5-1 狩野敏郎
さやかがいつものように海外の音楽雑誌に目を通していると、ある日本人男性の写真が目に入った。
「カノクラシック? ああ、知ってるさ。
「でもクラシック名盤って、多くは当のレコード会社がデジタルリマスターしてCD化していますよね。音質的には明らかにかなわないと思うんですけど」
すると高橋はチッチッと人差し指を振った。
「昔の名盤をベストな音質で聴くには、経年変化したマスターテープより、状態の良いSP盤やLP盤の方が良いというのが、オーディオファンの間での定説なんだ。そしてカノクラシックのCDはアナログレコードの魅力を余すところなく再現しているということで、マニアの間では高い評価を受けているそうだ」
「なるほどですね」
そう頷いてさやかは雑誌記事に目を通す。それによると、狩野敏郎は音響工学の博士号を取得し、大手オーディオメーカーに就職。そこに10年間勤めた後、独立してハイエンドユーザー向けのケーブル等付属品の開発・販売を行っている。平行して復刻盤CDの発売を開始し、合名会社・カノクラシックスを設立。今世紀に入ってからはクラシックギタリスト・
──狩野さんはもともとオーディオ部品を製造販売していたとのことですが、クラシック音楽専門レーベルを立ち上げた経緯について教えて下さい。
狩野:私は大学院で音響面において透明度の高い電気伝導体の研究をしており、幾つか特許も取得していました。会社独立後はその研究成果を活かした製品を開発しては販売しておりました。ところが売上げは芳しくなく、手持ちのクラシック名盤コレクションをコピーしCD化して売り出したところ、思いのほか反響がありまして、思い切って大量にプレスしたら即座に完売となりました。それで、会社登録の際は主な業種をレコードの発売とし、合名会社カノクラシックスという社号で登記しました。
──手持ちのコレクションをCD化されたとのことですが、そんなにお持ちだったのですか?
狩野:私は若い頃からクラシック音楽の鑑賞が趣味でして、部屋中レコードだらけでした。ご存知の通り、アナログ盤は聴けば聴くほど擦り切れて参りますので、鑑賞用の他に保管用を別に購入していました。板起こししたのは、もちろん未通針の保管用です。
──今世紀に入ってからギタリストの
狩野:町村さんは私の復刻盤を聴いた時、この音こそ自分の求めていたものだと思われたそうです。彼は虚飾のない、ありのままの音を録音として残したいという理念がありました。私の目指していたのも実際に人間の耳で聞こえる音をオーディオ装置で再現することでしたので、両者の目標が一致したわけです。
──それはつまり、リアルな音の追求ですか?
狩野:文字通りに捉えればそういうことになりますが、昨今のレコーディング界におけるリアリティーの追求とは、本質的に誇張であると私は思います。
──誇張とは、具体的にどのような?
狩野:エンハンサーなどで高次倍音を強調したり、逆に低音をブーストしたりと、臨場感があるようで実は不自然です。私はオーディオ機器の存在を忘れてしまうほど自然な音を目指しています。
──その目的を実現するために、どのような工夫をなさっていますか?
ここで、録音風景の写真が挟まれている。印象的なのは奏者の頭上に吊り下がっている奇妙な物体だった。大きさはほぼ人間の顔くらい、その両端に2本ずつマイクが取り付けられていた。
狩野:これは町村さんと話し合って開発した独自のマイクホルダーで、人間の頭部の音響特性に近づけてあります。人が耳で聞く音というのは単に空気中の振動を鼓膜がキャッチしているだけではなく、肌で受け取り、骨を伝わってくる音をも含んでいるのです。こうしてより一層、耳で聞くのに近い音を拾うことが可能となっています。
──マイクや録音機も独自の機材を採用されていると聞きましたが。
狩野:まずマイクですが、通常レコーディングで使用されるコンデンサーマイクではなくダイナミックマイクを、録音機はハードディスクレコーダーではなく
──ダイナミックマイク、そしてDAT録音とは、かなり主流に逆らっている感があります(笑)。
狩野:ええ、根がへそ曲がりでして(笑)。それはさておき、ダイナミックマイクを使用しているのは、余計なノイズを拾わず、録音後に人工的なノイズリダクション処理をせずに済むからです。そしてDATレコーダーの利点は音質の良さもさることながら、ノイズ発生の危険性が低いことにあります。私は奏者と同じ空間で録音作業を行いますので、万が一でもノイズ発生は命取りなのです。
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記事を読み終えたさやかは興味を引かれ、その録音がどんなものか確かめたくなった。早速渋谷のCDショップで町村樹のCDを見つけ、試聴しようと思ったが、
「申し訳ございませんが、こちらの商品は試聴できません」
と店員に言われてしまい、やむなく自腹を切る。考えてみればCD盤という物体を買うのはかなり久しぶりだ。
出かけついでに、カノクラシックスの会社も訪ねてみることにした。大田区の町工場が立ち並ぶ一角に合名会社カノクラシックスの社屋があった……と言っても、レコード会社のイメージとは程遠い、いかにも昭和の町工場らしい古ぼけた建物だった。会社の前では、一人の老人が並べられた鉢植えに水をやっている。と思えば、その人こそが雑誌に載っていた狩野敏郎だった。さやかは近づいて声をかけてみる。
「こんにちは」
「……どちらさん?」
「矢木という者ですけど、ムジークヴェルト誌の記事を見て興味が……」
と言いかけた時、一台のセダン者が会社の前に横付けされた。中から一人の男が出てきた。
「高取銀行の山根ですが……」
身なりはキチンとしているが威圧的。山根がいかにも邪魔そうにさやかを一瞥すると、狩野が気づかうように言った。
「すんません、ちょっとそこの応接室で待ってもらえます?」
それから狩野は、山根を連れて奥の部屋へと行った。
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