来歴2 杵口直彦

 14歳の杵口直彦は、物静かで争いごとを好まず、良く言えば温厚な性格だった。だが、えてしてそういう者には、気の弱さにつけ込むような輩がつきまとうものだ。

 〝ちっちゃな頃から悪ガキ〟だった増田俊也ますだとしやもその一人だ。ある日のこと、増田はパンを買ってくるよう杵口に言いつけた。しかも毎回売り切れ必至の人気商品・マーブルデニッシュ。これまでも買うことが出来ず、罵倒されたことが度々あった。その日もあいにくパン売り場は混んでいて、しかも目当てのマーブルデニッシュが残り僅かとなっていた。

(どうか僕の順番まで残っていますように!)

 幸い自分の順番がやって来た時、一つだけ残っていた。ホッとしてマーブルデニッシュを手に取ると、背後から「あっ」という声が聞こえてきた。振り向くと、音楽科の教育実習生、北嶋安恵だった。その顔を見れば、彼女もマーブルデニッシュを狙っていたのは一目瞭然だった。

「ど、どうぞ!」

 杵口は咄嗟に安恵にマーブルデニッシュを差し出した。

「え、いいの?」

 狐につままれたようになっている安恵に背を向け、杵口はパッと駆け出した。安恵は愛嬌のある美貌で男子生徒たちから人気があり、杵口もまた密かに憧れていた。だから、後で増田に嫌味を言われるとしても、彼女のために何か役に立てるのならそれは喜びだった。

 案の定、増田は杵口をひどく罵倒した。

「授業早めに抜けて行かなきゃ買えないことくらい考えたらわかるだろ! あったま悪いっつーか、マジ使えねえやつ」

 杵口は安恵を思い浮かべながら、増田の罵倒を受け流した。


 翌日の昼休み、杵口はいつものように屋上で一人昼食を取っていた。普段は他に誰も来ないのだが、階段の方から足音が聞こえてきた。

「……北嶋先生ですか?」

 杵口は入口ドアの向こうにいた安恵に声をかけた。彼女は驚いた。

「ええっ、見ていないのにどうしてわかるの?」

「僕、足音で誰かわかるんです。他にも車のドアを締める音で車種が分かったりとか……まあ、それで何の役に立つかって話なんですけど」

「いや、凄いと思うよ。音楽の才能があるんじゃない?」

「この年齢で音楽を始めてもモノにならないことは、先生が一番良くご存知でしょう」

「そんなことないわ。ティーンエイジャーで始めてプロになった人だっているし。よしんばプロになれなくても、音楽関係の仕事も色々ある。音楽をやって悪いことはないわ。特に杵口君のように素質のある子はね」

「……」

「そうそう、これ。昨日のお返し。もしよかったら」

 手渡されたのはマーブルデニッシュ。袋を破るとヴァニラとチョコレートの匂いが鼻先をくすぐる。あれほど何度も買いに行かされたが、自分で食べるのははじめてだ。うまかった。杵口は甘ったるいパンを味わいながら、音楽か……と一人つぶやいた。

 

 週が明けて月曜日、杵口は日直当番だった。月曜日に日直をすると朝礼への出席を免除される。すなわち、教室で荷物番をするのだ。本来なら喜ぶべきところだが、もう一人の日直が増田だったのだ。ただでさえ苦手な増田と教室で二人きりで過ごさなければならない。ただただ地獄でしかない。

 杵口は息の詰まるような教室で、余計なトラブルに発展せぬよう、出来るだけ増田と関わり合いにならないようにした。だが、あからさまに遠ざけて「無視したな」などと因縁をつけられても鬱陶しい。それでそこそこのフレンドリーさはキープした。

(はあ、疲れるな。早く朝礼終わらないかな)

 そう思ってると増田が、「ちょっとトイレに行ってくる」と言って教室を飛び出した。杵口は一息ついた。もう朝礼が終わるまで戻って来なけりゃいいのに、と思ってると、朝礼終了のギリギリ手前の時間に戻って来た。ともあれ、何事もなく終わって杵口はホッとした。


