目覚め

 十畳ほどの畳の部屋に黒瀬さんが布団に寝かされている。昨夜は庭が雪によって白く染められていただろうが、今では溶けており、濡れた草木が日の光を反射しているだけであった。

 既に黒瀬さんの再擬態は完了しており、後は目覚めを待つだけだ。失った四割の虫たちは家で飼育しているワライカブリにより補った。父や母に何か言われるかと思ったが、ただ大変だったね、と慰められるだけだった。祖父が生きていたら殴られでもしたのかもしれない。

 彼女の寝顔を眺めながら昔のことを思い出す。

 彼女が家に来たのは10年ほど前だが、その前身にあたる人物がいる。

 トヨとよばれこの家の使用人として僕が生まれる前から働いていた女性だった。何かと皆を笑わせて、いつも家族の中心にいて、僕も彼女が好きだった。ワライカブリのことはよくわかっていなかったし、彼女が死んだと思った時は泣いた。そして同年代の少女に変身したのは意味が分からなすぎで腰を抜かした。トヨさんと黒瀬さんは同じワライカブリによって構成されていた。されていたというのは、擬態が切り替わった直後のことであり、数年ほどの周期で別の虫へと入れ替わっていった。


「何神妙な顔してんの?」


 俯いている頭上から黒瀬さんの声が聞こえた。見上げると彼女が上半身を起こしていた。


「もう大丈夫なの?」


 と、僕は咳ばらいをして尋ねる。


「まあね。と言うか心配かけてごめんね」

「こっちこそ変なタイミングで告白してごめん……」

「純くんが謝ることじゃないよ。まさかあそこで解いちゃうなんて、私もまだまだだね……」

「そんなに」


 告白されたのが嫌だったの? と聞こうとして、思わず咳きこむ。「うん」とはっきりと言われたら、どう言うつもりなのだろうか。


「そうじゃないよ」


 彼女は僕の予想に反してそう言ってきた。

 思わず顔を上げる。


「え?」

「本当にそうじゃないんだよ。なんというか擬態が解けるほど動揺したのは……」


 一旦黒瀬さんは多きく息を吸った。


「なんで純ちゃんが私のことを好きになれたかわからなかったからだよ」

「それは……」

「純ちゃんは子供のころからおじいさんのワライカブリの飼育の様子を見てきた。生体自体は完ぺきには把握していないけど、どういう動きをするか知っている。餌をやって、飼育箱を取り換えてフンの掃除をして、増えすぎた虫は処分して、交尾を観察して、卵をより分けて。何度も噛まれたりして怪我をしたり、思わず口の中に入って泣いたりもしたね。鳥に私の一部を喰われたりもした。純ちゃんは私が虫であることを他の人よりずっと知っている。

 それと、私たちの虫が数年周期で入れ替わることを、細胞や原子の入れ替わりと同じようなものと例える人がいるけど、やっぱ虫は虫で細胞は細胞で別のものだよ。数年前の私と今の私は全くの別。私は空っぽなんだよ。私が痛がっても脳みその部分が痛がっているわけではなくて、擬態として痛がってるだけ。私が悲しんでも、擬態として悲しんでるだけ。私がだれか好きになっても……」


 黒瀬さんが言葉を詰まらせる。よく見ると顔を赤くしていた。手を強く握りしめまた体が震えている。


「また擬態が……」

「大丈夫! 今度は大丈夫! それより話の続き! 今言ったことを純くんは誰よりもわかっている。なのになんで私のことを好きになれるの?」


 僕は彼女の言葉を頭の中で反芻する。そうだ、分かっている。

 僕は彼女のことをわかっている。

 70台のお婆さんがいきなり同年代の少女になった。彼女はこの家の専属道化だった。いつも楽しませてくれる彼女にぼくは恋心を抱くようになった。でもことはそんな単純な問題ではないのだという。


「もしかして私が空っぽだから好きになったの? 私を殴っても実際に痛がっているわけでもない、だから無限に痛がらせることが出来る。そんな理由?」

「違う。僕がそんな人間に見える?」

「見えない……わかってるよ……ごめん」


 ワライカブリとの恋愛について今言ったようなことを思う人は多くいた。人でないから都合がいいので好きになったと。実際そういう人もいるのかもしれない。

 でも僕は違う、と言うのは言うのは簡単かもしれない。しかし事実であろうと、心の奥底では彼女が自分にとって都合がいいという気持ちがあるののではないか?

