3-16 誇り

 高橋のさす指が四点イ音に近づくにつれ、さやかの心臓の鼓動は高まった。そして……



 その音は鳴った。透き通るベルのような響き。かつてデュッセルドルフのピアノに合わせて整音されたハンマーは、驚くほどこのピアノに適合していたのだ。グレイスの師匠、ルイジ・ベルガミーニが酷評を得たピアノと好評を得たピアノ……蔵野が整音したハンマーは、その二つを結び合わせたのだ。それも愛弟子であるグレイス・ニューイェンの手によって。さやかは歴史的瞬間に遭遇している実感に心を震わせ、演奏が終わると手の皮が擦り剥けるほど強く拍手した。


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 大成功のうちに全てのプログラムが終了した。帰ろうとする客たちの中に鶴見惣五郎の姿があった。今度は誰も付き添わず一人でいたので、さやかは声を掛けた。

「鶴見さん、今日はお越し下さりありがとうございましたっ!」 

 ペコリと頭を下げるさやかに鶴見はにこやかに応える。

「感謝したいのはこちらの方ですよ。……こんなに素晴らしいピアニストを育て、送り出してくれたベルガミーニ氏にね」

「えっ、じゃあ……」

「数十年前、ベルガミーニ氏は鳴り物入りのホープとして私の前に現れた。そして……いたく失望させた。それで私はあのように厳しい評価を下しましたが、思いのほかダメージを受けられたようで、私も少しやり過ぎたかと気になっていました。でも今回、精進し成熟した音楽家として、一人の愛弟子を遣わしてくれた。本当に感謝に堪えないです。機会があれば、是非このことをお伝え下さい」

 鶴見は深々と頭を下げて、帰って行った。さやかは感無量だ。その時、一人の男が花束を手にしてさやかに近づいて来た。よく見ると、休憩中ホワイエでぶつかった、あの男だった。

「これを、グレイス・ニューイェンに渡していただけませんか?」

 カリフォルニア風の英語だった。

「もちろん結構ですが、まだいるのでご本人でお渡しになってはいかがですか?」

「いえ、私にはあの娘に遇う資格はないのですよ……」

 どこか寂しそうに一礼して男は去っていった。さやかは早速それをグレイスに届けた。

「まあ……綺麗な花束。どんな方かしら?」

 グレイスは花束に添えられていたカードを見た。するとそこには日本語でこのように書かれていた。


──芸は身を助く──


 グレイスはハッとなり、花束をスタッフに手渡すと、部屋から駆け出して行った。何が起こったかと思い、さやかはその後を追いかけた。グレイスはドレスを着たまま会場から飛び出して、花束の贈り主を探した。するとその男は地下鉄の入口をまさに降りようとするところだった。

「チャー(お父さん)!」

 グレイスは大声で呼びかけた。しかし男はそれが聞こえていないかのように階段を降りて行った。さやかは地下鉄の入口までダッシュして、何とか男を捕まえようとした。しかし、激しく走ったためにヒールが折れてしまい、それ以上進むことは出来なかった。

(もう、どうしてこんな時にっ!)

 さやかが靴に恨み言を言っていると、地下鉄の入口からあの男が再び現れた。その横には見覚えのある……レゲエおばちゃんがいた。彼女は男の手を引いてグレイスの元へ連れてきた。男は気まずそうに、それでもしっかりとグレイスの目を見て言った。

「フエ……すまなかった。私はおまえに〝お父さん〟などと呼ばれる資格はない……」

 グレイスは両目に涙を溢れさせた。

「お父さん。私は子供の頃、あなたが怖かった。でも、誇りに思っていました。その気持ちは、今に至るまでずっと変わりません……」

 その男……グェン・ヴァン・タンも大粒の涙を流した。そして自分の上着を娘に着せてやり、その上から固く抱きしめた。


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「音楽新報のゲラが送られて来たぞ!」

 前田課長がクラシック課のメンバーを集めた。それは、グレイス・ニューイェン ピアノリサイタルへの鶴見惣五郎の批評記事だった。前田課長はそれを声高に読み上げた。


「テクニックの素晴らしいピアニストはごまんといるが、我々音楽鑑賞を生業とする者は、

腕自慢ピアニストには若干食傷気味になっているかもしれない。しかし、このグレイス・ニューイェンという若きピアニストに出会うと、いかにテクニックがピアノ演奏にとって重要な要素か思い知らされる。彼女は若いが、年配者の豊富な人生経験をも凌駕するような、豊かな音楽性を持っている。ただ、それが我々聴衆に伝わるのは、秀逸なテクニックがあってこそである。心に伝わる深い音楽を、一点の曇りもなく味わえた最高の夜であった」


 それを聞いた一同は湧き、万歳三唱となった。堂島社長もやって来て、彼らを讃えた。

「君たちは良くやってくれた。これは会社にとっては一大快挙だ。金一封出すから、みんなで美味いものでも食べて来なさい」

 クラシック課のメンバーはさらに喜び湧き上がった。そしてさやかは「歌舞伎町のシエスタというキャバクラにしましょうっ!」と提案した。無論マイのピアノが目当てなのだが、事情を知らぬ者はさやかがキャバクラに行きたいなどと言うので目を丸くした。


🥂


 その夜、歌舞伎町のシエスタには鶴見惣五郎が来店していた。そしてその席には、ピアニストのマイも座っていた。鶴見は刷り上がった記事のゲラ刷りをマイに見せた。

「……とても素晴らしい記事だと思います。これ……やっぱり、ベルガミーニ氏への負い目のためですよね?」

「いや、負い目の返上だなんておこがましいことは考えていません。ただ、一人の才能に花道を備えられれば幸いだと思っただけですよ。それにしても、さんには色々お世話になりましたね。……あの杵口氏がゴネた時はどうなるかと思いましたが、よく説得出来たものです」

「本当はあんな手は使いたくなかったんですけど……私が北嶋安恵の娘だと言ったら……すぐに首を縦に振ってくれました」

「ははは、なかなか少年の頃の慕情というのは、忘れられないものですね。でもあなたもどうですか、グレイス・ニューイェンが実の父親と再会したのを見て、羨ましくなったのではありませんか?」

 すると、はさっと顔を曇らせた。

「やめてください。今回は鶴見さんのたってのお願いということでこのような成り行きとなりましたが、私はあの人の前には現れないつもりです。……あの人の言う、〝一握り〟の人間になるまでは」

「そうですか。……でも、デビューなさる時は是非声を掛けて下さい。〝一握り〟になるためのお手伝いくらいはさせていただきますよ」

 鶴見はそう言って、ストレートのウィスキーを一気に飲み込んだ。


第3章 終

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