惑わし
一白
□
母方の祖父についての印象は、昔から良いものではなかった。
私自身は祖父に何をされたわけではないのだけれど、母がことあるごとに祖父の悪口を言うので、自然と、私の中の祖父像も良くないものになってしまったのである。
どうも、母が幼少の頃は、祖父は仕事に明け暮れては家を空けてばかりの人間だったようで、祖母と母とは、それは寂しい思いをして過ごしたのだという。
特に祖母は、祖父が他所で女性と関係を持っているのではないか、と疑うようになってしまい、そのせいで、徐々に家庭がギスギスしていったようだ。
働き盛りの四十代を過ぎた頃に、祖父がそれまでの仕事をきっぱりと辞め、自分の店を立ち上げてからは、夫婦の関係は修復していったものの、父娘の間のわだかまりは、とうとう解けることはなかったのである。
先日、その祖父が他界した。
祖母は私が小学校に入学するかどうか、といった時期に亡くなっていたので、祖母亡き後、十四年だか十五年だかを一人で過ごしていたことになる。
母は、祖母が早逝したことも祖父のせいだと思っている節があり、祖母の葬式に際して、祖父を激しく詰っていた。
祖母が逝去して以来、祖父母宅へ赴く頻度は極端に減り、祖父が民生委員の勧めで介護保険を受けた後も、認知症が進行して施設に入った後も、母は必要最低限しか接触しようとしなかった。
そして、祖父が亡くなった後も、母が極力、祖父に関わる出来事を避けたがったがために、私はいま、こうして祖父母宅へと足を運んでいるのである。
祖父が施設へ入居したのは、確か一昨年の事だった。
元々、祖父母の二人暮らしだった店舗兼住居は、祖父が施設に入ったことで空家となったのだけれど、当時は母も忙しく、そのような事情があって、処分が後回しにされていたのである。
しかし、祖父の葬式が終わり、年金や葬祭費、介護保険料などの清算をやっと終えたので、この際一気に家も処分してしまおう、とようやく決断したらしい。
ただ、取り壊して更地にするにしても、あるいは家付きの土地として売却したり、賃貸物件として貸し出したりするにしても、もし貴重品があるならば、回収しなくてはならない。
母は、幼少期の思い出が邪魔をするのか、家に入るどころか、家の中を見るのさえ嫌がってしまい、どうしても腰を上げられなかったので、見かねた私が手を挙げた。
幸い、大学生である私には時間に余裕があるし、片付けなどの本格的な作業はともかくとして、貴重品の捜索程度であれば、女一人でもできるだろう。
母から預かっていた二つの鍵のうちの一つで、シャッターを開ける。
もう一つの鍵で入り口を開錠し、引き戸を横にスライドさせれば、黴と埃の入り交じった香りが鼻をついた。
「まずは、換気しないと話にならないか」
締め切りだった雨戸や窓を次々と明け、日の光を中に招き入れる。
陽光は、初夏の爽やかな風とともに、店舗として使用していた一階を通り抜け、滞っていた暗闇を一掃していった。
ある程度の時間、風を通してから、玄関の戸だけ閉めて、ついでに鞄を玄関の床の比較的綺麗な部分に置く。
この辺りは駅から遠く、人気もまばらだけれど、もし万が一、ひょい、と通りがかりの見知らぬ人に侵入されても、対処に困ってしまう。
ざっくりと一階を見渡し、中途半端に片付けられて放置されたままの陳列棚や、陳列棚に残ったままの文具や雑貨を見て回り、高価そうなものがないことを確認してから、私は二階への階段を塞ぐ看板に手を掛けた。
「この先、住居スペース」とだけ簡便に書きつけられた、ホワイトボードタイプ看板だ。
よくインクが風化しなかったなぁ、と妙なところに感心しながら脇に避け、埃の付いた手を叩く。
ぎし、ぎし、と軋む木板に薄っすらと積もっている埃に、靴の跡を残しながら、ゆっくりと登っていく。
随分と急勾配だが、祖父は施設入居前に、こんな階段を上り下りできたのだろうか。
施設に入居する時は、スタッフさんが三人がかりで抱えてようやく車に乗せていたように記憶しているのだけれど。
ほぼすべての間仕切り用の壁を取り払い、店舗用に改築してしまった一階では、起居することはできなかっただろうし、パッと見た限りでは、生活していたような痕跡もなかった。
(そうするとやっぱり、二階にいたんだろうけど……、二階から下りずに生活していたってこと?)
