ちいさな恋のはじまり
一白
□
俺はとある駅近カフェでバイトをしている、しがない大学生だ。
少し年の離れた兄が二人いて、二人は既に社会人として働いている。
彼らが就活に苦労する姿を見ていたため、少しでも就活を有利に進めるべく、資格を取っておこうと考え、必死に勉強しているところだ。
自宅だと親が煩いし、テレビなどの誘惑も多くて勉強が捗らない。
どうしたものか、と悩むことひと月ほど。
俺は、カフェの常連客の中に、ちらほらと勉強する姿があることに着目した。
場所を変えれば、もしかしたら勉強できるかもしれない。
そう考え、勤務先のカフェでテキストを開いものの、バイト仲間に揶揄われ、内容が全く頭に入ってこなかった。
このままじゃマズい。
そう考えつつも日々は過ぎ、俺は自分の意志力の低さに幻滅しながら、家族とともに外食に出かけた。
俺の勤務先とは真逆の出口にあるファミレスは、どの料理を頼んでもハズレがないので、家族全員のお気に入りの店だ。
母が追加でデザートを頼むのに便乗して、俺もパフェを頼んだが、生クリームが多くて途中で断念する。
こんなに生クリーム盛らなくても良いのに……と、皿を下げに来た店員さんに恨みがましい目線を送ったところで、俺はふと、その店員に見覚えがあることに気付いた。
ファミレスからの帰路、ずっと考えていても全然思い出せず、悶々とすることおよそ三日。
いつものようにバイトに励んでいた俺は、たまたま、見覚えのあるテキストが放置されたテーブルに、トイレで離席していた客が戻ってくるのを見かけた。
そしてその瞬間、いつかの既視感の原因に気付いたのだ。
その客は女の子で、身なりから、俺と同じ大学生だと思う。
真剣な表情でテキストを読み込む姿が、ファミレスで働いている時の笑顔とは別の一面を見せていた。
なんとなく、目が離せなくなり、バイト仲間から指摘されて、ようやく手を動かし始める。
しかし、それからすぐ、女の子は勉強を終えて帰ってしまった。
(……あのファミレスに行けば、俺と同じ勉強をしてるあの子に、会えるんだよな……)
平日は店閉めまでバイトを入れているし、日曜はサークル活動で潰れるから、チャンスは土曜しかない。
とりあえず、遅々として進まないテキストを持って、今週末にでも行ってみよう。
それでもし、またあの子に会えたなら、きっと、合格まで頑張れる。
ほのかに、そんな予感がした。
■
美帆が働くファミレスは、駅の北口にあった。
商店街を擁し栄えている南口と違い、北口はライバル店が少ないため、食事時はだいたい忙しい。
大学の講義の都合上、美帆がシフトに入るのは休日のみで、フロアスタッフとして雇われていた。
今夜もいつものように注文を取ったり料理を運んだりしながら慌ただしく働いていると、十時を少し回った頃、一人の男性が来店した。
(あ、今日も来たんだ)
身内贔屓をするわけでは決してないが、美帆が勤めるファミレスの料理は美味しい。
それなりの数の常連客もおり、この男性は三か月ほど前から、決まって土曜日の夜に見るようになった。
おそらく美帆と同年代だと思われるのだが、若い男性らしく、がっつり食べるようなメニューをぺろりと平らげてから、必ず追加でパフェを頼むのだが、そのパフェに注文をつけるため、印象に残るようになったのだ。
今日も注文してくるのだろうか?、と、洗い上がったカトラリーの水気を拭き取りながら待機していると、案の定、食べ終わったタイミングでベルを鳴らした。
「お待たせしました。追加のご注文でしょうか?」
「はい……、チョコパフェを、生クリーム抜きで」
「かしこまりました。すぐお持ちしてよろしいですか?」
「お願いします」
やっぱりいつも通りだった、と、予想が当たったことに秘かにガッツポーズを取りながら、用済みの食器を回収し、デザート用のキッチンに移動する。
「いつもの注文、入りましたー」とバイト仲間に告げながら手を消毒すれば、小休憩を取っていた厨房から「パフェのあんちゃんか」と笑いが漏れた。
「毎週毎週、よく飽きねぇよなぁ。俺だったら胃もたれするぜ」
「代田さんは糖尿じゃないスか。そもそも食べちゃダメっスよ」
来客のピークを過ぎたため、和やかな雰囲気で会話している厨房スタッフを他所に、美帆はパフェを仕上げていく。
常連の中には、ステーキの注文の際に「ソースはなしで、塩持ってきて」と頼んでくる客や、「ウーロンハイ。酒多めでな!」とコミュニケーションの一環のように接してくる客もいるが、パフェの構成を変更してほしいという申し出は、いままでになかった。
普段であれば、生クリームを利用してアイスクリームやバナナの位置を調整するのだが、それが出来ないので、美帆は当初、余計なオプションにイライラさせられたものである。
それがいまでは、他のパフェを作るのと変わらぬ時間で完成させられるようになったのだから、慣れとは恐ろしいものだ。