 いや


「都合がいいんじゃないよ。黒瀬さんがいてくれて嬉しいんだよ」

「……どういうこと?」

「そのままの意味だよ。君がこの世に存在してくれて嬉しい。笑顔でいてくれて嬉しい。僕を笑わせてくれて嬉しい。欲を言うと一生一緒にいてくれると嬉しい」


 黒瀬さんが顔を覆った。


「よくそんな臭いセリフ言えるね。こっちが恥ずかしくなるよ……私なんかより純くんのほうがよっぽど道化の才能ある」

「……そうかもね、さっき黒瀬さんが言った誰よりも虫だってことだけど。僕はやっぱり細胞と虫の関係の例えは正しいと思うよ。だから細胞に恋愛感情を持てなくても人に恋をしてもいいのと同じように黒瀬さんに恋をしてもいいでしょ」

「いーや、全然違う! 全く違う。あれとこれとは別!」

「いや、違わない、同じ」

「違う!」

「違わない!」

「違う!」

「違わない!」

「違わないことない!」

「違わないことないことない!」

「違わないことないことないことない!」

「違わないことないことないことない!」

「違わないことないことないことないことない!」

「ほらやっぱり違わないんじゃないか」


 僕は言った。


「は? え? 今どこまで言ったの? 誰がどっちを言ってたの?」と黒瀬さん。

「往生際が悪いよ。今君は『違わないことないことないことないない!』って言った。つまり違わないってことで、僕が君のことを好きなのを証明できたってことだ!」

「卑怯者! 卑怯すぎるでしょう!」

「ふはは、頭脳戦だよ」


 黒瀬さんは口を膨らませて怒った後笑い出した。つられて僕も笑い出す。

 散々大きく笑った後、彼女は目元を拭きながらこちらに向き直った。


「わかったわかった。純くんが私のことを大好きなのは分かったから」

「うん」


 だけど彼女が僕をどう思うかは別だ。このままこっぴどく振られるかもしれない。原付の上での反応を見るとその可能性のほうが高そうだ。

 でもそれでもいい。こうして気持ちだけは伝えたかったから。


「えっと、私も純くんのことが好きです」

「え?」

「だから、私も純君のことが好きです」


 彼女の言ってることの意味が分からなかった。言葉を咀嚼し、脳に落ち着ける。

 そこでようやく意味を理解する。

 僕はそわそわと視線をそらした。心臓の鼓動が速くなり汗をかく。


「え、いやなんで?」

「なんでって言われても、好きだから好きなの」


 彼女の顔はからかっている様子ではない。


「いや僕は何故黒瀬さんが好きなのかを丁寧に説明したんだし、黒瀬さんだって説明してもいいんじゃないかな?」

「いやワライカブリが擬態している人間を好きになる理由は説明したけど、私自身が好きな理由をあんまり説明してないじゃん」

「あれ……そうだっけ……」

「まあ話してもいいんだけど……私ね。道化としての役割があると思ってたの」

「役割?」

「そう私の役割は『幼馴染のことを好きなんだけど、その男の子は別の子が好きで、夏休みの最後あたりにフられるっていう道化』」

「それは道化じゃない。笑えない」

「そうかもね……まあ結局違ったみたいだね。だから動揺して擬態が溶けたの。でも役割があるのは本当だと思う。結局のところ私が純君のことが好きなのは、役割みたいなものなの。それでも純君は私を好きになってくれるの?」


 僕は目を瞑る。

 大きく息を吸い込んだ。


「あのさ」


 言葉とともに息を吐き出す。


「もうやめにしない?」

「えっ!? 付き合う前から怠慢気!?」

「いやそうじゃなくてさ。そんな質問いくらされても、僕は君が好きだという気持ちは変わらないし、ちゃんと納得できるだろう回答もできる。ただ結局のところこういうやり取りは文字通り無限にできる。これはある意味バカップルが『私のことどれくらい好き?』ってやり取りをずっとやっているようなものだよ」

「うそー、いや、そうなのかな」パタパタと自分の顔を仰いだ。「そう考えると、恥ずかしくなってきた……」

「僕はずっと恥ずかしいよ。好きな人に好きだというのは緊張するんだよ。それがずっと続いているんだ」

「そっかー、そうだよねー」

「こういうのは、その」


 僕は少し言いよどんだ。


「付き合ってからやるものじゃない……?」

「……そうだね」


 僕たちはお互いに立ち上がり、少し距離を取ってみる。

 黒瀬さんは僕に顔を合わせようとしなかった。僕もしっかりと見つめるのには勇気がいた。それでも自身を奮い立たせて、しっかりと目の前の彼女を見る。

 びっくりするほどありきたりで単純な、それでも答えがわかっているからと言って消化試合のようならないように芯を込めて告白をする。

 彼女は俯きながらも、いたずらっぽい顔をする。そのまま後ろを振り向いて出ていこうとした。これは駆け引きと言う奴だろうか。茶番じみたものを感じていいのかと戸惑いつつも、それ以前にただ去っていく彼女の近くにいたいという気持ちがいっぱいだった。だから僕は走り寄り、腕をとる。

 すると黒瀬さんは大きく振り向き、僕の顔に唇を近づけた。

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