4-1 久々の依頼

 グレイス・ニューイェンのリサイタル成功により、堂島エージェンシーの株は上がり、次々と仕事が舞い込むかと思いきや以前とまったく変わらない状態であった。どういうわけかクラシック課を目の敵にしていた小早川副社長は、何かとクラシック課にプレッシャーをかけてきた。

「いつまでも成功者を気取ってるんじゃないぞ。勝って兜の緒を締めよ、気合入れて次の企画を立てろ!」

 そこにいたのはさやかと前田課長ほか数名。高橋は副社長が来る気配を、動物的直感で嗅ぎとり、席を外している。副社長はまるでそれが自分の仕事ととばかりにグダグダと説教を垂れる。さやかだって、言われずとも必死になって海外の音楽雑誌を繰りながら企画のネタを探しているが、そうやすやすと見つかるものではない。

(そう言えば、今頃グレイスさんはどうしてるかな……)

 コンサートが成功に終わってしばらくして、グレイスからさやかにメールが届いていた。あれから実の父親であるグェン・ヴァン・タンとは度々会うようになったらしい。タンがベルガミーニ家を訪れ、家族全員と撮った記念写真がメールに添付されていた。ちなみに、グレイスの実母であるブー・フアンはタンとは別居状態で、ニュージーランドに行ったまま音信不通の状態だと言う。さやかは彼らの家族写真をしばらく眺めた後、また音楽雑誌に目を通した。何か見落としがあるかもしれない。しかし、何度見ても目ぼしい記事にはぶち当たらない。袋小路だ。そう言えば、ドイツ語でも行き止まりをSackgasseザックガッセと言う。直訳すれば袋の小道、日本語と全く同じ。いったい語源はどちらなのだろうかとさやかが思い巡らしていると、来客があるとの知らせ。

「矢木、コンサートの依頼らしい。お前も立ち会え」

 前田課長は鼻先を振って合図する。さやかは久々に仕事らしい仕事が舞い込んで来て少し浮き立つ。


 待合室では、スーツ姿の老人が座っていた。長尾と申します、と来客は自己紹介した。勤め人ならもう定年に達している年頃だろうか、事業家や文化人にも見えない。

「長尾さん、コンサートのご依頼とのことですが、どのようなイベントをご所望でしょうか?」

「はい、平たく言えば刑務所での慰問コンサートということになります。それも歌謡曲やポップスではなく、クラシックコンサートで……」

「 刑務所ですか……なるほど。しかし、そういう場合アーティスト側がボランティアでなされると聞きましたが、私共に依頼となりますと費用が発生いたしますよ」

「ええ、それはもちろん承知の上です」

 長尾は居ずまいを正して、改まった調子で話をつないだ。「実は私、つい先日まで無期刑で磯原刑務所に収監されておりました」

「えっ……」とさやかは思わず声を出しそうになって、あわてて口をつぐんだ。前田課長も驚きを顔色に出さないように努めてはいるものの、狼狽は隠せない。そのようなリアクションには慣れているのか、長尾はにこやかに語る。

「恥ずかしながら、若い頃につい魔が差してしまいまして人を殺めてしまったのです。それで裁判で無期懲役刑が言い渡され、磯原の方でお世話になりました。もう一生そこで過ごすものと思っておりましたが、何の巡り合わせでしょうか、この歳になって急に仮釈放が言い渡されましてですね、今に至っているわけです」

「それはそれは……しかし、随分と長い懲役でしたね。無期懲役でもだいたい15年くらいで出て来れると聞きましたが……」

「それは昔の話です。今はどれほど早くても三十年は出て来れません。しかも無期受刑者のうち、仮釈放が言い渡されるのはほんの一握りです。昔は暴力団員が〝お勤め〟などとうそぶいて刑務所に入ったりしましたが、このご時世、これだけ厳しくなりますと、なかなかそうも言っておられません。そういう事情で、昔は暴力団が出資して収監されている団員のためにタレントさんを慰問に派遣させたりしていましたが、今はタレントさん本人の善意によらなければならず、段々そのような慰問も減って来ました」

「長尾さんが慰問コンサートを開きたいとおっしゃるのは、そう言ったご事情なのですね」

「そうです。それに刑務所の心理技官の先生が言ったことがあったのです。刑務所でクラシック音楽を聞く機会があれば、受刑者の情緒面でプラスになると。……私、出所してみたら亡くなった親からの遺産がかなりあることが分かったのです。でも、今更贅沢しようなんて気も起こりませんし、使い途に困っておりました。そうして考えている内に、この刑務所でのクラシック慰問コンサートを思いついたのです。もちろん初めは自分の足でアーティストを探そうとしましたが、何しろこの歳でろくに体が動かんのです。そんな時、堂島エージェンシーさんのお話を聞いたのです。コンサート開催に関しては難しい案件でもやってのける業者さんだと……」

「恐れ入ります」

「そういうわけで費用の方は心配ありませんので、どうかお引き受け願えませんか」

「……わかりました。この件、お受けいたします」

 調子のいいこと言って……またこの男はまた無理難題を自分に押しつけるつもりなのだと、さやかは嘆息した。

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