところ、初めて見ました」

「笑う?」


 今度はキロクが目を瞬く。

 口に手を当ててみると、口元が上がっていた。


「そっちの方が良いですよ。とても素敵です」


 キオクはぐっと親指を立てると、そう言った。

 素敵だと褒められたことなど一度もないキロクは目を丸くする。

 ついでに何だか胸が鳴ったのは、たぶん気のせいなのだろうと思うことにした。






「ずいぶんと、仲良くやってるじゃないか、新人君」


 キロクが上司であるメモリに書類を渡しに行くと、そんな風にニヤニヤと声をかけられた。

 何の話かと、キロクは片方の眉を上げてメモリを見る。


「あの子だ、キオクの事だよ。聞いたぞ、中庭で毎日お昼ご飯を一緒に食べているんだって? 堅物に見えて、このこの」

「痛いですメモリ。その不気味な笑い方をやめて下さい。あと新人君もやめて下さい」

「いいじゃないか。浮ついた話が一つもない君に、ちょっとした春が来たって聞けば、喜びたくもなるさ」


 そこまで言って、メモリは「だが」と言葉を区切る。


「私は言ったね。あまり関わるな、と」

「関わるなというのは、親密になるなということでしょう? 別に、彼女とはそういう関係ではありませんよ」

「別にそういう関係になったって非難はしないさ。だが役人としては良くない。特に、この仕事ならね」


 それからメモリはちらりと窓に目を向ける。

 眼下はちょうど中庭で、そこにはキオクが植えた桜の木が生えていた。

 もうそろそろ花が咲く頃だろう。

 それを眩しそうに見つめて、


「……昔、私の部下にそういう男がいてね」


 と話し出した。


「リカバリーシステムに選ばれた代替人は皆、生きて帰ることはない。亡骸すら故郷に戻ることはできない。家族を想って泣く少女を、そいつは哀れに思ったのだろう。気遣って、せめてその日まではと優しく接している内に――――そいつは少女を想うようになった」

「…………」

「そしてリカバリーシステムの代替予定日の前日、そいつは少女を連れて、ここを逃げた」

「…………どうなったんですか?」

「死んだよ。両方ね」


 窓枠に手を当て、メモリは淡々とそう答えた。


「正確には死んだと思われる」

「思われる?」

「ああ。……街の外に出てから<悪意>の靄に触れたらしい。そして異形と化したと報告を受けている」


 メモリの目が細まる。丸眼鏡越しのその目は、苦し気に歪んでいるように見えた。


「リカバリーシステムの代替人に選ばれるのは、体質的に<悪意>を受け入れやすい者だ。そんな人間が何の守りもなく外へ出れば、どうなるか分かるだろう?」

「<悪意>がその少女目掛けて集まった?」

「ああ。……恐らく、あいつは少女を助けようとして、靄に触れたんだろう」


 だから、とメモリは話を続ける。


「分かるか、新人君。彼女は外に出ても、助からない。街の中にいれば安全だが、リカバリーシステムが壊れれば同じことだ」

「私は……別に、キオクを逃がそうなどとは」

「ああ。……分かっている。すまない」


 メモリは視線を落としたあと、軽く首を横に振る。

 次に顔を上げた時にはいつも通りの表情になっていた。


「明後日が、その日だ」

「……はい」


 何が、とは聞き返さなかった。

 二日後。

 それはリカバリーシステムの代替の日だ。





 その晩、キロクはなかなか寝付けずにいた。

 いつもならば何があってもベッドに入れば直ぐに眠れるのだが、どうにも目が冴えてしまっている。

 理由には思い当たる節があった。キロクの上司であるメモリとの話だ。

 代替人に恋をして、連れて逃げてその末に命を落とした役人の話。


 以前のキロクであれば「馬鹿な事を」とバッサリ言い切る事が出来ただろう。

 けれど今は何故か、その役人の行動を完全には否定できずにいた。

 その事を考えると頭の中でキオクの事がちらつくのだ。

 生まれてから二十五年、こんな事は初めてだった。


 キロクはため息を吐くと、ベッドから起き上がり、部屋の外に出た。

 外の空気を吸えば少しは気分も変わるだろうと思ったからだ。

 薄暗い古城の中を、なるべく足音を立てずに歩く。

 どこへ行こうか――そんな事を考えながら進んでいたら、自然と中庭にやって来ていた。


 月明かりの中に、小さな桜の木が見える。

 キロクは桜の木に近づいて、その幹に手を当てた。

 ……何だか温かい。

 植物とは、こういうものだっただろうか。

 不思議な心地よさを感じながら、キロクは桜の木を見つめる。


『花が咲いたら、桜の木の下でご飯を食べましょう。お花見っていうんですよ、それ』


 ふと、キオクの言葉が蘇った。


「桜の花が咲いたら、か……」


 ぽつりと呟く。

 桜の花は、もうそろそろ咲きそうだ。

 しかし――――果たして彼女は桜が咲く頃、生きているだろうか。

 

