4-6 テルアビブ

 ヨセフ・カミンスキの自宅は、ヤッファの港より少し北の方にあった。周囲には椰子の木が立ち並び、中心部の高層ビル群がその合間から顔を覗かせる。アラブ人街が近いせいか、家屋の装飾はどこかモロッコ調だった。

 約束の時間の10分前にさやかたちは来たが、カミンスキは留守だった。ちなみにカミンスキは今に至るまで独身を貫いており、家族は他にはいない。しばらく家の前で待っていると、ジョギングウェアに身を包んだカミンスキがやって来た。鍛え抜かれ、均整の取れた体つきは芸術家というよりスポーツマンライクで、とても80代半ばの高齢者には見えない。

「I’m sorry to have kept you waiting(お待たせしてすみません)」

 そう言ってカミンスキはさやかと若菜を迎え入れた。

「Coffee or tea?」

 と尋ねるカミンスキに、「あの……日本語がお出来になると聞いたのですが」とさやかは聞き返してみた。別に日本語で話して欲しかったわけではなく──英語でもよかったし、なんなら若菜がいるのでヘブライ語でもよかった──単に話のきっかけ作りのつもりだった。ところが、カミンスキは流暢な日本語で応答した。

「ああ、そうでした。あなたがたは日本の方ですよね。大分長い間、日本語は話していませんが、まだ少し覚えています。まあ、ちょっとおかしいところもあるかもしれませんが」

「いえいえ、あなたの日本語は日本人と比べても遜色ありません。……たしか子供の頃に日本にいらっしゃったんですよね?」

「はい。でもそれはとてもつらい思い出で、話せば長くなりますが、お聞きになりますか?」

 さやかと若菜は頷いた。そこでカミンスキは自分の生い立ちを語りはじめた。


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 私はポーランドの東プロイセン地方で、ポーランド人の父ミハウ・グレツキとユダヤ系ポーランド人ヨアンナ・カミンスカの間に生まれました。幼少の頃は自分が生粋のポーランド人であると信じて疑いもしませんでした。

 ところが、ドイツがポーランドを侵攻した頃から、父は母を口汚く罵ることが多くなりました。特に母のルーツであるユダヤの血筋について侮蔑したのです。私はある時、ユダヤって何? と父に尋ねました。すると父はこう答えたのです。「イエス・キリストを十字架につけた民族だ」と。それ以来、私は父のことが少し怖くなりました。また、父はこうも言ったのです。「おまえの体にはユダヤの呪われた刻印がある」と。それは割礼のことだと後にわかりましたが、幼かった私はわけわからずに不穏な空気を感じていました。

 そしてあの日はやって来たのです。

 父は私たち母子がユダヤ人の血を継いでいることを当局に密告しました。母と私は父の裏切りによって逮捕され、収容所に入れられました。しばらくするとその収容所で大規模な脱走事件が起こり、私と母はそれに便乗して逃げました。しかし、リトアニアへ行く船に乗り切れなかった母とはそれ以来離れ離れになり、もう会うことはありませんでした。リトアニアで日本領事館に駆け込み、杉原千畝という親切な領事に日本のビザを発行してもらったのです。

 そうして長旅の末、私は日本に上陸しました。日本ではキリスト教徒の家族たちがそれぞれ任意で私たちの身柄を引き取ってくれました。私は佐々木さんというプロテスタント信者の夫婦の元で育てられることになりました。日本語は難しかったですが、生きていくために必死で覚えました。

 私には一つの疑問がありました。父はユダヤ人がイエス・キリストを殺した民族だと言っていました。それなのに、どうして日本のキリスト教徒はユダヤ人を助けてくれるのか。日本語が不自由なく話せるようになった頃、そのことを佐々木さんの奥さんに率直に尋ねました。すると、奥さんは目に涙を浮かべて幼い私を抱きしめました。

「人を……恨んで生きてはいけない!」

 佐々木さんの奥さんはただそう言いました。その言葉は母を思い起こさせました。母も別れ際、私にそのように言ったのでした。でも、やはり私は私たち母子を裏切った父のことを思い出さずにはいられませんでした。聖書タナハは母の教えを捨てるな、それはあなたの首飾りだと言います。でもそれは私にとって、重い首飾りとなりました。

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