来歴5 北嶋舞香

 遠い親戚・エイミおばさんから預かったハガキの住所をたよりに、私は蔵野氏の家を目指していきました。デュッセルドルフの郊外と聞いていたので町中を想像していましたが、行ってみると、交通の便の良くないド田舎でした。牛やらニワトリやらの鳴き声が聞こえる中、目的の住所に行ってみると「Piano Kurano」と書かれた質素な看板が目に入りました。農家を改築したというその家は案外大きく、一階は工房になっていて、修理中のピアノが並んでいました。そこには誰もおらず、庭の方を見るとハンモックを吊るして寝ているおじさんがいました。父・蔵野江仁でした。

「あの……すみません」

 呼んでも返事をしないので、何度も話しかけ、しまいには大声で叫びました。

「ごめんくださいっ!」

 するとムクムクと彼は起き上がりました。

「何だね、騒々しい。日本人のようだが、アポのない客はお断りだ。出直してきたまえ」

「違います。私は北嶋安恵の娘、舞香です」

「彼女の娘? 母親の葬式に私が出なかったことで文句でも言いにきたかのか? 行ったところで灰でも投げつけられるのがオチだ」

「いいえ、わざわざそんなことを言いに来ませんよ」

「では何の用だね。私も忙しいのだよ」

 と言う彼はハンモックに揺れながらいかにも暇そうでした。

「私、今日からここに住みます。よろしくお願いします」

 すると、さすがに驚いた様子でハンモックから飛び降りてきました。

「ちょっと待て、何を急に言い出すかと思えば……」

「母親がいない今、父親のところで暮らすのが筋でしょう。一応私のこと認知してくれてますよね。なんなら親子鑑定しますか?」

「待て待て、そう畳み掛けるな。一度にたくさんのことを言われても対処できん。取り敢えず部屋で一旦落ち着きたまえ。話はそのあとだ」

 そうして私は上階の小部屋に案内されました。まるで私が来ることを想定していたかのように、部屋は整然としてベッドメイキングまでされていました。どういうことだろうと疑問に思う前に、時差ボケで急に睡魔に襲われた私は、そのままベッドに倒れ込んで深い眠りに陥りました。


 翌朝、起きてみるとちゃんと朝食が用意されていました。しかし、並んでいたのはパンや乳製品やハムばかり。

「お野菜が全然ありませんね……」

「野菜? ちゃんと摂っているぞ。日本から取り寄せているんだ」

 そう言って蔵野氏が取り出してきたのは、青汁の袋でした。その緑色の粉末を牛乳に混ぜてゴクゴクと飲んでみせたのです。

「それはサプリですよ。ちゃんとお野菜食べないと体壊しますよ」

「……小うるさい嫁みたいなことを言うな」

「ええ、言いますよ。大事な父親の健康ですからね。……でも、どうして結婚しなかったんですか? ……母と」

「大人には大人の事情というものがある」

「私だって中学生、もう子供じゃありません。知る権利くらいありますよ」

「まだ子供じゃないか。君の年代はそうやって大人ぶるものだが、急いで大人になってもいいことはない。ちなみに、私がドイツへ来ることは彼女自身が勧めたんだぞ」

「あーあ、何が大人の事情ですか。言葉と本心が裏腹な女心がわかってないのは蔵野さんじゃないですか」

「何を生意気言ってやがる」

 といって蔵野氏は私の頭を小突きます。

「あ、そういうの今はDVですよ」

「ふん、DVDかCDか知らんが日本も面倒くさくなったな。面倒くさいついでに、敬語も使わなくていいぞ」

「お気づかなく。便宜上親子関係結んでますけど、心では他人と思っていますから」

「全く可愛げのないやつだ。勝手にしろ」

 そんな風に互いに憎まれ口を叩き合いながら、少しずつ打ち解けていきました。


 それから数日後、私はデュッセルドルフの日本人学校に通うことになりました。日本の学校もそうですが、そこにもいわゆるスクールカーストがありました。その序列は主に日系企業の駐在員の子たちで構築されていました。すなわち親の会社の規模と役職によって決定づけられていました。駐在ジュニア以外は様々なグループを作っていました。永住者の子、日本語よりドイツ語が得意な子など……。

 私はなぜか日本語よりドイツ語が得意な子たちと仲良くしていました。おかげでドイツ語を早く覚えられました。中でも仲が良かったのは後に国際的ピアニストになったレナ・シュルツェでした。ちょっと変わった子だったけど、ピアノをやっていることで話が合い、互いの家を行き来したりしていました。レナもシュルツェ家のみなさんも、私のピアノをとてもほめてくれました。蔵野氏もレナのピアノを聴いて、「この子は今に大物ピアニストになるだろう」と予言しました。ところが、蔵野氏は私のピアノにはとても否定的でした。

「おまえのピアノはアカデミックに評価されることはない。すなわちそれで稼ぐことは出来ない。そもそもピアノなんぞ、どんなに才能があっても稼げるのは一握りだ。間違ってもピアノで食べていこうなんて思ってはいけない」

 普段軽口ばかり叩く蔵野氏でしたが、ピアノについて話す時は特に厳しい口調になりました。それで私は蔵野氏のいない時だけガンガンピアノを弾き、いるときはポロポロと鍵盤を撫でる程度でした。当然先生につけてもらえなかったので、こっそりレナに見てもらっていました。彼女親身になって教えてくれました。おかげで技術的にはその時期にかなり向上しました。

 そうして日本語学校中等部を卒業し、インターナショナルスクール高等部に入ってもレナとは一緒で、私は蔵野氏に隠れて自分の才能に磨きをかけていました。ところがまもなく18歳になろうという頃、ピアノを熱心に弾いているところを蔵野氏に見つかってしまいました。彼は私を座らせ、いつになく重々しい口調で語りました。

「前にも言った筈だ、おまえはピアニストとしてはやっていけない。人生を無駄にしたくなければこれ以上ピアノにのめり込むな」

「ご忠告ありがとうございます。でも、私はこれからもピアノを続けたいです。それが神の与えた使命だと思っています」

「そこまで言うのか。ならば、おまえは私とは金輪際なんの関係もない。すぐに出ていきなさい」

「わかりました。長い間お世話になりました」

 そうして私は蔵野氏のもとを離れ、ドイツで成人とされる18歳の誕生日までシュルツェ家に身を寄せました。それから18歳になるとインターナショナルスクールを中退し、帰国しました。帰国後は色々なアルバイトをしながら、やがて歌舞伎町でピアノを弾くようになりました。

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