 リカバリーシステムの代替は明後日だ。

 蕾は膨らんでいるものの、二日で咲くようには思えない。

 キロクの頭の中にキオクの笑顔が浮かぶ。

 見せてやりたいとは思う。

 そして自分も見たいなとも思う。

 どうしてそう思うようになったのかキロクにも分からないが、やはりメモリの言うように、関わりすぎたからかもしれない。


 昼食の間の、ほんの少しの時間だけであったのに。

 思った以上に自分がその時間を楽しんでいたのだと、キロクは今になって気が付いた。

 何かあったわけでもない、他愛もないやり取りを。


「…………」


 機械のようであると称された自分に、笑顔を向けてくる人間は今までほとんどいなかった。

 両親にだって、笑わないキロクが不気味だと距離を置かれていた。

 それなのに出会って間もないあの少女は、そんな事など全く気にせず、物怖じせずにキロクに話しかけてくる。

 最初は戸惑ったし、困惑もした。けれど――――いつしかそれが心地良く感じるようになっていた。

 いっそリカバリーシステムに不具合が出れば、点検中に少し手を加えてメモリーをいじれば、せめて桜が咲くまでの時間を少しは――――。

 そう思った一瞬、キロクはハッとなって首を振った。


「私は、馬鹿か」


 自分は役人だ。この仕事に誇りをもって働いている。

 役人は人を守る立派な仕事だ。そして――――。


『人を殺す、最低の仕事だ』

「!?」


 突然、聞き覚えのない不気味な声がした。

 振り返るとそこにはキロクと同じ服を着た男が立っていた。

 否、同じというには、ボロボロで、その体からも靄のようなものが立ち上っている。


「誰だ!」


 キロクが腰に手を当てる。

 だが、そこにいつも携帯している銃はなかった。

 小さく舌打ちすると、キロクは両手を前に構える。役人なった時の研修で、多少なりとも体術も学んでいる。

 だが、それもどこまで通用するか――――。


 つう、と額から汗が伝う。そんなキロクの視線の先で、男はゆっくり顔を上げた。

 その顔は、真っ黒に染まっていた。目も鼻も口もない、漆黒がそこにあった。

 人の形をした何か――そう例えるのが相応しい。

 だがそれを見て、キロクは目の前の男が何か理解した。

 <悪意>によって『異形』と化した人間だ。


「何故、クレスメントの中に……!?」

『なぁ、君、リカバリーシステムが憎いよなぁ? 嫌いだよなぁ? 分かる、分かるよ、僕も分かる。分かるよ、だって、あれは、彼女を殺した』

「何を……」

『僕はずっと憎かった。でも街へ入れない。あの機械をぶっ壊したいのに、中へ入れない。ずっとずっと、綻びを探していた。ようやく、君のおかげで入ることが出来た』

「わ、私……!?」


 キロクは思わず息を呑んだ。

 馬鹿な、と言葉が出た。

 確かに一瞬、そう思った。だが<悪意>と呼べるほどのものではない。

 あんな小さな感情が<悪意>になんて、なるはずがない。 

 キロクは蒼褪めたが、目の前の『異形』は、それが原因だと言っている。

 もしも自分が原因ならば、止めなければならない。キロクは『異形』を睨むと、取り押さえるためにじりじりと近づいていく。

 その間にも『異形』はぶつぶつと何かを呟いている。


『リカバリーシステムなんて、いらない。ああ、ああ、あれのせいで――――彼女は死んだ! 彼女を犠牲にして生きている連中は、皆、死んでしまえ!』


 そう叫んだ途端『異形』の体から、爆発するように黒い靄が噴き出た。

 <悪意>だ。それは真っすぐにキロクに向かって飛んでくる。

 まずい、とキロクは思わず目を瞑る。

 あの量の<悪意>の直撃を受ければキロクだって無事では済まない。


――――だが。


 体には何の異変も感じなかった。

 恐る恐る目を開くと、自分の周りだけ<悪意>の靄が避けているのが分かった。

 何故、と思ったキロクの目に映ったのは桜の木だ。

 桜の木の周囲だけ<悪意>が避けている。


「これは……」


 キロクが驚いて目を見開いていると、

 バンッ、

 と一発の銃声が響いた。

 音の方を向けばメモリが銃口を『異形』に向けているところだ。


「無事か、新人君!」

「メモリ! 『異形』です!」