トレイに乗せて、出来たばかりのパフェをテーブルに運べば、男性は鞄から参考書を取り出すところだった。
(おー……やっぱり今日も、ですよねー。試験、明日だもんなぁ)
美帆にとっては見覚えのある資格試験の参考書を、男性に気付かれないようにチラ見しながらパフェを置き、先程までのカトラリー拭きの作業に戻ると、小休憩を終えたらしい厨房スタッフがフロアに顔を出した。
「パフェ君って、どの子よ」
「あの人です。五番テーブルの」
「はぁーん……、若いってのは良いねぇ」
今日は十時前に退店する客が多かったため、注文の来ない厨房は暇なのだろう。
遠目に件の男性を確認して、何故か美帆をも一瞬見てから、厨房スタッフは持ち場へと戻っていった。
行動の意図が読めず、美保は寸の間、きょとんとしていたが、来店を告げるチャイムを耳にすると、再び接客をしにフロアへと向かった。
接客をこなしながら、各テーブル上のペーパーを補充したり、メニューを整えたり、と、店じまいの準備を並行して行う。
気が付けば、閉店時間まで三十分となっており、美帆はメニュー一冊を片手に、ラストオーダーの有無を聞いて回った。
テーブルの配置の関係でパフェの男性が最後になり、美帆は迷いながら五番テーブルへ近づく。
(……どうしよう、きっと明日が試験だとは思うし、応援したい気持ちはあるけど……いきなり、「頑張って下さいね」とか言われても驚くよなぁ)
少し悩んだものの、美帆は結局、男性にエールを送ることはしなかった。
自分の立場に置き換えたら、気持ち悪い、と思ってしまうかもしれない。
せっかく、この店の常連になってくれたのだから、余計なことをして足を遠のけたくはなかった。
閉店時間を過ぎ、レジ締めを終えて売上金を金庫にしまい、その後の処理を厨房スタッフに任せると、美帆はバイト服を着替えることなく、コートを上から羽織っただけで寒空の下に滑り出る。
バイト中は考えないようにしていたが、実は美帆も明日、男性が勉強していたのと同じ試験を受けるのだ。
早く寝て、明日の本番に備えたい。
白い息を切らせながら、美帆は家路を急いだ。
翌土曜日、美帆はいつも通り、ファミレスでのバイトに勤しんでいた。
先日、受験した試験は、自己採点上では合格圏内だったため、とりあえず胸を撫で下ろしている。
定期的に訪れるバレー部らしい女性の集団へ料理を運びながら、美帆はちらり、と時計を見た。
(もうすぐ十時半だけど……試験は終わっちゃったし、もう来ないかな……)
外食するのだって、タダではない。
集中して勉強するために、やむを得ずこの店を利用していたのであれば、今後はそう頻繁には来てもらえないかもしれない。
ほんの少し残念に思いながら、ドリンクバースタンドのポーションやクリームを補充していると、来客を告げるチャイムが響く。
作業もそこそこに入り口へ向かえば、そこにはたったいま考えていた男性が立っていた。
驚きつつも普段通りに席へ案内し、注文を受け付ける。
どうやら今夜はがっつり、ステーキの気分らしい。
(「受かりそうだけど、食事が美味しいからまた来た」のか、「受かりそうにないから、また勉強しなくちゃいけないから来た」のか、どっちだろう……)
他のテーブルへ水のお替りを注ぎながら、遠目で男性の様子を伺う。
男性が勉強道具を取り出すのは、食事を終えた後からなので、現時点では何も分からない。
どこかそわそわしながら、食事を終えた男性からの追加オーダーであるパフェに取り掛かる。
(ここまで気にかかるんなら、いっそのこと勇気を出して聞いちゃいたいけど……、今夜は他のお客さんも多いし、もし勇気を振り絞って「試験、どうでした?」って聞いた結果が、「はぁ?」とかだったら全力で凹むわ……)
自分で想像した結果にげんなりして、美帆は飛び出てきそうだった勇気を、そっと胸の内にしまい込んだ。
きっと、ため込んだ勇気を使う場所は、ここではないはず。
いつものように、生クリームを抜いたパフェをテーブルに運ぶと、男性が「あの……、」と控えめな声を発した。
もしかして、パフェの他に、まだ何か注文するのだろうか。
珍しい、というより、恐らく初めての行動に戸惑いを覚えつつ、制服のポケットから端末を取り出そうとした美帆を、しかし、男性は「あ、違くて」と制した。
「唐突にすみません、どうしても気になって……」
「え?……な、なにか、失礼なことをしましたでしょうか?」
男性の発言に、粗相を指摘されるのでは、と姿勢を改める美帆に、男性は「そうじゃなくて」と否定を重ねる。
「その……、試験、どうでしたか?」
「……え?」
「おれ、……僕は、自己採点ではたぶん、合格なんですけど……そっちはどうだったかな、って気になってしまって」
ぽかんと口を開けたまま固まる美帆に、男性はハッとした様子で早口で後に続ける。