食料や日用品を、二階まで運んでくれる人がいれば、可能なようにも思えるけれど、そうすると玄関の鍵を解放したまま生活することになる。
そんな防犯上の危険を冒してまで、二階で暮らすメリットがあるのだろうか。
謎が謎を呼ぶ中、前、右、左にそれぞれ一つずつある部屋を、一階と同じように雨戸や窓を開放しながら確認していく。
左右の部屋は物置と化していて、左はフローリング、右は畳だった。
右の部屋の押し入れには布団が入ったままだったので、もしかしたら祖母はここが寝室だったのかもしれない。
そして中央の部屋が祖父の部屋と思しき場所で、敷かれたままの布団の上には衣服が脱ぎ散らかされたままで、本棚の中の本も、整理もされずに雑然と置かれていた。
これまで食料の類が見当たらないのは、施設のスタッフや民生委員が、最低限のものを処分してくれたのだろうか。
とりあえず、虫が大量にわいている、という状況ではないことが分かり、一安心した。
部屋の奥に置かれた仏壇には祖母の位牌がないが、確か施設へ持って行ったのだったと思う。
引き出しがついているタイプの仏壇だったので、念のために調べてみたものの、特に何も入っていなかった。
「……ということは、貴重品はみんな、施設に持って行ったってことなのかな?」
あるいは、施設に入る際に現金化してしまった、とか。
この家の中に価値あるものがないのなら、それはそれで私は構わないのだけれど。
独り言を呟きながら、最後の確認箇所である押し入れを開ける。
すると、押し入れの中には衣装ケースがいくつかと、―――厳重に布に包まれた、細長いものが入っていた。
布は、経年劣化も加わって、お世辞にも上等なものとは言えない。
巻き方もぞんざいで、所々ほつれたり汚れたりしている布に包まれているものが、価値あるものかどうかというのは、判断に困る。
だけれど何故か私は直感で、これだ、と思った。
そうっと手を伸ばし、恐る恐る、布を剥がしていく。
そうして布を取り払い、出てきたものは、―――――――――子ども用の、おもちゃのステッキだった。
変色したプラスチックの持ち手には、ハートの中心に星が浮かんでいるようなデザインの先端が取り付けられている。
元々は赤と黄色に塗られていただろうそれも、大部分のペンキが剥げてしまっていた。
「……、……。勘が外れた、かな……」
まさか、こんな量産されていそうなステッキが、高価なものであるとも思えない。
店の在庫か、客の忘れ物だったのかもしれないけれど、あんなに布を巻きつけて保管するほどのものではないだろう。
そういえば、祖父は認知症を患っていたのだった。
もしかしたら、病気の影響でこのような奇行に及んだのかもしれない。
だとしたら、一概に祖父を責めるわけにもいかない。
いかない、が、正直、何かしらのお宝が眠っていることを期待していた私は、少なからずがっかりしてしまった。
腕時計を見て時間を確認すると、この家に着いてから、かれこれ三時間は経っている。
三時間の捜索の結果が、古びた子ども用のステッキ一本とは、我ながら何とも情けない。
「時間に余裕のある大学生」といえども、無駄骨を折ったことに落胆せざるを得なかった。
やけになって、意味もないのに、ステッキを手首だけでくるくる回してみる。
当然、アニメのようにキラキラした光が出てくるようなことはなく、みすぼらしいステッキは、みすぼらしいステッキのままだった。
ふう、と溜め息を洩らし、元の場所にステッキを戻そうとして―――、ふと、違和感を覚えた。
「……?そういえば、さっきより部屋が暗いような……?」
蛍光灯が切れたのかな、と上を見上げ、私は絶句した。
大きな黒い影が、私を覗き込むような形で迫っていた。
「……ッ!?な、なッ……!?わぁああ!!」
後ろを振り返り、後ずさるも、すぐに押し入れにぶつかってしまう。
私に覆いかぶさろうとする影を少しでも離そうと、無茶苦茶に両手を振り回した
ら、頭上から「いたっ、いたたっ!!」という、やけに甲高い声が降ってきた。
思わず手を止め、おずおずと頭上を見上げる。
大きな影には、よく見たら目と口のようなパーツがあり、泣いているような表情を浮かべていた。
「痛いよっ!いきなり殴るなんてひどい!」
「えっ……あ、ご、ごめん……?」
「久しぶりに呼ばれたから、急いで来てあげたのに!マンジロウの馬鹿ッ!」
ぷんぷん、と音が聞こえてきそうな程に怒っているような口調で、影は私に語り掛けてくる。
私はといえば、謝罪の言葉もそこそこに、影の発言の一部が引っかかって仕方がなかった。
『万次郎』―――それは、私の祖父の名前だ。
古めかしい名前で、印象強かったので、いままで忘れたことはない。
その祖父の名と思わしき名前を、この影は口にした。
一体、この影の正体は何なのだろう―――?
