4-7 恨と憾
佐々木さんのご主人は、イエスを十字架につけたという理由でユダヤ人を迫害するのは、全く見当違いだと言っていました。それは7の70倍ゆるしなさいと教えたキリストに背くことであると。私は佐々木さん夫妻を見て、日本のキリスト教徒は素晴らしいと思ったのです。ヨーロッパのキリスト教徒は何と歪んでいることか、日本を見習うべきだと。
しかし……それもやはり思い違いでした。佐々木夫妻は、しきりに「フミエ」という言葉を口にしていました。後々それは「踏み絵」のことだとわかりましたが、何故彼らがそんな話を度々するのかわかりませんでした。それがわかったのは、ある日の教会の礼拝の時でした。牧師が報告の時間に声高にこう言ったのです。
「来週は日本基督教団合同の戦勝祈祷会です。何があっても全員参加するように」
私は耳を疑いました。日本の戦勝を願うことは、同盟を組んでいるナチスドイツの勝利を祈ることでもあります。それは私たちユダヤ人を敵とみなすも同然でした。もちろん私は日本が惨たらしい敵襲にあって焦土と化すことを望んでいた訳ではありません。ただ侵略戦争から手を引いて、一日も早く平和を取り戻して欲しいと願うばかりでした。家に帰ってからそのことを佐々木夫妻に告げると、彼らは首を振って言いました。
「私たちは、踏み絵は踏まない」
この戦勝祈祷会こそが、彼らの言う踏み絵だったのです。私は佐々木夫妻の決断を誇らしく思いました。ところが、事はそう簡単ではなかったのです。佐々木さんのご主人は、まもなく憲兵によって捕らえられてしまいました。その日の出来事は、否が応でも私と母がナチス親衛隊に逮捕された時のことを思い出させました。奥さんの話によれば、ご主人は日頃から天皇崇拝に反対していたことで、当局から睨まれていたそうです。しかも、教会の中にそのことを密告する者がいると聞き、驚くと共に、やはり密告者であった父のことを思い出しました。少し希望の光を見出していた日本に、私は失望しました。ヨーロッパも日本も変わらない。為政者の気に入らない者は捕らえられるし、圧力がかかれば家族や仲間を平気で売る……。
数日後、拷問を受けたご主人がボロボロになって帰って来ました。あえて拘置し続けずに釈放したのは、他の信者への見せしめだったのでしょう。結局その時のダメージが尾を引いて、ご主人は終戦を見ることなく亡くなりました。それでも奥さんは誰も恨まない、その姿勢を貫いていました。立派な方だ、そう思いました。でも、神は果たして彼女の敬虔を評価しているのだろうか。そんな疑問で一杯でした。
戦争が終わると、教会の人たちはそれまでの態度を転じて、佐々木の奥さんに手厚く接するようになりました。私は彼女からピアノを習っていましたが、もう教えることはなくなったと言って、本格的な教師につけました。さらにイスラエルが建国され、ティーンエイジャーになった私に、奥さんは〝帰還〟を勧めました。「そこは神があなたがたユダヤ人に与えられた場所なのよ」と。さんざん悩んだ結果、私はイスラエルに移り住むことにしました。姓はグレツキから母姓のカミンスキに、名前もポーランド読みのユゼフから、ヘブライ語読みのヨセフへと変えました。
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「では、その佐々木さんの奥さんがカミンスキさんの恩人という訳ですね」
「はい。ただ残念なことに十分な恩返しもすることなく、お亡くなりになりました。そして、奥さんの言った『人を恨んで生きてはいけない』という言葉……ずっと守れずに生きて来ました。私は父を、そして佐々木さんを裏切った教会の人たちをずっと恨んで、それを踏み台にして生きてきました。……確かにピアニストとしては大成功しました。でも、母や佐々木さんの奥さんが言うように、恨みを抱えて生き続けるのはとても辛いことでした」
「そのことと……刑務所で弾きたいというお気持ちは、やはり関係あるのですか?」
「はい。実は一度、ドイツ・シュトゥットガルト近郊のアスペルク監獄で演奏したことがあるのです。その時私は……この曲を弾きました」
カミンスキは席を立ち、ピアノの前に座った。そして弾いた曲はロマン派らしい悲壮感に満ちた小曲だった。さやかがこれまで聴いたことがなかった曲だ。
「これは……何という曲ですか?」
「滝廉太郎の
その時さやかの脳裏で何かが音を立てた。
「その日本人の調律師ってもしかして……」
「ドイツ語で〝エヒトクラング〟というニックネームのついた人でしたよ」
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