4-8 お節介

 ヨセフ・カミンスキは、磯原刑務所での演奏を快諾した。しかもギャラは言い値で良いと言うのだ。

「正直な気持ちとしては、ボランティアでも構わないのです。でもそれでは依頼主の顔に泥を塗ることになるでしょう。あなたがたの方で適正な報酬をお決めになって下さい」


 しかし、いざ自由にして良いと言われると、どうして良いかわからなくなるのが人間というものだ。さやかが帰国し、会社に報告すると早速その問題が役員会で議論された。

「難しいねえ、こういう話し合いは。むしろ高額の報酬を吹っかけてくれた方が対策も立てやすいんだが」

 小早川副社長の発言は相変わらず評論家然としている。何のアイデアのヒントともならない発言は控えてほしいのが会議出席者の本音だが、誰も口にしない。下手に神経を逆撫でして引っかき回されても困るのだ。長い議論の結果、百万円に少し上乗せする位、キリのいいところで4万シェケル(約120万円)にしようということになった。スポンサーとなる長尾肇に話したところ、納得のいく妥当な金額ということだった。

 もう一点、カミンスキが〝エヒトクラング〟の名前を出したことで、今回も蔵野江仁に依頼した方が良いのではないかという意見も出された。

「でも……直接カミンスキさんがそれを希望したわけではありませんし、実際のところ蔵野さん自身は何も手を動かさないんですよ。余計な手間が増えるだけという気がしますが……」

 そのをこれまで一手に引き受けてきたさやかがそう言うと、前田課長が「頼むだけ頼んでみたらどうだ。断られたら断念すればいい」と提案をした。それで、さやかはため息をこぼしながら、蔵野に会うために有楽町のレクサスを訪れた。今回はすぐに蔵野を見つけることが出来た。周囲に貯玉の積み上げはなく、しきりに千円札を入金している。相当スッている様子だ。さやかは恐る恐る声をかけてみる。

「あの……」

「断る」

「まだ何も言っていませんよ」

「どうせどこかのピアニストが調律して欲しいなどと言ったのだろう。……君の思っていることを正直に先方に伝えたらどうかね?」

「私の思っていること……あなたは、と思っているんですか?」

「ややこしい言い方はよしたまえ。どうせ私のことを口だけ偉そうで何もしないペテン師だと思っているんだろう。それならに、調律の依頼はがいい、とでも忠告したまえ」

「それが……今回は先方からオファーがあったわけではないのです。ただ、以前にドイツのアスペルク監獄とかいうところで蔵野さんが調律したピアノを弾いてとても良かったとおっしゃっているんです。ですから今回も……」

「それは大きなお世話というものじゃないかね。私はお節介な人間には嫌悪を感じるのだ。結局、自分は気が利くという自己認識に陶酔しているに過ぎず、しかも相手から思うような感謝を受けられないと、手の平を返したように相手を罵ったり悪口を言ったりするのではないかね。大してありがたくもない施しをされて、勝手に腹を立てられては迷惑きわまりない」

「……蔵野さんて、本当に人の気持ちがわからない方なんですね」

「そういう君は私の考えや事情を全く無視して、自分の都合ばかり押し付けているのではないのかね。……さあ、他に用事がないのなら帰ってくれたまえ。運が逃げてしまう」

「おことばですが、今の蔵野さんには悪運しかついていないように思えますけど」

 さやかはこれみよがしに空の玉箱に視線を向けた。蔵野はもう用が済んだとばかりに、パチンコのハンドルを回した。さやかはこれ以上粘るのは止めた。今回はピアニストの要望でもなければ、上司の〝マスト〟の命令でもない。断られたら引き下がってよいのだ。これ以上悪臭と騒音に塗れる必要はない。さやかは逃げるように、さっさとその場を後にした。パチンコ屋から出ると、都心にもかかわらず田舎のように空気が新鮮で、静寂に感じられた。

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