何をどうすることもできず、固まっていると、唐突に影の周囲に煙が満ちて、ただでさえ曖昧な輪郭だった影が見えなくなってしまった。
私は煙草の煙が苦手なので、反射的に顔の前で手を振って払いのけようとすると、影はまた「だから痛いってば!」と叫ぶ。
痛いも何も、私の手には何かに当たったような手ごたえはないのだけれど、と手元を確認してみると、私はいまだにステッキを持ったままだった。
びっくりしてステッキを手放すと、ことんと音を立てて床に落ちた。
「まったくマンジロウはおっちょこちょいなんだから。僕がいないと何にもできないもんね?」
怒気を残しつつも呆れを含んだ声に、床に落としていた視線を上げると、徐々に晴れつつある煙の向こう側には、影の代わりに少年が立っていた。
腰に両手を当てて、怒ったポーズを取っている少年は、大正時代や明治時代の書生のように、シャツと着物、袴を纏い、学帽を被っている。
おそらく私はしばらくの間、ぽかんと惚けていたのだろう。
焦れた様子の少年が「それで、今日は何をすればいいの?」と問うてきた声に、はっと我に返った。
「な、何って、……何をしてくれるの?」
「え?何かしてもらいたいから呼んだんじゃないの?」
「呼ん……あの、私が、あなたを呼んだの?」
「当然じゃない。何をいまさら……、ン?」
突如、ずい、と顔を近づけてくる少年に対し、身を仰け反って距離を取ろうとする私。
ゴン、と私の後頭部が良い音を立てたが、少年は気にすることなく、じいっと私の顔を覗き込んできた。
やがて少年は、腰に当てていた両腕を胸の前で組み、こてん、と首を傾げた。
「……マンジロウ、だよね?」
「……違います」
「ンン……?」
私の否定の発言に、少年は眉根を寄せる。
しばらく難しい表情で考え込んだかと思えば、急に笑顔になり、嬉しそうな声を上げた。
「あぁっ!じゃあ、マリコだ!初めまして、マリコ!」
「……、……。万里子は、母の名前ですね……」
「ンンン……?」
再び疑問符を浮かべる少年に、どこか既視感を覚える。
少年が再度、口を開くのを待ちながら、私も居住まいを正しつつ思考を巡らせる。
どこかで会ったり、見たことがある人だろうか。
「そうか!マンジロウの孫だ!初めまして!」
「……はぁ。初めまして」
満面の笑みで私に片手を差し出す少年に、素っ気なく返答する。
生憎、得体の知れない少年に名乗るほどの度胸は持ち合わせていない。
それでも少年は、私の対応に気を悪くしたような気配もなく、私の手を両手で掴んでぶんぶんと振りつつ自己紹介をしてくれた。
「僕はイチタロウ。マンジロウの兄だよ!」
「……ん?えっと、ちょっと意味が……、ん?あれ、もしかして……」
祖父の兄を名乗る少年に、「祖父の兄がこんなに若いはずがない」と反論しようとして、ふと思い出す。
そういえばその昔、祖母がまだ存命だった頃、一度だけ、古いアルバムを覗く機会があった。
そのアルバムの中に、祖父と並んで写っていたのが、この目の前の少年だったのではないか。
何を言えばいいのか、また、どう聞けばいいのか分からず黙っていると、少年―――一太郎は、にこにこと笑いながら言った。
「僕はね、神隠しに遭っちゃったんだ。『こちら側』に戻ってこられるのは、『こちら側』の人が僕を呼んだ時だけ。マンジロウは僕を『こちら側』に戻すために、ずっと僕を探してくれていたんだ」
あまりに突拍子もない話に、開いた口が塞がらない。
神隠し?そんなもの、おとぎ話の中の話だろう。
だけれど、私の前に突然、一太郎が現れたことと、一太郎が祖父の兄弟に似ていることは事実だ。
新手の詐欺なんじゃないか、と警戒を残しつつも、私は一太郎の語りを邪魔することなく、静かに聞いた。
イチタロウが言うことには、マンジロウ―――祖父は、イチタロウのように神隠しに遭った人々を救うために、仕事の合間に秘かに活動していたのだ、という。
活動が実り『向こう側』から戻ってこられる被害者もいれば、まったく奏功せずに手がかりすら掴めないことも多かった。
