5-3 買い手
それから数日後、狩野が鉢植えに水やりをしていると、山根を乗せたセダンが再びやってきた。狩野はあからさまに嫌な顔を向ける。
「山根はん、ここは駐禁や。取締りもよお来まっせ」
「すぐ済みますんで、どうぞお気遣いなく……おや、カーネーションですか」
「花も咲いてないのによお分かるのう。せやったら花言葉も知っとるやろ」
「〝拒絶〟ですか。なんだか穏やかじゃないですね」
「穏やかやないんは誰のせいや。この前の件やったらお断りした筈やで、早よ帰らんと警察に通報しまっせ」
「まあそうおっしゃらずに。今日は御社を買い取りたいという人物を連れて参りました。話だけでも聞いてやっていただけませんか?」
「何勝手に話進めてんねん、相変わらず強引なやっちゃのお。いい加減慣れてきたわ、で、そちらさんが買い手希望者っちゅうわけですかい」
狩野は山根の一歩後について来た男を指した。
「はじめまして、リーダーズミュージック社長のマーシャル・リュウと申します。よろしくお願いします」
「アメリカ? あんさん、日系二世かなんかか?」
「香港系アメリカ人ですが、幼少の頃は父の仕事の関係で日本におりました」
「んー、まあ何でもええわ。ほんでウチを買収したいとはどういう風の吹き回しや」
「弊社もレコーディング事業に進出しようと考えておりまして、色々とリサーチしている内に御社の噂を耳にしました。そこで御社のリリースされている〝バイロイトの第九〟を拝聴いたしましたが、あまりに素晴らしくて目が覚める思いでした」
「ほお、バイロイトの第九を」
狩野が満更でもない顔をした。バイロイトの第九とは、1951年バイロイトでフルトヴェングラーが指揮をしたベートーヴェン第九の演奏である。歴史的名演として知られているが、ワーナーやEMIをはじめ、幾多のレーベルから復刻盤が出ている。カノクラシックス盤は状態のよい予備マスターからリマスタリングしたもので、狩野の自信作の一つであった。
「こんなに素晴らしい録音技術を新録に生かさないのは勿体無いと思いました。失礼ながら、御社と契約されているアーティストは町村樹を除いてはあまりパッとしない……」
「そらホンマに失礼やな」
「すみません。しかし率直に言って、カノクラシックスの新録が復刻盤ほど好評が得られないのはプロデューサーがいないからだと思います。狩野さんは確かに優秀な録音技師ですが、音楽を作れる人ではありません」
「ハッキリ言うやっちゃな。つまり諸葛孔明が必要やっちゅうことかい」
「そうです。でも狩野さん自身が探す必要はありません。私どもの方で既に話はつけてあります」
「誰やねん、あんたの言う孔明っちゅうのは」
「北嶋舞香という若い女性で、ピアニストとしての才能だけではなく、飛び抜けた音楽センスの持ち主です。歌舞伎町でピアノ弾きをしていたところをスカウトしました。それこそ〝三顧の礼〟でしたよ」
マーシャルは軽く笑うが、狩野はつられずに顔をしかめる。
「信用ならんな。あんたがどれほど買ってるか知らんけど、ワシの耳は甘うないで。音がわからんようでは話にならんからな。どうしても言うんやったら、その北嶋舞香っちゅう子、連れてきてみ。ホンマに音がわかるかテストしたるわ」
そう言って狩野は、山根とマーシャルを立ち話のまま追い返した。
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マーシャルの言う〝三顧の礼〟とは、このような経緯であった。
いつものように舞香が歌舞伎町・シエスタでピアノを弾いていると、見覚えのある男がやって来た。先日リーダーズミュージック東京本店で会ったマーシャル・リュウだった。舞香は演奏が一段落すると、マーシャルのところへ挨拶に出向いた。
「以前、リーダーズミュージックのお店でお会いしたのですが、覚えておいででしょうか? 堂島エージェンシーの矢木さんと一緒だったんですけど……」
「ええ、もちろん知っていますよ。北嶋舞香さん……」
舞香は驚くと共に、警戒して周りを見渡した。店内で本名を名乗るのはルール違反なのだ。舞香は小声で尋ねる。
「……どうして私の名前をご存知なんですか?」
「失礼ながらあなたのことは調べさせていただきました。単刀直入にききますが、ウチの会社に来ませんか?」
「……冗談ですよね?」
無論そうでないことは相手の顔を見ればわかる。しかし、考えれば考えるほど冗談としか思えない。
「もちろん本気です。弊社はこれからレコーディング事業を始めようと思っています。まずはクラシック専用レーベルを出したいのですが、あなたにプロデューサーになっていただきたいのです。もちろん、セルフプロデュースでのCDデビューも考えています」
「そんな……私には音楽プロデューサーの経験なんてありません」
「必要なのは経験じゃない。素養とセンスです。それをあなたは長年この店で磨いて来ました」
そこまで調べて……舞香は驚きを隠せない。かつて母の演奏会に出かけ、その聴衆のほとんどが音楽に関心がなかったのに驚いた。休憩時間には化粧臭い着飾ったおばちゃんたちが、互いに挨拶してまわる……そんな光景にうんざりした。歌舞伎町でピアノ弾きを始めたのも、着飾った社交界の人間ではなく、だらしなく本性をさらけ出した人々を前に、ライブで演奏したいという思いがあったからだ。おかげで聴衆の心を惹きつけるツボは掴めてきた。
「お話はわかりました。少し考えさせて下さい」
実際に舞香は考えてみたが、まだ身を固める時期ではないと思った。それで、マーシャルが訪ねて来るたびに断ったが、マーシャルも諦めずに説得しつづけた。そして三度目の説得の時……
「弊社でプロデューサー兼ピアニストとして成功すれば、きっとお父様も見直されるでしょう」
それは殺し文句だった。父・蔵野江仁のことまで調べ上げていたとは、さすがに参ったと舞香は思った。
「……わかりました。どこまで出来るかわかりませんが、プロデューサー兼ピアニストの仕事をとことんやってみたいと思います!」
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さやかは社用で大田区に来ていたので、またカノクラシックス社を訪れてみた。
「おや、矢木さん。また試聴ですか」
「この近くに参りましたので寄ってみたんですが、お邪魔でしたか?」
「いえいえ。それよりこれからおもろいモンが見れまっせ」
「面白いもの?」
「ウチを買収しようっちゅうモノ好きがおりましてな、どんだけ耳がええかテストしてやるんですわ。……お、来よったわ」
さやかは来客の顔ぶれを見てビックリした。マーシャル・リュウと北嶋舞香だったからだ。
「マイさん!?」
「さやかさん!?」
互いに顔を見合わせて驚きあっていると、狩野がさらに話を続けた。
「もう一人紹介しよう。今日の試験官や」
狩野が合図すると、その試験官となる人物が出て来た。さやかも舞香も目を見張った。なぜならその人物が……。
「本日試験官を務めさせて居た杵口直彦です。よろしく」
杵口は舞香を見ても以前のように腰が引けることはなく、むしろ毅然と立ちはだかっているように見えた。
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