来歴4 北嶋舞香

 小さい頃から、耳がいいと言われていました。誰も聞き取れないような物音も聞こえましたし、まだ言葉もよく話せない頃に、ラジオから聞こえる歌を真似て歌っては、周りの大人たちを驚かせていたそうです。母がピアニストでしたので、家では絶えずピアノが鳴っていました。でも小さい頃の私はピアノの音を怖がっていました。飛行機の音や雷の音も怖かったけど、ピアノの音はそれよりもずっと怖かったです。

 4歳になると、母からピアノを習い始めました。それからはピアノへの恐怖はいくぶんおさまりました。自分で弾いているとビアノの音も怖くなかったからです。


 そんな私が初めてピアノに魅力を感じたのは、6歳のクリスマスの時でした。遠い親戚だというエイミおばさんから、教会に誘われたのです。エイミおばさんは不思議な女性でした。ふくよかな体型、ドレッドヘアにカラフルなレゲエファッション……突然現れたかと思えば、いつの間にかいなくなっている。母も彼女のことはあまり話さず、とにかく謎の多い人でした。

 教会へ行ってみると、エイミおばさんはピアノを弾いていました。私たちはそれに合わせて、「もろびとこぞりて」などの賛美歌を歌いました。それから牧師さんの説教が始まったのですが、ノリノリで自由奔放、お話の途中で突発的に歌うことさえありました。デタラメな調でしたが、エイミおばさんはちゃんと合わせて伴奏をつけてしまうのでした。しかも抑揚に合わせてアレンジされています。極めつけは、礼拝の終わりにエイミおばさんが弾いた即興演奏でした。明るく自由で、神々しくて、まるでピアノの上に天使の合唱団がいて、大合唱しているように思えました。

 興奮の冷めやらぬ私は、家に帰ってからエイミおばさんの即興演奏を真似して弾いてみました。家のピアノは防音室にあったので、夜中でも弾けたのです。曲がりなりにもそれらしいものが弾けて私は嬉しかったのですが、いきなり青ざめた顔をした母が部屋に入ってきたのです。

「マイちゃん……その曲どうしたの?」

「さっきのエイミおばさんのピアノ、真似してみたんだけど、変だった?」

「ううん。……もう遅いから、明日にしなさい」

 母は困った顔をしていましたが、それがなぜかわかりませんでした。


 それからというもの、私は聞いたメロディーをアレンジして弾いたり、即興演奏をするのが大好きになりました。人前で披露すると、「この子は天才だ」「神童だ」などとほめてくれました。ところが、母だけは良く思っていなかったようで、「遊び弾きばかりしていないで、ちゃんと練習しなさい」と釘を刺すように言うのでした。だから、家に母のいる時はおとなしく普通の練習をしていましたが、学校や近所の楽器さん、教会で思う存分即興演奏していました。私が行くと、楽器屋さんでも教会でもピアノを弾かせてもらえたのです。

 ある日、教会でピアノを弾いていると、エイミおばさんがやって来てほめてくれました。

「素晴らしい……あなたには特別な才能があるわ」

「でも、お母さんはこういうの好きじゃないみたい」

 するとエイミおばさんはニッコリと微笑みました。

「私ね、子供の頃、あなたのお母さんの真似ばかりしていたの。そうしたら彼女のように即興演奏が出来るようになった」

「じゃあ、お母さんも即興演奏を……?」

「すごかったわよ。みんな言ってたわ、安恵ちゃんは天才だって。でも、本格的にピアニストを目指すようになってからは、そういうことをしなくなった」

「どうして?」

「音大を目指す人は、中学高校くらいから志望校直系の先生につくことが多い。でも往々にしてそういった先生は〝異才〟には否定的なの。少なくとも当時の日本ではそうだったわ」

 私はガッカリしました。子供心に世の中の理不尽さを感じたのです。そんな私にエイミおばさんはこんな話をしてくれました。

「聖書にね、こういうお話があるの。ある人がしもべに1タラントのお金を預けたら、そのしもべは失くすのが怖くて土の中に埋めたの。そんなしもべの怠惰さを主人はとても怒ったというお話。天から授かった才能タレントを無駄にしてはいけないというたとえね」

「私はどうしたらいい?」

「……あなたがそれを見つけてくれること、それを私は願っているわ。きっとお母さんもね」


 父親は、私が生まれる前に亡くなった。……ずっとそのように聞かされていました。でも、どんな人だったのか誰も教えてくれませんでした。おじいちゃん、おばあちゃんにそのことを訊くと、途端に顔を曇らせて「よくわからん」とお茶を濁すのです。子供心に、彼らが父親を良く思っていないことはわかりました。

 父親が生きていると知ったのは、母が乳ガンを患い、余命宣告を受けた後でした。母は病床で私にささやきました。

「マイちゃんは私にないものを持っている……きっとの血ね」

って、死んだお父さんのこと?」

 母はかぶりを振りました。

「あなたのお父さんは生きているわ。世界のどこかでね」

 私は母が父について黙っていたことを責める代わりに「お父さんて、どんな人?」と尋ねました。

「人間嫌いを装ってるけど人好きでね、人を突き放すんだけどちゃんと育てるの」

 それきり父親について母から聞くことはありませんでした。


 母の葬儀には、ピアノ関係の偉い人たちや、生徒さんたちも参列していました。その生徒さんの中に、一人中年の男の人がいました。調律師をしている杵口直彦という人でした。お葬式が終わるとおじいちゃんは杵口さんを奥の部屋に連れ込みました。その様子が穏やかでなかったので、私はあとをつけて物陰から様子を伺っていました。するとおじいちゃんは杵口さんを殴りつけて怒鳴り散らしたのです。

「娘を孕ませて逃げたっていう調律師はおまえか! よくもノコノコと来れたものだな、娘はおまえに殺されたんだ!」

 私は唖然としました。あの杵口という人が私の父親? でもそうでないことは間もなくわかりました。戸籍謄本に蔵野江仁の認知届が記載されていたのです。この名前には見覚えがありました。母のビアノに差し込まれていた調律カードに記名されていたのです。それによれば、私が生まれる前の年までそのビアノを調律していたことになります。おじいちゃんの言葉を借りれば、その後に逃げ出した……。


 母の死後はおじいちゃんとおばあちゃんに引き取られました。でも、彼らとはどこか馬が合わず、ギクシャクしていました。そして師でもあった母親を失った私は、指針を失ってさまよっていました。それでエイミおばさんに会いに、教会へ行きました。

「エイミおばさん、私にピアノを教えて下さい」

 でも彼女は顔を横に振りました。

「私にはあなたに教えることはもうないわ。……きっとこの人ならあなたを成長させてくれる」

 そう言って彼女は一枚の絵葉書をくれました。その差出人欄には蔵野江仁の名前と、ドイツの住所が書かれていました。

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