やがて知恵の木は実を結ぶ

一白

佐々川は、自宅から二時間弱かけて通学している大学生だ。

家からバス停まで徒歩で十分、駅までのバスで三十分、電車での移動が五十分、駅から大学までが徒歩十分、合計でおよそ百分だ。

乗り換えのタイミングや、遅延によって多少の前後があるが、所詮は学生であり、然程焦った記憶はない。


通学にかかる時間を勉強に回せるように、大学近くへ下宿することも考えたが、家賃や光熱費などの必要経費と交通費とを、それぞれ天秤にかけた結果、実家から通う方が経済的であると判断をした。

履修申し込みをした講義はいまのところ、何とか出席だけはしているのだが、大学進学後、まだ三ヶ月ほどしか経過していない七月上旬だというのに、すでに通学に辛さを覚え始めており、「どこまで続けられるだろうか」と心配になってきている。


佐々川が法学入門を受けようと思ったのは、伯母の勧めからだった。

佐々川自身は建築学部のため、建築工学などの専門講義を中心にカリキュラムを組むつもりだったが、不動産業を営む伯母が、「法律の知識はあった方が良い」と繰り返し言うので、叔母の顔を立てる意味で受講を申し込んだ。

佐々川が抱いていた法学へのイメージ通り、教材はやたら分厚く、眠くなる内容で辟易したが、建築系の講義でも建築基準法や都市計画法など、多くの法律が関わるということを途中で知り、法学の基礎を固めるべきだ、という勧めはそれとなく理解できた。


が、いかんせん、眠いものは眠い。

いまも、電車に揺られながら教材を開いてはいるのだが、読み始める前から欠伸をしてしまい、前途は多難だ。

佐々川にとって、法学の教材は睡眠導入剤と化してしまっている。


船を漕いでは意識を取り戻し、字面を追っては夢の世界へ片足を突っ込みながらも、佐々川はページをめくる。

なめくじが進むよりも遅い進み具合だが、一歩も動かないよりは、一歩でも動いている方が、ゴールへの距離は縮まるはずだ。


佐々川が遅々とした歩みでも気後れすることなく学習を継続しているのは、当の法学の講義を受け持つ助教授がガイダンスで言った台詞の影響である。

「一日に一パーセントでも成長することができれば、一年後には一パーセントが積み重なって、何十倍もの成長になっているんだよ」―――確かにそうかもしれない、と思ったのだ。


講義自体は、そもそもの興味があるわけではないので、眠くてつまらないことには変わりはない。

教材に書かれている単語や内容がいまひとつ頭に入っていかず、教材を投げ出したい気持ちにもなる。

だが、大学に入学したての頃に比べれば、毎日少しずつでも進めているためか、幾分、親しみがわいてきたようにも感じていた。


進学したばかりの頃、咲き誇っていた沿線の桜並木は、いまやすっかり青々と茂った葉桜に変わってしまっている。

車内アナウンスが佐々川の下車駅を告げたため、佐々川は重石のようにも思える教材を閉じ、鞄にしまった。

ずしりと存在感を示す法学の教材に挨拶をするかのように、ぽん、と鞄越しに教材を軽く叩いてから、佐々川は席を立った。

電車のドアが開き、夏の気配が車内へ舞い込んできた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

やがて知恵の木は実を結ぶ 一白 @ninomae99

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