「あっあの、別にストーカーとかそういうんじゃなくて、俺、南口のカフェでバイトしてるんです。それで、金曜日、同じテキストでいつも勉強してたから……」
「え、南口の……え?確かにいつも……、え?うそ、もしかして、バイトの時って眼鏡を……」
「あー、バイトの時はつけてますね。……なんていうか、いつも、ご利用ありがとうございます」
確かに美帆は、南口のカフェを利用して勉強に励んでいた。
大学の講義が早めに終わる金曜日、夕飯までの間のほんの一時間にも満たなかったが、落ち着いた店内音楽のお陰で、短い時間にもかかわらず、勉強は捗った。
そのため、美帆が試験の合格点を取れたのは、カフェでの勉強時間のお陰だといっても過言ではない。
しかし、一時間弱の短い時間であることと、ファミレスなどの食事場所に比べて客の回転が早いことから、スタッフに顔を覚えられることはないだろうと高を括っていた美帆は、ピンポイントでこの男性に記憶されていたことに驚きを禁じ得なかった。
というより、そもそも、男性が当のカフェで働いていることも、たったいま知ったのである。
驚きの連続で、めまいに似た何かを感じつつも、美帆は辛うじて、「自己採ではたぶん大丈夫です」とだけ答えた。
途端、男性がふっと脱力し、顔を綻ばせた。
「良かった……。もう、今週ずっと気になっちゃって。昨日は来なかったし、今日、確認できて本当に良かったよ」
「引き留めてごめん」という言葉とともに、男性がテーブルに置かれたパフェを手元に引き寄せたため、会話を切り上げるタイミングだと察し、美帆はその場を去る。
他の客の対応に追われながらも、美帆の脳内では、先程の男性との会話が何度もリフレインしていた。
(まさか……まさか、私が一方的に知ってるだけの勉強仲間だと思ってたのに、まさかの、相手も私を知ってて、しかも私はまったくそれに気づいてなかったとか……!どうしよう、私、変な格好であそこ行ってなかったよね?うわぁああ……!)
軽食を頼むだけなので、財布の中身も乏しいことが多かったし、大学帰りだったために、へろへろに疲れていることも少なくなかった。
そんな、情けない姿を、もしかしてじっくりと見られていたのではないか。
ともするとネガティブな方向に向かいがちな考えごとをせずにすむように、忙しく仕事をしたいのに、今夜はあいにくの雨で、来客はいつもより少ない。
普段ならやらないような、デザートグラスの整理などを無意味にこなしているうちに、ようやく閉店時間を迎えられた時になってようやく、美帆は落ち着きを取り戻した。
「お疲れ様です」と笑顔を浮かべる男性の伝票を受け取る。
ラストオーダーは別のスタッフが回ったため、男性との接触はパフェを配膳した時以来だ。
なんとなく気まずい思いでレジを打っていると、男性がきょろきょろと周囲を見渡してから、そっと美帆に顔を寄せた。
「あの……、もし、良ければなんですが……、今度、こことか、俺のバイト先とかじゃない場所で、会いませんか……?」
再度、ぽかんとした顔つきになる美帆に、男性は居心地悪そうに俯きながらも、その場を立ち去ろうとはしない。
しばらく、店内音楽や厨房の片付けの音だけが、静かに流れる。
中々返事を口にしない美帆に、流石に男性は不安になったのか、そろそろと顔を上げた。
美帆は、手元に視線を落としており、誘いを断られたと察した男性が、がっくりと肩を落とす。
それでも最後に、「ご馳走様でした」とお礼を伝えようと再度顔を上げた男性の前に、美帆はずい、と手を差し出した。
「……これ、」
美帆の手には小さな紙片が握られており、男性は紙片と美帆の顔とを何度も確認する。
美帆は顔を俯けたままのため、その表情はほとんど窺えない。
疑問符を浮かべながらも、おずおずと紙片を受け取った男性は、そこに書かれている文字列に目を見開いた。
「あっ……ありがとうございます!あとで、絶対に連絡します!」
不安げだった顔つきから、一気に晴れやかな笑顔に変えて、男性は勢いよく頭を下げ、店を後にした。
残された美帆は、つい先程の自分の行動を思い返して、その場にずるずると座り込み、頭を抱え込んだ。
(ああぁあ……!もっと……もっと、なんかこう、可愛い渡し方なかったの、私!?誘われて嬉しかったのに、全然伝えられてないし!あああぁ……)
その場で数分、自己嫌悪と戦ってから、美帆はよろよろと立ち上がる。
とにもかくにも、レジ締めを終えてしまわなくてはならない。
頬が赤く染まっているだろう状態を、他のスタッフに見られないことを祈りながら作業した美帆の頬は、些細な計算ミスを重ねて余計な時間を食ったにもかかわらず、確かに緩んでいた。
ちいさな恋のはじまり 一白 @ninomae99
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