『メモリ……?』


 名前を聞いた異形が、ゆらり、とメモリの方へ顔を向ける。


『メモリ……ああ、ああ、あなたか。あなたか……』

「お前は……まさか……」


 メモリの顔が強張る。どうやらこの『異形』に覚えがあるようだ。


『あなたが。あなたが、あの時……彼女を助けてくれていれば……』

「…………」

『あなたのせいだ!!』


 『異形』は叫び、再び噴き出した<悪意>がメモリに向かって行く。

 メモリは銃口を向けたまま、動けずにいた。


「メモリ!」


 <悪意>がメモリに触れかけた、その瞬間。

 その間に、小さい影が飛び込んだのが見えた。

 月明かりに照らされたその顔に、キロクは見覚えがあった。


「キオク!」


 そう、キオクだ。

 間に飛び込んできたキオクに、メモリに向けられた<悪意>がぶつかる。

 <悪意>はキオクの体に吸い込まれるように入っていく。

 その途端、キオクの肌が<悪意>と同じ黒色に染まり出した。

 キオクはがくりと膝をつくと、その場に倒れ込む。

 キロクは弾かれたようにキオクに向かって駆け出した。


「すまない……!」


 誰に対する謝罪だったのか、メモリが小さくそう言うと『異形』に向かって銃を撃つ。

 何発も、何発も。

 顔に、体に銃弾を受けた『異形』はその場に倒れ、その体はどろりと溶けた。


「キオク、キオク! 大丈夫ですか、私の声が聞こえますか!?」


 キオクに駆け寄ったキロクは、彼女を抱き起し声をかける。

 黒に染まりつつある顔で、キオクは「はい」と掠れる声で頷いた。


「メモリ! メモリ、キオクが……! どうしたら良い!?」

「……こうなっては、もう、手遅れだ。『異形』になるのも時間の問題だ」

「そんな……」


 目を向くキロク。

 そんな彼に向かって、キオクは小さく笑った。


「…………明後日と今日は、そう大差、ありませんよ」

「……キオク?」

「もともと、そういうお話です。なので、ええ、『異形』になる前に、どうか」

「何を……言って」

「私は……代替人、ですよ……キオクさん」

「―――――」


 キロクは言葉を失った。

 どうしても頷くことが出来なかったからだ。

 銃をしまったメモリが、そんなキロクの肩に手を置いて、膝をつく。


「…………分かった」

「メモリ!?」

「これが私達の仕事だ」


 メモリは感情を押し殺したような声を絞り出す。

 そんな彼女に、キオクは「ありがとうございます」と笑ってみせる。

 キロクは何も言えずにいた。





 それからは早かった。

 リカバリーシステムの内側にキオクを寝かせると、メモリは部下に指示をして、システムを動かし始める。

 キロクもそれに従った。他ならなぬキオクの頼みだからだ。

 酷い顔をしていると、同僚から心配されたが、キロクは何も答えられなかった。

 ただただ機械のように、淡々と作業を進めていく。


 そして、その時は間もなく訪れた。

 操作盤の、ボタン。それを押せばリカバリーシステムに貯め込んだ<悪意>の代替は完了する。

 それはキロクの仕事だった。

 正確に言えば自分にやらせてくれとキロクがメモリに頼んだのだ。

 彼女は「無理はするな」と気遣ってくれたが、キロクは首を横に振った。

 これだけは、自分がやらなければならないと思ったからだ。


―――――だが。


 いざ、ボタンを前にすると、腕が鉛のように重く動かない。

 持ち上げるだけで精いっぱいだ。


「…………」


 明後日、キオクは死ぬ。それは予定されていたことだ。

 だが――――自分の<悪意>が、それを早めてしまった。

 彼女に桜の花が咲くところが見せたいと――一緒に見たいと思ってしまった、自分の感情が、キオクの人生を早めた。

 あの異形が叫んでいた言葉が、痛いほど身に染みた。


『リカバリーシステムなんて、いらない。ああ、ああ、あれのせいで――――彼女は死んだ! 彼女を犠牲にして生きている連中は、皆、死んでしまえ!』


 こんな不完全なシステムで、一人の人生を犠牲にして、この世界は動いていく。

 その仕事を、自分は選んでここに来た。

 ふと、目の前がぼやけてきた。それを見てメモリは苦し気な顔をしたが、何も言わなかった。

 

