4-5 エルサレム

 煮えきらない前田課長の慎重論を押し切って、さやかはイスラエルへ飛び立った。前田課長が躊躇したのは、治安の問題である。イスラエルはほぼ全域にわたって外務省によって危険レベル1(十分注意)に制定されており、西岸地区はレベル2(不要不急の渡航中止)、さらにガザ地区はレベル3(渡航中止勧告)に制定されている。

 ベングリオン空港に到着すると、最初の難関である入国審査が待っている。イスラエルの出入国審査は世界でも特に厳しいことで有名だ。順番を待っているさやかはやはりドキドキしてしまう。当たった担当官は、オリエンタル系ユダヤ人だった。血統を重んじる国民であるが、ひとことでユダヤ人と言っても様々な人種のグループがある。その中で多数を占めているのが、白人系のアシュケナジーと、アジア・アフリカ系のスファラディーの二グループである。ちなみに、日本人のルーツがユダヤ人だとする、「日ユ同祖論」という都市伝説的な説も古くからあり、あの内村鑑三もそれを信じて疑わなかったという。

 それはさておき、いよいよさやかの番が来た。入国審査官は愛想笑い一つ浮かべず、ぶっきらぼうに尋ねた。

「What’s the purpose of your visit?(入国の目的は?)」

「えー、I'm here for sightseeing.(観光で来ました)」

 さやかは経験上、どんな目的でも観光で通すことが無難であると心得ている。下手に細かいことを言うと突っ込まれてろくなことがない。入国審査官の目はパスポートの写真とさやかの顔の間を何度か往復する。そしてダンマリを決めたまま、入国許可証と一緒にパスポートをさやかに返した。何かひと悶着あるかと身構えていたさやかは、あまりにあっさりと終わったので拍子抜けした。


 税関を無事通り抜けると、一条寺若菜が迎えに来ていた。ちなみに今回はバカンスではなく、父親の仕事の手伝いをしているのだと言う。

「さやか〜急に来るって言うからビックリしたよ〜」

「こっちこそだよ! イスラエルに行こうと思った矢先に死海の写真送って来るんだもん!」

 スーッと香水の匂いがさやかの鼻先をかすめた。若菜のつけている香水ではない。免税店から漂って来る商品の匂いだ。それに惹きつけられるようにさやかたちは歩を進めていく。

「外務省が危険レベル1に制定してたけど、空港の中を歩いてるだけだとそういう危険な匂いはあまり感じないね」

「そりゃそうでしょ。外に出たら銃を持った兵隊さんはそこら辺にいるし、たまに空襲警報が鳴るしで、それなりにモノモノシイ空気よ。だけど実際のところ、宗教的な戒律が厳しいから、滅多に窃盗を働いたり危害を加えたりする人はいないわ。そういう意味では他の国より観光客にとっては安心かも」


 空港を出ると、生暖かいからっ風が吹き付けた。緯度的には日本の九州南部くらいになるが、こちらの方ははるかに温暖な気候だ。若菜は「イスラエルに来たらとりあえずエルサレムでしょ」というので、タクシーでエルサレム旧市街へと向かった。若菜の言う〝観光客にとって安心〟がどういう意味か、最初は今ひとつピンと来なかったが、車を降りて街を歩くとなるほどと思う。確かに軍服姿の若者はところどころに見られるが、総じてフレンドリーで威圧感がない。中にはハリウッド女優のような美人兵士もいたりして、むしろ観光客向けに配備されているのではないかと邪推してしまいそうなほどだ。

 そういうわけで、モノモノシイと言うよりは〝守られてる〟感があるが、もともとユダヤの律法トーラーでは旅人を大切にするよう教えられており、安心して旅行が出来る配慮がなされている。

 旧市街は、城壁に囲まれたエルサレム観光の要である。城壁の中はユダヤ人地区、キリスト教徒地区、ムスリム地区、アルメニア人地区と区分けされている。それらの境界線において特に通行制限はないが、一歩違う地区に足を踏み入れると、まるで違う世界が広がる。特に、ユダヤ人地区からムスリム地区へ入ると、いきなりペルシャ湾岸に瞬間移動したような錯覚に襲われる。それから嘆きの壁紙など定番の観光スポットを訪ねたあと、若菜が思い出したように言った。

「あ、そうそう、さやかに仕事手伝って欲しいんだ」

「えっ……仕事って?」

「まあ、ついて来て」

 そういうからすぐそこかと思いきや、かなり歩いた。到着したのはマハネ・イェフダという市場に面した、こぢんまりとしたアトリエだった。中では宝石や貴金属の加工が行われ、気難しそうなおじいちゃんたちが作業に勤しんでいた。アトリエの一角には販売スペースがあり、若菜はそこへ歩を進めた。

「ここでね、日本の女の子が好きそうなピアスや指輪、ネックレスをチョイスして買って来いって言われているの。ここで出来るだけ安く買い叩いて、日本のジュエリーショップに高く売りつけるんですって」

「はぁ……」

 正直なところ、さやかにはハイセンスなチョイスが出来る自身はなかった。とりあえず自分がカワイイと思うものを選んではみたが……

「んー、これはありえん。……これもちょっとイケてないかな……」

 などと、若菜はさやかの選んだものを次々と除外していった。そして、一通り選ぶと、それを側にいた店員に渡した。

「(これ下さい)הייתי רוצה לקנות אותו」

「(では三千シェケルで)שלושת אלפים שקל בבקשה 」

「(高すぎよ、二千シェケルに負けて)זה יקר. הנחה על אלפיים שקל」

 何を言っているのかさやかにはさっぱりわからなかったが、ときおり聞こえる「シェケル」という言葉から、お金のことでもめているのだと推測出来た。約20分に渡る交渉もようやく成立し、二人はアトリエを出た。

「すごいね若菜! いつの間にヘブライ語覚えたの?」

「カタコトよ。子供の頃から親に連れられて来ていたから、何となく覚えちゃったのよ。それにこういう交渉事は英語よりも現地語の方が良いんだってパパも言ってた」

 思えば、若菜は大学時代から語学能力が高かった。留学前にドイツ語をヒイヒイ言いながら勉強していたさやかは、彼女の能力を常々羨ましく思ったものだった。


 そこから歩くと、真新しいイツハク・ナヴォン駅にたどり着いた。そこから電車に乗り、いよいよヨセフ・カミンスキの待つテルアビブに向かう。

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