4-12 鎮魂歌
いよいよ慰問コンサートの当日となった。ヨセフ・カミンスキをはじめとするスタッフクルーが磯原刑務所に到着した時、依頼者の長尾肇が門の前で待っていた。そして一行に向けて一礼した。
「今日はよろしくお願いします」
「長尾さんも演奏を聴かれるんですか?」
さやかが尋ねる。
「いえ。一度檻の外に出た者が戻ることは、どんな理由があるにせよ良いことではありませんから」
前田課長が受付で手続きを済ませると、一行は二人の刑務官の案内で施設内に入場した。長尾は彼らの姿が見えなくなるまで見送った。
スタッフの滞在時間は限られている。上村は急ピッチでピアノ調律の仕上げに入る。その待ち時間が奏者のストレスになるようでは本末転倒だ。調律が完了し鍵盤を真っ白なネルで拭き取ると、上村はカミンスキに試弾を促した。カミンスキが弾きながら眉間にシワを寄せたので、さやかはヒヤッとしたが、よく見ると時々頷いている様子で満足そうだった。
演奏の準備が整うと受刑者たちが呼び出された。軍隊式というのか、ビシッと行列を組んで入場し、刑務官の指示に従って整然と着席していく。緑色の囚人服に、刈り込まれた頭髪。同じ格好、同じ髪型、それでも一人ひとりよく見れば個性が滲み出ている。ここに来るまでどのような生活を送っていたのだろうか。何をしていたにせよ、今は刑務官の指示に逆らうことなく、忠実に従って行動している。己の身体を動かすのは己の自由意志ではなく、刑務官の命令。それが刑に服するということなのかとさやかは思った。
この日のプログラムは、
・滝廉太郎
・チャイコフスキー 四季
・ベートーヴェン ワルトシュタインソナタ
となっている。奇しくもグレイス・ニューイェンのように時代を遡る順列となっているが、今回の曲目を決めたのはカミンスキ本人だ。堂島エージェンシー側はそれに関して一切口出ししていない。
そして開演。
聴衆に唯一認められたリアクションである、拍手に迎えられて〝ステージ〟の中央へ歩みよるヨセフ・カミンスキ。深く紳士的な会釈の後、ピアノの前に座って深呼吸する。そして徐に差し出された手によって奏でられる「憾」。ベースと和音の連打によるシンプルな伴奏型に、オクターブのユニゾンで奏でられるエレジー。滝廉太郎の作品の中では名曲とも意欲作とも言いがたいが、若くして病死した滝の無念さと、命のはかなさが如実に現れている。
ここにいる受刑者の中には、クラシック音楽が好きではない者も少なからずいるだろう。更生の一環だからと強制的にここに座らされて、内心迷惑だと思っていた人間もいるだろう。しかし、春先の花壇の蕾が徐々に花開くように、ひとり、またふたりと真剣な眼差しを向ける者が増えた。自由のない失望か、罪責感か、もしかしたら冤罪の理不尽さか、いずれにせよ心の
聴衆の意識が温まったところで、チャイコフスキーの四季。優しく叙情的な旋律と、変化に富んだ曲調。さやかも聞きながら、これまでの人生の様々な場面を思い浮かべる。春夏秋冬、それぞれの季節にそれぞれの景色がある。こうして色々なことを思い出していると、自分のこれまでの人生が愛おしく思えてくる。それは演奏に耳を傾ける囚人たちも同じではないか。あからさまに泣く者はいなかったが、声を押し殺して咽る者、目を潤ませる者がたくさんいた。
休憩を挟まずに、プログラムは後半へ。曲はベートーヴェンのピアノソナタ21番「ワルトシュタイン」。譜面を見ただけでは、まるで退屈な練習曲のように規則的な和音、スケール、アルペジオが並ぶ。ところがベートーヴェンの手にかかれば、そんな一見つまらなそうな音型が、至高の芸術へと昇華する。まさに天才のなせる技だ。カミンスキは特に50小節目のアルペジオを神々しく響かせる。まるで天にも昇るような歓喜の響きだ。悲しんでもいい、悩んでもいい、だけど同時に喜んでもいいんだよ、そんなメッセージが三つの楽章を通して胸に迫ってくる。圧巻だ。最後にくどいほど繰り返されるドミソの和音は、そのことを念押ししているようだ。わかったね、わかったねと。
曲が終わると、みな呆気に取られて押し黙っていた。刑務官がその様子を見て義理立てるように拍手した。すると、一斉に熱烈な拍手と共に歓声が沸き起こった。刑務官たちは抑えようとするが止まらない。さらに刑務官にとって困ったことには、ヨセフ・カミンスキが予定外のアンコール演奏を始めてしまったのである。しかも曲調がクラシックではない。さりとてジャズでもない。いったいどんなジャンルかと思って聴き続けていると、さやかも知っているテーマが奏でられた。そう、アルゼンチンタンゴ……アストル・ピアソラの「アディオス・ノニーノ」だった。
ピアソラが父の死を悼んで書いた鎮魂歌と言われる。もしかしてカミンスキはこれまで裏切り者である父を許せず、鎮魂の歌など口ずさんだことが出来なかったのかもしれない。それが今回の慰問を通して……やっと心から父親に「アディオス」と言えるようになったのかもしれない。哀愁と懐かしさに満ちた旋律に、さやかの胸は激しく打たれた。
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