そんな中、どうにかイチタロウとの接触に成功したマンジロウは、当時既に四十二歳―――ちょうど、祖父が自分の店を興した年だった。
イチタロウは、弟の成長した姿にひどく驚きながらも、探し続けてくれていたことに感動し、『こちら側』に戻りたいと、自分を隠した神へ伝えた。
神は怒ったものの、制限付きで『こちら側』へ来ることを許可してくれたらしい。
「『こちら側』に来るのは久しぶりだと思うんだけど……マンジロウは元気?どこにいるのかな?」
「祖父は……、先日、亡くなりました」
「……、そう……」
事実を秘匿しても仕方がないので、祖父が死亡した旨を伝えると、一太郎は悲しげに目を伏せた。
親しげな様子から、事実を知ったら取り乱すかと思って身構えていたけれど、どうやら杞憂だったらしい。
一太郎を「呼んだ」のが祖父ではなく孫の私であることから、ある程度は察していたのかもしれない。
一太郎はしょんぼりした空気を纏いながらも、無理に作った笑顔を浮かべて、こう言った。
「それで……、僕は何をすればいい?」
「えっ」
「呼ばれた以上、『こちら側』で何か役に立つことをしないと、『向こう側』に戻った時に怒られてしまうんだ。だから、君の役に立ちたいんだけど……」
「何をすればいい?」と繰り返す一太郎に、何を頼むべきなのだろう。
この家の掃除?―――掃除したところで、取り壊してしまうかもしれない。
大学の講義で課されている宿題?―――いや、それは自分でやらなければ、大学で勉強している意味がないだろう。
買い物など家事?―――そんなことでも構わないのだろうか?
一通り「誰かに頼みたいこと」をリストアップしてから、ハッと気づく。
冷静に考えれば、一太郎が私をからかっているだけ、という可能性の方が高いのだ。
こんな古家に忍び込んで、通報されるかもしれないギリギリのことをするだけの価値ある遊びだとは思えないが、一太郎の年頃―――見たところ、小学校に上がったばかりくらいだ―――の男児の間で流行っている遊びなのかもしれない。
そうだ、遊び。きっとこの子は、大人をからかって遊んでいるのだろう。
叱ってやるのが正しい反応なのだろうけれど、既にここまで話に付き合ってしまった以上、さっぱりと切って捨てるのも忍びない気もする。
ここは一つ、盛大に話に乗ってあげることにしようか。
あえて無理難題を吹っ掛けて、「できません、ごめんなさい」と自分から言わせれば、こんな下らない遊び、嫌になってすぐ止めてしまうのではないか。
何も言わない私の顔色を伺うように、少し困った表情に変わりつつある一太郎に、にっこり笑いかける。
「じゃあ、あなたを『隠した』神様のところへ連れて行って?」
「ンン?……それ、は……」
「どうしたの?できないの?」
「できないわけじゃないけど……」
一太郎はいよいよ困ったように目を泳がせて、両手をもじもじとさせた。
子どもを虐めて楽しむような趣味はないけれど、この子の今後のためにも、大人をからかってはいけないということを、教えておいてあげなくては。
「マンジロウも気に入られちゃって、『向こう側』に連れていかれたのに……」「行くのはいいけど、帰してあげられるかな……」―――何やら小声で呟いているけれど、どうやって私の追及を逃れようか必死で考えているのだろうか。
言い訳をする時間くらいは与えてあげよう、と辛抱強く待っていると、たっぷり十分くらい経ってから、一太郎は俯けていた顔を上げた。
「……分かった。神様のところに一緒に行こう。でも、約束してほしいことが三つあるんだ」
「三つ?」
「一つ、神様に名前を聞かれても答えないで。一つ、神様の居場所から帰るときは、絶対に振り向かないで。一つ、これを落としたり手放したりしないで」
子どもらしからぬ真剣な表情と口調とで、床に落ちたままだったステッキを拾い上げながら、一太郎は私に約束事を語る。
なんだか神話や昔話に出て来そうな制限ばかりだけれど、この子の両親が買い与えた絵本に偏りがあるのだろうか。
