左遷刑事の事件簿

緋糸 椎

泉信弘

 大阪府門真市にある運転免許試験場……。


 学科試験が始まって五分ほどしか経っていないのに絶えず時計を気にして見ている受験生がいた。高校生だろうか、まだ未成年と思われる若い男だ。

 試験官の泉信弘はその挙動不審な若者に近づいていった。

「君、試験中で悪いけど、ちょっと一緒に来てもらえるかな?」

 するとその若者は青ざめた表情で信弘について行った。若者が左腕に装着していた腕時計はスマートウォッチ、すなわち通信機能付の小型端末だ。

「メッセージアプリを開きなさい」

 信弘が命令口調で言うと、若者は渋々従った。すると、学科問題の番号と解答の番号がメッセージで送られた履歴が残っていた。

「相手はまだ中におるんやろ。すぐに外に出て来るようメッセージ送れ。言うとくけど、下手なことすれば罪重くなるからな」

 若者が信弘の言う通りにすると、まもなく金髪に染めた若者が出てきた。しかし、信弘の顔を見ると一目散に逃げ出した。

「こら、待たんかい!」

 そして信弘が追うまでもなく、待機していた警官が即座に金髪男を取り抑えた。


      †


「よぉ、またお手柄やったらしいな」

 信弘が食堂でカレーを頬張っていると、同僚の財前真治がやはりカレーの皿を手にして隣に座りながらそう言った。

「原付の試験はああいう手合いが多いな。ろくに勉強もして来んと楽に免許取ろうっちゅう奴がな」

「それにしても、泉が来てからカンニングの検挙率が飛躍的に上がったって専らの評判や。流石は元機捜刑事やな。でも、自分が手がけた冤罪事件ひっくり返してここまで飛ばされて来たんやて? あと少し黙っとったら花道で定年を迎えたのにな」

「最初は俺もそう思うとった。そやけど、逮捕されて自殺した容疑者が化けて夢に出てきよるんや。それが辛うてなあ。それに比べたら、今の環境の何と気楽なことか」

「……わかるわ、その夢に出て来るっちゅうの。あれはたまらんな」

「何や、財前もそんなんあるんか?」

「そら警察恨まれてナンボやからな。特に強烈やったんは十五年前に交番勤務しとった時や。ストーカー被害を訴えてきた女性がおったんやけど、結局そのストーカーに殺されてもうてな。それから毎晩その子、夢に出て来よったわ。『何でちゃんと捜査してくれへんかったんや』ってな」

「十五年前言うたら、警察のストーカー対策はまだまだ甘かったからな。もう少し後やったら違ごうてたやろうに」


 そうしてカレーを食べ終わった二人は、喫煙所に行って電子タバコを吸うことにした。喫煙所に入ろうとした時、一人の初老の男が入れ違いで出て来た。財前はその後ろ姿を指差して言った。

「あのオッさん、また来とるわ」

「ん? 誰や、知ってんのか?」

「ワシは直接当たったことないんやけどな。何回も実技試験受けに来てるらしいわ」

「あの歳でか? そんな何回も落ちる腕やったら、教習所行った方が早いのにな」

「それが、結構運転うまいらしいんや。もともと免許持ってたんやが、長い間運転せんくなって更新放ったらかしてたら失効になって、あの歳になって取り直したいと思ったらしいわ。仮免の時はパーフェクトやったのに、本免では何か必ずポカしよるってみんな言うとるわ」

「ほお、けったいな話やな」


      †


 それから数日後。

 路上試験中の車が国道一六三号線で大型トラックと衝突事故を起こし、大破したとの知らせが信弘の耳に届いた。試験官は財前真治であった。信弘は上司の咎めるのも聞かず、業務を放り出して現場に駆けつけた。


「こりゃ、ひどいな」

 大破した試験車両と前面の潰れたトラックを見て信弘が漏らした。現場を捜索していた捜査員が言った。

「トラックの運転手は重体で病院に運ばれていますが、試験車両の二人は即死でした。目撃情報によれば事故車両は中央分離帯の切れ目からいきなり反対車線に入り、走行中のトラック目掛けて突進して行ったと言うことです。試験用の車両には助手席側にもブレーキがついているが、咄嗟のことで試験官も対応しきれなかったのでしょう」


