4-11 伝言

「……どうしたらいいんでしょうね」

 ピアノの前で立ち尽くす上村が、その場に居残ったさやかに訊いた。

「私に訊かれても困ります」

 ぐずぐずと煮えきらない上村にいちいち苛立ちを覚えてしまう。そういえばもうすぐ生理だわ、とさやかは思った。

「僕は……今回、最大限出来ることをしたつもりなんですよ。だけど、王様じゃなくて囚人として扱えなんて、そんな自虐的な依頼に答えたことがありませんから……」

 ますますもってリアクションに困る呟きだ。そういうのはツイッターで呟くか、場末のスナックのママさんにでも言って欲しい。ふとその時、さやかはカミンスキが言っていたことを思い出した。

「そういえば、以前ドイツの監獄で演奏したことがあるそうなんですが、その時のピアノが彼の気持ちにとても響いた、とおっしゃっていました」

 すると上村の目がギランと輝いたので、さやかは思わず引いてしまった。

「そ、そのピアノ、どんなピアノだったんですか!? せめてメーカーと機種が分かれば、リュウ社長なら同じものを調達できると思います!」

 上村のすがるような目を見て、さやかはつい携帯を取って黒田の番号にかけた。

「あの……そこに警備の須藤さんいます? あ、替わって下さい……須藤さんですか? 矢木ですけど、蔵野江仁さんに連絡とって欲しいんです。……はい、えーと、以前ドイツの監獄で調律したピアノのことを知りたくて……え? 折り返し電話させる? わかりました、番号は……」


 さやかは通話を終えると、密室にさえないおっさんと二人きりになるのも息がつまりそうなので、「コーヒーでも買ってきます」と言ってコンビニへ出かけた。その間に蔵野からかかってくるかと思ったが、果たして本当にかけてくるだろうかと不安になった。いや、八割方かかってこない気がした。かかってこないかもしれない電話を待つためにさえないおっさんとどうやって過ごそうか……などと案じていると、背後からポンポンと肩を叩かれた。さやかがビクッとして振り向くと……またあのレゲエおばちゃんだった。

「あ、こんにちは……な、何かご用でしょうか」

「エヒトクラングの伝言よ。『村上さんとリヒテルの出会いを思い出せ』……そう調律師に伝えてちょうだい」

「え……あの、どういうことですかっ!?」

 っていうか、あなた何者? そんな疑問に答えることなく、レゲエおばちゃんはまたまた姿を消して行った。


 二人分のコーヒーと簡単な菓子類を抱えて戻ってみると、上村は相変わらずピアノを前にして途方に暮れていた。さやかは彼にコーヒーを渡しながら言った。

「あの、例のドイツの監獄で調律した人からの伝言なんですけど……『村上さんとリヒテルの出会いを思い出せ』ってわかります?」

 それを聞いた途端に上村の顔に生気が戻った。

「そうか……そういうことか!」

 そう言って上村はピアノの外装を外し、作業に取り掛かった。先ほどとは打って変わって、表情には自信がみなぎっていた。

「あの……伝言の意味は……どういうことなんですか?」

「村上さんというのは、ヤマハ元コンサートチューナー・村上輝久さんのことで、ヤマハピアノを世界に知らしめた人です。彼がヨーロッパに渡って初めてスビャトスラフ・リヒテルの調律をした時、『このピアノは弾きやす過ぎる』と言われたんです。村上さんは考えた挙句、鍵盤の下にあるパンチングペーパーを一枚ずつ抜いていったんです」

 上村はそう言って、鍵盤下のピンに刺さっているドーナツ型の紙片を抜き出してみせた。薄い紙で、素人目にはこれを抜いてどう変わるのかと思える。

「これで鍵盤の沈む深さを調節します。この紙は厚さ0,15ミリメートルで、薄く見えてもかなりタッチ感が変わります。もちろん抜く前に弾きやすかったなら、僅かながら弾きにくくなっているでしょう」

「なるほどですね……そうすることによってカミンスキさんの要求に答えることが出来る……蔵野さんはそう判断したということですか」

 先ほどカミンスキが要求した内容について、蔵野には伝えていない。しかし以前に調律した時の塩梅あんばいをよく覚えていて、今回の需要についてもあたりをつけることが出来たのだろう。

「何かお手伝いしましょうか? 紙を抜くだけなら私にも……」

「いやいや、ひとこと紙を抜くと言っても、鍵盤の深さを変えれば、色々な関連工程もやり直さなければなりません。それは一日仕事になります」

「そうなんですね、失礼しました。大変なお仕事になりますけど、よろしくお願いします」

 さやかはペコリと頭を下げたが、上村は既に作業に集中していて、その眼中にさやかの存在はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る