最終章

来歴1 蔵野江仁

「あいつはこの会社に入って何年目になるんだ……」

 そう言うのは米澤楽器営業部長の落合直孝だ。そして〝あいつ〟と言うのは若かりし頃の蔵野江仁である。

「蔵野君も職人肌のところがありますから……じきに成長して人当たりもよくなっていくと思います」

 蔵野の上司、鈴木賢一主任がフォローする。年齢は蔵野より10歳上だ。

「じきにって、いつまで待たせるんだ。入社以来一台もピアノは売れていないし、今月に入って10件もクレームが来てるじゃないのか」

「彼なりに人とのコミュニケーションを良好にする努力はしているみたいですよ。……まあ、その努力の一端がダジャレの練習というところが、ちょっと抜けていますけど……」

「ともかくだ、君の指導は少し甘い。もっと絞れ」

「……わかりました」

 落合部長のところから戻った鈴木主任は、早速蔵野を呼びつけた。……ヨレヨレのネクタイにシワだらけのスーツ。頭髪はところどころ寝癖がある。これではクレームが多発するのも不思議はない。

「蔵野、今後にもう少し気をつけろ。人の判断というのは、見た目に左右されることが多いんだ」

「言われなくてもの日には十分気をつけています。話はそれだけですか? それじゃ」

 といって去ろうとする。先ほど懸命に庇ってくれたとはつゆ知らず、蔵野は鈴木主任の話を面倒くさそうに終わらせようとする。

「ちょっと待て、話はまだ……」

 と言いかけた時、「鈴木主任、奥野さんからお電話です」と告げる事務員の声が飛んだ。奥野とは蔵野の同僚で、やはり調律師だ。

「はい、鈴木……えっ、それは困ったな……分かった、代わりを探してみる」

 受話器を置いた鈴木主任は、再び蔵野に顔を向けた。

「蔵野、北嶋先生知ってるよな?」

「知りません」

「っておい、何年この仕事やってんだよ! 北嶋先生はピティフェのコンペティションに何人も生徒を送って全国優勝者を出している先生じゃないか! 奥野が今日調律に行く筈だったが、保育園から呼び出しくらったらしい。だが北嶋先生も今日しか予定が開かないそうだから……おまえじゃちょっと役不足かもしれんが、代わりに行ってきてくれ。他に空いてる奴いないからな」

「いいですけど……『役不足』の使い方、間違っていますよ」

 鈴木主任の顔に朱が差したのは恥ずかしさなのか、怒りなのか。

「と、とにかく粗相のないように気をつけろ!」

 なぜ相手が怒っているのかわからず、蔵野は事務所から飛び出した。


 ピアノ教師・北嶋安恵の自宅は都内のマンションの一室にあった。蔵野より一歳年上だと訊いたが、その若さで住むには高級なマンションだ。社会的成功を伺わせる。どれだけ高飛車な女が出てくるだろうと身構えていると、玄関から迎え出て来たのはいかにも人柄の良さそうな若い女性だった。

「米澤楽器の蔵野と申します。今日は奥野の代理で参りました」

「はい。お話は伺っております。どうぞ……」

 北嶋安恵はレッスンルームに案内した。防音が施されており、1台のグランドピアノが置いてある。

「どのような調律をご希望でしょうか?」

「そうですね、いつもはお任せしていますけど、……この前、グスタフ・レオンハルトの演奏会に行って来たんですけど、変ハの時はロじゃなくて、ちゃんと変ハだったんですよ。もちろん、ロの時はロで……そういう調律って出来ますか?」

「わかりました、やってみます」

 と言ってしまったが、ロ(B)と変ハ(C♭)は異名同音、どちらもドレミで言うところのシの鍵盤で弾く。弾き分けなど出来る筈はない。どうしようか。そう思った時、譜面台にヘンレ原典版のバッハ・平均律クラヴィーア曲集が載っているのが目に入った。彼女は目下、これに取り組んでいるのだ。蔵野はこの曲集が古典調律の一つ、ヴェルクマイスターを前提に作曲されたという話(諸説あり)を思い出した。本来、現代ピアノを古典調律で合わせるのはご法度だ。さらに鈴木主任の「粗相のないように」という言葉が頭に浮かぶ。だが生来の無責任さがそれを払いのけた。

(まあ、なるようになるさ)

 蔵野はうろ覚えのヴェルクマイスター第三式で調律した。


 調律が終わって北嶋安恵が試奏すると、異様に緊張した空気が部屋中に充満した。

「……違う」

 彼女はひとことのたまった。これはもしかしてやっちまったか……蔵野は思った。後で奥野に何て言い訳しようかと考えていると、彼女はこう続けた。

「今までとは全然違う。こんな調律があるんですね……」

 それが褒め言葉であることを理解するのに、かなり時間がかかった。


 だがすぐにボロが出るだろうと蔵野は思った。だいたいレオンハルトはチェンバロ弾きだ。チェンバロでのベストチューンがそのままピアノに適応出来るとは思えない。しかも、後から知ったのはレオンハルトの調律はヴェルクマイスターでもキルンベルガーでもない、その日の気分でなされるオリジナルの調律法だということだ。

 そんなこんなで、いつ北嶋安恵からクレームが来るかと待ち構えていたが、数日後彼女から会社にかかってきた電話の内容はこのようなものであった。

「今まで奥野さんに調律していただいていましたが、これからは蔵野さんにお願いします」

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