「はい、はい」、と生返事を返しながらステッキを受け取り、そのまま一太郎少年の差し出した手を、今度は私から手を伸ばししっかりと握る。
子ども特有の柔らかく、しっとりした手のひらの感触を少しばかり楽しんで、手のひらから意識を戻すと、ほんの一瞬しか意識を逸らしていなかったにも関らず、周囲の様子が一変していた。
「えっ……?」
延々と続く草原には、色とりどりの花が咲き乱れていて、とても幻想的だ。
空はどこまでも青く、広く、時折浮かぶ雲も牧歌的なそれで、雨雲のような恐ろしさは伴わない。
遠くには微かに山や滝、湖などが確認でき、距離的に細部が見えないはずなのに、大小様々な動物が争うことなく共存している様子が脳裏に浮かんだ。
四方を囲む花々からは、ほの柔らかく匂いが立ち上り、それぞれが美味い具合に合わさって、とても幸福感を増長させる香りになっている。
このままずっと、この場所でのんびり過ごしたい―――。
そんな考えが頭を過り、ハッとして頭を振るう。
何しに、どうして此処に来たのだったか、思い出したいのに、幸福感が強すぎて、思考が継続できない。
私が何かに困ったときの癖で、咄嗟に首元に手を当てようとして、その手に何かを握っていることに気が付いた。
古びたステッキ。ペンキの剥がれた、子ども向けの。
パチッと目が覚めるような気持ちがして、改めて周囲を見渡そうと顔を上げると、いつの間に近づいてきたのか、妙齢の女性が目の前に静かに立っていた。
その右手には、先程まで一緒にいたはずの一太郎の手を、そして左手には、一太郎とよく似た―――幼少期の祖父とそっくりな少年の手を握っていた。
少年たちの表情はどこか虚ろで、それでいてどこか幸せそうだ。
「そなたが、一太郎と万次郎の子孫か。先祖恋しさに此処まで来るとは、なんとも愛い奴。どうか顔をよく見させてくりゃれ」
そう言うと女性は少年たちの手を離し、代わりに私の両頬に、白魚のような手を添える。
女性の顔は、どうしてだか、近くまで来てもよく見えないのだけれど、とても惹きつけられた。
細い指先がやがて首筋を伝い、肩を撫でる。
ああ、この方に抱きしめられたい―――そんな欲求が脳内を満たし、女性に応えるように両腕を持ち上げたところで、再びステッキの存在に気が付いた。
途端、ぼんやりとした視界が一気に晴れ、女性の後方に控えたままの少年たちと目が合う。
「逃げて」と小さく動いた口元から、声は漏れ来ない。
だけれど、一太郎との約束事を思い出した私は、女性からやんわりと距離を取った。
きょとんとした様子の女性に、掠れた声で「もう帰らなくては」と告げると、女性は至極残念そうに「そうか……」と応えた。
この方を悲しませるなど、胸が引き裂かれるような心持ちだけれど、それでも私は、帰らなくてはならない。
「帰り道は、滝の向こう側じゃ。ゆるりと歩いてもすぐ着くじゃろう」
「有難う御座います……、左様なら」
遠くに見える滝を指差し、女性は私の背中をそっと押す。
そうして数歩、歩き出したところで、背後から縋るような声が届いた。
「ああそうじゃ、帰る前に一つだけ。そなたの名前を教えてくりゃれ」
反射的に開いた口を、どうにかこうにか閉じる。
かさかさに乾いた唇が割れ、ほのかな痛みを訴えた。
手にしたステッキを握りしめ、聞こえなかったふりをして歩みを続ける。
女性は名を聞くことを呆気なく諦めたのか、やがて滝に辿り着いた。
滝は、荘厳でありながら神秘的で、滝壺の底まで見通せそうなほど澄み切った水で、喉を潤したい衝動に駆られる。
木々を飛び交う小鳥たちが「水をお飲みよ、休んでおいきよ」と囁くのを受けて、水を掬おうと水際に腰を下ろす。
しかし、手にしたステッキを離してはいけない、と思い出し、清水を諦めて再び立ち上がった。
「水をお飲みよ、休んでおいきよ」と歌うように繰り返す小鳥たちの囁きに耳を塞いで、滝の裏側へと回る。