 ぼやけた目でキロクはガラス越しに横たわるキオクを見る。

 すると僅かに、彼女がこちらを見ていることにキロクは気が付いた。

 お昼の時間、いつも見せてくれた笑顔で、キオクは笑っている。

 その口が、


『では』


 と動くのが見えた。


『キロクさんって言うんですか? わたし、キオクって言うんですよ。あ、知ってるか。何か名前、似てますね』


『……って、何食べているんですかキロクさん。それってもしかして、栄養補助食品だけ挟んだサンドイッチじゃないですか? 体に悪いですよ』


『じゃあ、今度作ってきますよ。野菜とハムとハムとハムのサンドイッチ!』


『この世界は、もっとカラフルなんです』


 キオクの言葉が次々と浮かぶ。

 助けられる方法はないのかと、頭の中で必死でキロクは考えていた。

 けれど、キロクは知っている。ああなった状態で、助かる者はもういないのだと。

 役人になる試験の答案用紙に、他でもないキロクが、自信満々にそう書いたのだ。


 指先が震える。

 たった一つのボタンに触れる。少し力を入れるだけで、すべてが終わるボタンだ。

 ああ、こんな――――こんなに重いものだったなんて、知らなかった。

 

 キロクは目を閉じ、それを押し込んだ。

 




 数日後、キロクはメモリの部屋を訪れていた。


「あなたが、代替人にかかわるなと言った意味が、ようやく理解できました」


 そう言いながら、キロクは太陽を模した金色のバッジをメモリの机に置いた。


「私はもう、実行のボタンを押す事が出来ません」


 そのバッジを見た後、メモリは真っ直ぐにキロクの目を見てため息を吐く。


「……君は真面目で仕事のできる良い部下だった。今回のことは、私のミスだ。君が気に病むことはない」

「ありがとうございます」


 気遣うメモリの言葉にキロクは小さく笑ってそう返す。

 だがキロクの意志は変わらない。

 役人を辞める――それが、ボタンを押したあの時に、キロクが決めた事だった。

 この仕事を続けていれば、正気を保つ事はできない。メモリの言った言葉は正しかった。


「これからどうするつもりだ?」

「……分かりません。ただ、しばらく街を離れて、あちこち行ってみようと思います。桜のこともありますし」

「そうか。何か困った事があれば連絡してくれ。あと、分かった事もな」

「はい」

「それと、今月分の給料だ。よく働いてくれた」

「給料はいりません。その代わり、あの桜の木の花を少し、頂きます」

「給料は持って行け。君がここで働いた証だ。……無駄にするな」


 メモリはキロクの手に給料の入った封筒をしっかり握らせた。

 キロクは困ったような顔になったが『ここで働いた証』と言われると、突き返すことができなかった。


「……はい。それと、メモリ。キオクの桜の木を頼みます」

「ああ、任せておけ。――――キロク」

「初めて名前を呼ばれました」

「もう新人君とは呼べないからな。……元気でな」

「はい。お世話になりました」


 キロクは頭を下げると、静かに部屋を後にした。


 部屋を出たキロクが向かった先は中庭――あの桜の木だ。

 桜の木はあの出来事から数日後に花を咲かせた。薄桃色の美しい花だ。


「咲きましたね」


 桜の木を見ながらキロクは言う。

 この木は、確かに<悪意>からキロクを守ってくれた。

 理由は分からない。けれど、あの出来事は、この世界にとってとても大事な事のようにキロクには思えた。

 もし――――もし、桜の木が<悪意>から人を守るのであれば。その理由が解明できれば。

 リカバリーシステムが必要なくなる時代がくるかもしれない。


「…………少しだけ頂きます、キオク」


 桜の花に手を伸ばし、その一つを取る。

 綺麗だと、初めて思った。水の上に絵具を落としたように、キロクの世界に薄桃色の美しい色が広がった。

 途端に目から涙が零れ、ぽたりと落ちた。


「綺麗ですね」


 キオクのくれたこの薄桃色が、世界で一番、そしてキロクにとって初めての――――美しい色だった。

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モノクロデイズ 石動なつめ @natsume_isurugi

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