 事件はその日の音楽の授業の直前に起こった。

「あれ……笛がない!」

 同じクラスの和田美鈴わだみすずが騒ぎ出した。音楽の授業には教科書と五線譜ノートの他にアルトリコーダーを持って音楽室に移動するが、そのリコーダーがないという。

「今朝、カバンに入っているのを確かめたんだけど……」

 美鈴は当惑して言う。騒ぎを聞きつけて北嶋安恵もやって来た。

「とにかく、みんな探しましょう」

 クラスメイトたちは美鈴のリコーダーを探したが、その中の一人が尋ねた。

「美鈴のリコーダーって、何か特徴ある?」

「ええと、ゆうまちゃん(群馬県のゆるキャラ、現在はぐんまちゃん)のキーホルダーがついてる……」

 杵口はそれを見たことがあった。噂では交際している三年生の男子とお揃いのものらしい。授業を返上して隈なく探したが見つからず、みなが徒労感を覚え始めた時、増田が突然立ち上がって声を上げた。

「杵口、そういえば俺がトイレ行ってる間、何してた?」

「……え?」

 杵口は狐につままれたようになった。他のクラスメイトたちは「どういうこと?」と増田に問いつめる。

「実は朝礼の時さ、オレ、トイレに行ってた空白の時間があったんだよね。その時杵口が一人教室に残ってて……」

 増田の説明は、遠回しに杵口を犯人に仕立て上げていた。クラス中の疑惑の目が杵口に向かい、「カバンの中身を見せろ」と騒ぎ出した……とその時、

「必要ありません」

 安恵がキッパリと言った。「私は杵口君がそういうことをしないと信じているわ」

 驚いたのは杵口自身だ。ところが増田が抗議して言う。

「先生、根拠もなく人を信用するのはどうかと思うぜ」

 安恵は増田を細目で見た。

「増田君は時々杵口君にマーブルデニッシュを買いに行かせてるわね。でも杵口君は後で君に虐められるとわかっても私に譲ってくれたことがあったのよ。そんな我が身を捨てても他人に親切に出来る人を、私は信じたい」

 使い走りのことを言われて増田は何も言えなくなった。結局美鈴は学校の備品を借りて音楽の授業に臨んだ。授業が終わった時、安恵は杵口をこっそりと呼び出した。

「ちょっと協力して欲しいの。君の力が必要なのよ」


 その日の放課後、杵口と増田は安恵に呼び出された。

「増田君、カバンの中を見せて」

「待ってよ、俺、疑われてるの? カバンに何もなかったら人権問題だぜ」

 増田が帰ろうとして立ち上がり、カバンを持ち上げた時、杵口が叫んだ。

「和田さんのリコーダー、まだこの中にあります!」

 杵口は普段見せない強引さで増田からカバンを奪った。そしてその中から、ゆうまちゃんキーホルダーのついたリコーダーを取り出した。顔面蒼白になった増田に安恵が説明した。

「このキーホルダー、三年生の男の子に貰ったそうよ。彼も同じのを持っていたので、預かって来たんだけど、チェーンの擦れる音を杵口君に覚えてもらったの。そして教室内の要所要所をさりげなく揺すって確かめてもらったのよ。同じチェーンの音が聞こえて来ないかってね。そうしたら、君のカバンからこのチェーンの音が聞こえたってわけ」

「そんなバカな!」

「増田君は彼のことをバカにしていたかもしれないけれど、彼は人並み外れた聴覚の持ち主よ」

 増田は観念した。

「俺、和田のことが好きだった。でも、彼氏がいてお揃いのキーホルダーを持ってると知ってムカついて……朝礼の時、杵口が外を見ている隙にこっそり盗んだんだ。でも……余計にむなしくなった」

「増田君、気持ちはわかるけど悪いことはダメ。反省しているなら、杵口と和田さんに謝りなさい」

 増田は安恵の目の前で杵口に詫びた。そして翌日、和田にも謝ってリコーダーを返したが、頬を思い切り引っ叩かれた。その事件以来、杵口は増田の使い走りをすることはなくなった。

 そして杵口は自分を信じてくれた安恵に感謝し、一生この人について行こうと決意した。

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