ひんやりとした薄闇の中、人一人がようやく通れるか、といった程度の大きさの洞穴がぽっかりと空いていた。
足元の小さな苔が「行かないで」と囁きかけてくる声を振り切って、私は洞穴へと身を滑らせた。
先程までの、楽園のような空間が嘘だったかのように、一気に肌寒くなる。
そのくせ、じめじめと纏わりつくような湿気に、不快感を増長させられながらも、ひたひたと暗闇の中を歩き続けると、どこかで聞いたような声が聞こえてきた。
「そっちじゃない。こっちだ」
「……おじいちゃん……?」
「お前がそっちに行くのは早すぎる。正しい道を教えてあげよう。戻っておいで」
ほとんど聞いたことがないのに、これ以上なく安心する声音は、遥か後方から響いてくる。
ちょうど、どこまで歩けばいいのか不安になってきたところだったので、アドバイスを聞きたいところではある。
けれど、振り返ってはいけない、と約束をしたことを思い出し、ぎゅ、とステッキを握りしめた。
手元どころか自分の胸すら見えない暗闇の中、何度も躓いたり、転んだりしながらも前へ進み続けること、どのくらい経っただろうか。
ようやく前方にほのかな明かりが見えてきたときには、心の底からほっとした。
唐突に、明かりの中から一太郎が、ふっと姿を現し、私の両手を取って上下に振るう。
「無事に帰ってこれたようで良かった……。ここまで来たら、もう振り返っても大丈夫だよ。マンジロウが見送ってくれてるんだ」
にこにこと笑う一太郎に促され、祖父に別れを告げようと、振り返ろうと身を捩る。
ふと足元に目がいって、違和感を覚えて動きを止めると、一太郎がきょとんと首を傾げた。
「……どうしたの?マンジロウに会えるのは、これで最後なんだよ?」
「……、いい。おじいちゃんはきっと、望んでいないから」
足元に影のない一太郎の手を振りほどき、押し退けるようにして前方の光へと走る。
疲れや痛みを訴える体に鞭を打ち、後方からの一太郎の叫びも祖父の嘆きもすべて無視して、息が切れるまで走り続け、光の中心へと身を投げた。
階段を踏み外したような、がくっとした感覚が全身を襲い、床に肩を強く打ち付ける。
痛みに耐えながら身を起こすと、見た覚えのある部屋の風景が目に飛び込んできた。
「……戻って、これた……?」
周囲を舞う埃に咳き込み、口を手で覆うと、握ったままだったステッキの先端が頬に突き刺さった。
よく見ると、ステッキの先端の一部が砕けている。
確か、ハート型のモチーフの中心に星型のモチーフがあったはずなのだけれど、星があっただろう場所がぐしゃぐしゃに潰れていた。
緊張からか、握りしめた形のままで固まった手をなんとか解き、ステッキを手放すと、床に置いた途端、ステッキの持ち手部分がぽきりと半分に割れてしまった。
知らず詰めていた息を吐き、再び、宙に舞ったままの埃に咳き込む。
一度、外に出て体調を整えようと、階下に降りると、玄関に置いたままだった鞄の中から、携帯の着信音が響いていた。
鞄をあさって携帯を手に取り、通話ボタンを押すと、慌てた声色の母が出た。
『やっと繋がった……!アンタいままでどこにいたの?いまどこに居るの!』
「えっ?どこもなにも……ずっとおじいちゃんの家にいたよ」
『何ふざけたこと言ってんの!昨日、父さんの家に私も行ったけど、誰もいなかったわよ!それより、とにかく一度帰って来なさい、パパも心配してるんだから……』
疲れを滲ませた声で、母は「パパに報告しなくちゃ」と電話を切った。
矢継ぎ早に告げられた事実に、私の脳の処理が間に合わない。
母は、「昨日、父さんの家に行った」と言っていた。
母にとっての父、すなわち祖父の家は、間違いなくここのことだけれど、昨日は母は普段通り仕事をこなしていたはずだ。
この家にくるような時間はなかったし、私が家の鍵を開けた時の、長い間放置された気配から、母が来ていないことは確かだろう。
それなのに、祖父を嫌っている母はこの家に「昨日」来たという。
どうにも時間軸がおかしい。
