第四章 憾(うらみ)

4-0 プロローグ

1943年10月14日 ソビボル強制収容所・ポーランド



+++


 ユゼフ・グレツキが、膝頭でピアノを弾く真似をしながら鼻歌を歌っていると、母親のヨアンナが小声でたしなめた。

「しっ、静かにおし。看守に目をつけられたら大変よ」

 周りの囚人たちも親子を一瞥する。彼らの目には希望の光はなく、ただ一日をどうやって無難に過ごすかという一点に、関心の的は絞られていた。しかし、7歳のユゼフは酷い環境であることは自覚していても、どれほど絶望的な状況にいるのか、本当の意味では理解していなかった。その上、この日はどこか平穏な空気さえ感じ取っていた。

 それもその筈、この日は所長であるフランツ・ライヒライトナー親衛隊大尉とその片腕グスタフ・ヴァグナー親衛隊曹長が不在で、他の看守たちはうるさいお目付役がいないことでどこか羽を伸ばしてノビノビしていたのだ。それが囚人たちにも伝わっていた。

 そしてこの日を待ちに待って虎視眈々と脱走を図る者たちがいた。レオン・フェルトヘンドラーとアレクサンドル・ペチェルスキーをはじめとする5人の囚人たちだった。彼らは昼過ぎになって、看守たちの動きが緩漫になったのを見て取ると、早速行動に移った。看守をうまく隠れたところにおびき出し、次々に殺害した。さらに武器庫を襲い、多くの銃を奪い取った。


 その日の夕方、定時の点呼に赴いたユゼフ少年は、朝礼台に立つ人物を見て驚いた。そこにいたのは親衛隊員ではなく、囚人の一人ペチェルスキーだったのだ。

「ここにいても、我々を待つのは死のみ。ならば、命を賭して自由を勝ち取ろう!」

 ペチェルスキーの演説に賛同した者はすぐさま彼のもとに集結し、戦いの心得のある者は武器を取った。ユゼフも彼らについて行こうとしたが、ヨアンナがその手を引き止めた。

「勇み足は危険だわ。モーセの帰りを待てずに偶像崇拝をしたイスラエルの民を忘れたの?」

「待ってても死ぬだけだよ、あの人の言うとおりだよ。母さん、一緒に行こう!」

 だがヨアンナは被りを振った。

「いけない。神の助けを待ちなさい」

 しかしユゼフも譲らない。どうしても行かないと言うなら自分一人でも行くと言い張るので、ヨアンナも脱走に加担することに決めた。


 こうして約600人の囚人たちが一斉に収容所の門に殺到した。驚いた看守たちは銃撃したが、指揮系統が機能していなかった彼らは、命がけで逃げようとする脱走者たちの銃弾によって返り討ちにあった。脱走は成功したかのように見えた。ところが、収容所は地雷原に囲まれており、脱走者たちは次々に地雷の餌食となった。幸か不幸か足の速くなかったユゼフ親子は、前衛の様子を見ながら爆発しない安全な道を選び進むことが出来た。

 とりあえず安全圏まで脱出できたのは、約半数の300人ほどであった。ナチス親衛隊の目を避けながら、幾つかのグループに分かれて港町グダニスクまで歩いた。ところが港についてみると、脱走者のために用意されたリトアニア行きの船は既にいっぱいで、あとユゼフ一人が乗るので精一杯だった。

「僕、後の船を待つよ。それで一緒に逃げよう!」

「ユゼフ、次の船はいつ来るかわからない。その間にナチスに見つかるかもしれないわ。だから……あなたがまず先に乗りなさい」

「そんな……嫌だよ、ママと一緒がいい!」

「必ず後から行くわ。リトアニアで待っていて」

 ユゼフには考える時間は残されていなかった。それでも精一杯考えて、先に船に乗ることを決意した。

「うん……わかった。絶対に来てね、きっとだよ」

「ええ。それとユゼフ、……何があっても、誰も恨まないでね。人を恨んで生きて行くのは苦痛でしかないわ」

 その時、船が出発する合図が出された。ヨアンナは息子に行くように目で合図し、ユゼフは船に乗り込んだ。なんとか確保出来た場所からは見送る母の姿が見えなかった。

(誰も恨まないで……か)

 ユゼフはつい父親のことを思い出した。自転車の練習に付き合って欲しいとねだると「明日、仕事から帰ったら見てやるよ」と約束した父。翌日、今か今かと父の帰りを待ちわび、やっとドアが開いたと思ったら……そこにいたのは軍服姿の男たちだった。

(あの時、パパがもっと早く帰って来てくれたら……こんなことにはならなかったのに!)

 ユゼフは幼いながらに、そんな恨みごとを胸に秘めた。だが、その時彼はまだ知らなかった。ユゼフとヨアンナが、父親の密告によって逮捕されたことを……。

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