4-10 練習室

 あらゆる手筈が整い、いよいよヨセフ・カミンスキが来日した。本人は不要であると言ったが、念のためボディーガードを傭い、万が一のための保険もかけておいた。さやかは営業課の〝接待の鬼〟黒田説郎くろだせつろうに伴われて成田空港まで赴いたが、警備会社から派遣されたボディーガードを見て、思わず声を上げた。

「「あっ!」」

 互いに指を差し合うさやかとボディーガード。

「……なに、知り合いなの?」

 黒田が訝しげに尋ねる。だが、なんと答えたらいいのか……目の前の男は、あの夜中の小学校で度々出くわす、金髪筋肉系警備員だったのだ。あの不名誉な出会いを上司にさらけ出すのはさすがに憚れる。

「エエ、マァ……」

 さやかが上司で小さくなっているのを見て、金髪筋肉系警備員は心做こころなしかニヤニヤしている。そして前田課長の方を向いて自己紹介した。

「大成警備保障の須藤晋也すどうしんやです」

「須藤君か。いい体してるねえ、頼もしいよ」

 黒田が褒めているのに、須藤は「うす」と愛想のない空返事。これだから最近の若者は……とさやかは自分の若さを棚に上げて胸の内で呟く。


 黒田が「何か食べたいものはありますか?」と尋ねると、カミンスキは「うどんが食べたいです」と答えた。そこで黒田は銀座の高級うどん専門店を予約し、ハイヤーでそこへ向かった。うどん屋では須藤のマナーの悪さがさらに極まった。離れたところから見張るのもかえって目立つからという理由で一行と同席したが、携帯はマナーモードにせず時おりピコピコ鳴り、同伴者に断りもなくそれを操作する。しかも顔がたまにニヤケていることから、業務連絡でなく私用であることが伺いしれた。さらに、度々トイレに行くので会話の腰が折れてしまう。〝接待の鬼〟黒田は厳しい目で須藤をチラッと一瞥する。直属の部下ならあとでたんまり説教を喰らうところだろう。

 一方カミンスキはと言うと、ユダヤには会食中に用を足すべからずと言うような理不尽なマナーは存在しないのか、さして気にしている様子はない。だが、どこか不満そうな様子が見て取れる。それは運ばれて来たうどんを器用な箸さばきで食べ始めた時にさらに顕著になった。口に合わないのだろうか? いや、少年時代を日本で過ごしたカミンスキは日本の味付けに慣れている筈だし、出されたうどんはこれまでさやかが食べたことがないほどの美味だった。

「カミンスキさんは、どうしてうどんを食べたいと思われたんですか?」

 さやかは質問の真意をオブラートに包んで尋ねた。カミンスキは、ユダヤ人があまりしない愛想笑いを浮かべながら答えた。

「子供の頃、佐々木さんの家はあまり裕福ではなくて、食べ物には苦労しました。近所には食堂があって、ショーウィンドウには美味しそうなうどんが飾られていたんですよ。もちろん本物ではなくて模型だったんですけど、見惚れていると、なんとも魅惑的なの匂いが漂ってきて……私はあのうどんを食べてみたいとずっと思っていました。幼い私にとっての、小さな憧れだったのです」

 するとカミンスキの朧気な不満に気づかない黒田が受け答えた。

「なるほど、そういうわけでしたか。いかがでしたか、ここのうどんは。日本でもこれほどうまいうどんは他には食べられませんよ」

 黒田が自慢げに言うと、カミンスキはまたもや苦笑する。

「はい、美味しいです。でも……あの頃の私に食べさせるにはちょっともったいないですね」

 黒田はホクホクと満足気だが、さやかはカミンスキが高級うどんに不満を持っていることに、ますます確信を強めた。


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 マーシャル・リュウはカミンスキのために、刑務所の会場とほぼ同じ間取りの貸会議室を探してそこを借りてくれた。刑務所で練習させるわけにはいかないからだ。そこに先日選定したヤマハS400Eが搬入されており、調律師もそこにスタンバイしていて、いつでも対処出来る態勢だ。

「ピアノ調律を担当する上村寿人かみむらひさとです。よろしくお願いします」

 上村は……これほど〝しょぼい〟という言葉がしっくりくる人間はいないとさやかが思うほど、冴えない三十路男だった。かの巨匠ヨセフ・カミンスキが相手ということもあって萎縮しているのかもしれないが、いかにも自信なさげで依頼する側としては、なんとも心許ない気持ちになる。

(ああ、この人に蔵野江仁の自信過剰を一割でも分けてあげたいわ!)

 

 カミンスキはピアノの前に座ると、何度も椅子の高さを調節した。上村がその具合を注意深く見守る。本番に備えて高さを把握するためだ。そして、スケールとアルペジオを何度もくり返した。ところが、十分、二十分経ってもなかなか曲を弾こうとしない。上村の顔が緊張で強ばっていくのが手に取るようにわかる。そして三十分間、そんな指慣らしだけでカミンスキは弾くのを止めてしまった。そして言った。

「もうやめましょう。時差ボケで集中出来ないようです」

 そうして立ち上がり、部屋を出ようとするカミンスキの背中に上村が声をかけた。

「あの……どこか悪いところがありましたでしょうか?」

 するとカミンスキは優しく微笑んだ。

「上村さん、あなたは本当によくして下さいました。それにこのピアノも上等です。……弾いていて気持ちが良すぎるんですよ、まるで私が王様になったようです。私は今回、罪の重荷に苦しむ人々と分かち合いに来たのですよ。王様ではなく、むしろ囚人だと思って下さい」

 そうしてカミンスキが立ち去るので、黒田と須藤は慌ててその後を追った。調律師の上村は、呆然と立ち尽くしてピアノを見つめていた。

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