来歴3 杵口直彦

「北嶋先生、どうか僕を弟子にして下さい!」

 杵口直彦の真剣な表情に安恵はたじろいだ。

「弟子だなんて……ピアノのレッスンならもちろんするけど……」

 安恵の教育実習最終日、杵口はこのように弟子入り志願し、安恵のピアノの生徒になった。懸命に練習したが、音大を目指せるレベルには到達しなかった。高校二年生になった彼は進路について安恵に相談した。

「……やはり音楽関係の仕事に就きたいんです」

「そうね……杵口君はとても耳がいいから、ピアノ調律師なんてどうかしら」

「調律師……僕にも出来るでしょうか?」

「杵口君くらい耳がよかったらバッチリよ。そうだ、ウチに来ている調律師がとても優秀な方なの。紹介してあげるから、色々きいてみたら?」


 そうして数日後、蔵野江仁が杵口の自宅を訪れた。家のピアノを調律するという名目だが、明らかに迷惑そうで恩着せがましい態度だった。

「君は調律師を目指しているということだが、どうして調律師になろうと思った?」

「そ、それは……北嶋先生から耳がいいと言われ、この仕事が向いているのではないかと……」

 すると蔵野は鼻で笑った。

「ふん、ハッキリ言おう。君はこの世界では生き残れん」

「……どうしてですか?」

 蔵野はそれに答えず、ピアノの中から除湿剤を取り出した。

「日本では多くの調律師がこういうものをピアノに入れる。なぜかわかるか?」

「それは、……日本の湿っぽい気候のためですか?」

? では。この程度の除湿剤で湿気に対処できると思うかね?」

「それは……わかりません」

「そうだろう。これは調律師にモノを売る練習をさせるための、いわば教材なのだ。楽器店は販売戦力として調律師を雇う。ところが、調律師を目指す者はえてして営業不向きな人間が多い。君なんかは典型的なタイプだな。そういう輩はやがて潰されてしまうのがオチだ。やめとけ」

 蔵野は杵口の手から調律代金を引ったくると、そそくさと退出した。その背中を睨みながら杵口は心に誓った。

「くそっ、立派な調律師になって見返してやるからな!」


|| ||| || |||


 高校を卒業した杵口は、浜松にある全寮制のピアノ技術学校に入学した。ほとんど軍隊式の厳しい教育だったが、杵口は歯を食いしばって耐え抜いた。その原動力となっていたのは、蔵野への反発心だ。おかげで入学時から成績トップを維持し、首席卒業を果たした。


 卒業後、楽器店に就職した杵口は、首席卒業という名誉に奢ることなく、地道に研鑽を積んだ。勤続三年経って少しずつ重要な仕事を任されるようになった頃、久々に安恵を訪ねた。

「あの杵口君が、こんなに立派な調律師になるとは思わなかったわ」

 憧れの人にそう言われて杵口の心はほっこりする。そして彼女のピアノを弾いてみた。ところが……

(な、なんだ、この適当な調律は!)

 聞けば、数カ月前に蔵野が調律したという。もちろんそれだけ経てば多少は狂う。だが今やプロとなった杵口にはわかる。これは最初から調律してあったのだ。

「先生、ちょっと音が狂ってきてますね。代金はサービスしますから、僕に調律させていただけませんか?」

「そうなの? それじゃ、お願いしようかしら」

 そして数日後、杵口は憧れの北嶋安恵のピアノを調律した。勢いあまって整調まで事細かに調整したので、作業は数時間にも渡った。終わった後、安恵が弾くのを杵口はドキドキしながら見守っていた。

「杵口君はよく頑張ったと思う。これからも頑張ってね、きっと良い調律師になれると思うわ」

 そう言われて杵口は喜んだ。やった、憧れの北嶋先生に褒めてもらった!

 ……と浮かれていたのも束の間、数日後に出勤すると不機嫌な顔をした上司から呼び出された。

「杵口、この請求書はどういうことだ、説明しろ!」

 見ると、「御社杵口氏によって狂わされたピアノの修正代金として 金5万円也」という名目で、請求者は蔵野江仁となっている。杵口は顔面蒼白となり、蔵野の勤め先に乗り込んだ。

「蔵野さん、この請求書はどういうことですかっ?」

 蔵野の同僚たちは一斉に杵口に注目する。蔵野はのっしのっしとゾウのように杵口に近づいた。

「先日君は北嶋安恵さんのピアノをメチャクチャにしてきただろう。彼女から直してくれと連絡が来たよ。私は忙しいのに時間を割いて君の尻拭いをしてやったんだ。ありがたく思いたまえ」

「嘘だっ! 北嶋先生は『きっと良い調律師になれる』と言って下さったんだ!」

 すると蔵野は肩をすくめた。

「人の話はよく聞くものだ。彼女は現時点の君を良い調律師だとは言っていない、頑張ればと言ったんだ。裏を返せば、頑張らないとヘボのままということだ」

「どうして……北嶋先生はあんたのような適当な調律師を選ぶんだ!」

「教えてやろう。〝適当〟だからだ」

「え?」

「私が初めて彼女の調律をした時、彼女はこう言った。グスタフ・レオンハルトの調律に感銘を受けたと。レオンハルトは決まった調律法を採用せず、その時の霊感インスピレーションで調律する。芸術性の高い奏者にとって霊感は大切だ。君は正しさにこだわるあまり、彼女の霊感を跳ね除けてしまったわけだ。しかも相手の都合など全く無視して常軌を逸した長時間作業。彼女はその後で予定があるとは考えもしなかったのか? ともかく、君の行動は彼女にとって迷惑以外の何物でもなかった。反省したなら、本当に〝良い調律師〟になれるまで、彼女の前に姿を現すな」

 蔵野の厳しい指摘に杵口は打ちひしがれた。だが、立ち直った杵口はへこたれず健気に〝良い調律師〟になろうと頑張った。そして、安恵に恥ずかしくない調律師になって彼女の前に出よう、そう心に誓ったのだった。


 だが長い年月の末、杵口は志を果たす前に安恵の訃報を知った。

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