 この事故で死亡したのは試験官の財前真治と、鈴木淳一と言う五十八歳の男性だった。それは信弘が財前と喫煙所に入る時、すれ違ったあの男性だった。走行中に反対車線に入るなど、余程のことがない限り犯さないミスだが、鈴木の試験を担当したことのある試験官たちは、「運転が上手いがミスが致命的」と声を揃えて言い、今回もそのようなミスが引き起こしたのだろう、と言うのが試験場関係の一致した意見だった。

 だが、信弘がかつての人脈の伝手で聞いた話では、事故の調査に当たっている捜査員の間では自殺説も有力な仮説として上がっているという。しかし、自殺なら何故関係のない試験官まで巻き込む必要があるのだろう。そう疑問に思った信弘は捜査関係者の一人、亀岡巡査部長から話を聞くことにした。

「小耳に挟んだ話では、鈴木は自殺したという意見が少なくないって聞いたんやけど」

「ええ。いくらめちゃくちゃな運転だったとしても、過失による事故なら試験官は防げると思います。でも故意に起こしたものであれば防ぎようがないこともあり得ます」

「そやけど、何でわざわざ試験中に自殺せなあかんのや。自殺やったら人目の付かんところでやったらよろしいのに」

「おそらく、初めから自殺するつもりではなかったのだと思います。遺書も見当たりませんし。調べたところによると、鈴木は十五年前に娘を亡くしてから鬱病を患い、発作的に自殺未遂したこともこれまであったようです。ですから、今回もそれで発作的に自殺したのではないかと……」

「なるほど。しかし関係ない財前まで道連れにすることはなかったのにな。別に何も恨みがあるわけでもないやろうに」

 信弘は成り行きの不条理さに憤りを感じながら、ふと自分の放った言葉が気になった。

(〝関係ない〟〝恨みがあるわけやない〟……どうしてそう言い切れる?)

 久々に刑事の勘がムクムクと湧き上がり、信弘は亀岡に言付けた。

「亀岡君、鈴木の娘が亡くなった時の状況、調べられへんかな」

「うーん、どれくらい調べられるかわかりませんが、やってみます」


      †


 それからまた数日後。

 亀岡巡査部長から信弘に電話があった。亀岡は電話口で興奮気味に話していた。

「もしもし、鈴木淳一の娘、鈴木智花さんが亡くなった時のことを調べていたんですが、興味深い事実が判明しました!」

「ほう、何が分かったんや?」

「当時十八歳だった鈴木智花さんはストーカーにつけ狙われていて、枚方市にある星ヶ丘交番に届けていたそうです。それで交番勤務の警官も地域のパトロールを強化したのですが、智花さんは結局ストーカーに殺されてしまったのです。そして、その時星ヶ丘交番に駐在していた警官というのが……」

「今回の事故の被害者、財前真治やな」

「えっ、どうしてそれを?」

「最近、財前からストーカー対策を怠ったせいで女の子一人死なせてもうたと聞いてな。それが十五年前や言うとった。そして鈴木智花さんが亡くなったんも十五年前。共通点言うたらこのことだけやったけど、財前が関わってることが偶然とは思えへんかった、ただそれだけや」

「どうします? このことを報告しますか?」

「……いや、俺はこの事件の担当やない。どうするかは亀岡君に任せるわ」


 受話器を置いた信弘は物思いに耽った。これは娘を奪われた鈴木淳一の身を呈した復讐劇だ。もしかしたら財前はどこかでそれに気がついて鈴木淳一のさせるがままにしたのかもしれない。鈴木という姓は何処にでもあり、直ちに淳一と智花の関係に思いが及ぶことはなかったろうが、薄々何かを感じていたかもしれない。それで助手席側のブレーキを敢えて踏まなかった……。


 これはあくまで信弘の想像に過ぎなかったが、もしそうだとしたら気持ちが分からないでもない。いつまでも枕元に亡霊が出てくるのはたまらない。そこから自由になれると思えば、つい相手の復讐に身を委ねてしまうのではなかろうか。

 そして、左遷こそされたものの自分は事件を正しく解決出来て本当に良かった、と信弘は試験コースを眺めながらつくづく思った。

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