奇妙な気持ち悪さを味わいながら、切られた携帯の画面をなんとはなしに見て、私は目を疑った。
日付が、丸一日進んでいる。
どっと冷や汗が出て、背筋に冷たいものが走った。
それと同時に、いままでどうして感じなかったか不思議なほどの、激しい空腹感と喉の渇きに襲われる。
ついさっきまで、なんとも思っていなかった室内が、やけに恐ろしいものに感じられて、私は急いですべての窓を閉めて回り、家から飛び出した。
早鐘を打つ心臓を抑え、震える手で鍵を回す。
ガチャ、ガチャと音を立てながらも、中々かからない鍵に舌打ちを洩らすと、そのタイミングを見計らったかのようなタイミングで携帯が鳴り、私は飛び上がるほど驚いた。
何度も落としそうになりながら携帯を手に取り、着信相手を確認するも、何も表示されていない。
疑問に思いつつ、中々鳴りやまない呼び出し音に辟易し、渋々通話に応じる。
「もしもし?」
『……、……』
小さい頃からの癖で、私は電話相手に名前を名乗らない。
相手が私の知り合いならば、名乗らなくても問題はないし、知らない人間からかかってきた電話なら、多少の無礼は仕方がないと思っている。
いつまで待っても無言のままの相手に、間違い電話かと判断し、「ご用がないようなので、切らせていただきますね」と言い捨てて、耳から携帯を離し、終話ボタンに指を掛ける。
一瞬、携帯から微かに、どこかで聞いた覚えのある声が漏れてきた気がしたものの、プツ、と切れてしまったので確認のしようがない。
気を取り直して鍵を回すと、先程までの苦労が嘘だったかのようにあったりと鍵がかかった。
安堵してその場を去り、全身の埃を払いながら移動して、視界に入ったチェーン店に入る。
コップの水を一気に飲み干し、手早く腹ごしらえをしてから自宅に帰ると、先に帰宅していた両親から、怒られるやら心配されるやらで大変だった。
怒涛の質問攻めを適当にあしらい、自室のベッドに身を投げる。
大の字に寝転がりながら、祖父のことを想う。
(一太郎は確か、祖父も『気に入られて』『連れて行かれた』と言っていた……。私が見た光景のすべてがすべて、現実だったとは思えないけど、もし、私も『向こう側』に留まっていたら、私は……)
そういえば、祖父が死亡した当時、祖父の入居していた施設のスタッフは、しきりに私たち家族に謝罪と説明を繰り返していた。
死亡する前日どころか、たった一時間前に図ったバイタルサインは正常そのもので、心臓に持病もなかった祖父が、突然死することを想定することができなかった、と、管理体制の不備を指摘されても仕方ない、とそんなことを言っていた気がする。
施設スタッフには幸いなことに、というべきか、母は祖父に好感情を抱いておらず、施設側の対応が悪かったとは欠片も思わなかったものの、場合によっては裁判を起こされることもあるのかもしれない。
何の変哲もない天井を見るともなしに見ながら、私は徐々に睡魔に身を委ねていく。
(……窓を閉めに二階に上がった時、床にステッキはなかった……。押し入れの中に転がったのか、それとも……)
うとうとと微睡みながら、私はゆっくり目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、あの理想郷のような風景と、想像するだけでも惹きこまれていきそうな、蠱惑的ともいえるほどの魅力を持った女性の立ち姿。
女性の傍に控える二人の少年は、私の祖父と、祖父の兄は、これからずっと、あの場所に居続けるのだろうか。
それはとても素敵で、これ以上なく幸せなことのように思えた。
羨ましい、けれど、どこか恐ろしくもあった。
(まぁ……もう一度行こうと願っても、きっと無理なんだろうけど……)
「逃げて」―――聞こえていなかったはずの声が聞こえた気がしたけれど、私はそれを忘れるように、夢の世界へと旅立った。
惑わし 一白 @ninomae99
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