3-15 適合

 さやかは鶴見たちに気づかれないように、物かげからそっと彼らを観察した。彼らにどんな繋がりがあるのだろうか? もっとも、歌舞伎町のシエスタという店の常連客とお抱えピアニストであるから、知己があっても不思議ではない。だが、マイは果たして自分たちの味方なのだろうか、それとも……などと考えごとをしていると、誰かにぶつかった。見ると、小柄な初老の男で、さやかとの衝突でよろけて倒れそうになった。さやかは慌ててその男を支えた。 

「す、すみませんっ! 大丈夫ですか!?」

 態勢を立て直した男は何でもないと言うように手を振った。

「Never mind(お気になさらずに)」

 どうやら日本人ではないらしい。男が弱々しく立ち去ると、後半プログラムの予ベルが鳴った。


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 後半はリストの三つの演奏会用練習曲から始まる。前半で弾いた「二つの……」と休憩を挟んで分けられているのは、前半と後半の選曲のコンセプトが異なるためである。前半は「あなたの内面的な世界観が欲しい」というさやかの要望に応えて、グレイス本人が選曲したものである。後半プログラムはもともと柿本音楽事務所の企画にあった曲目で、「彼女の持つピアニスティックな美を生かす」というコンセプトのもとに選曲されていた。ちなみに全プログラムの作曲年代は、1908年、1848年、1862年、1844年と、順を追うごとにさかのぼる並びとなっている。

 後半でグレイスは、それまでの地を這うような演奏姿勢をやめて、凛とした背筋を伸ばした姿勢で弾き始めた。三つの演奏会用練習曲は「悲しみ」と名付けられた第一曲で始まる。グレイスはその年齢にしては多くの悲しみを経験した方だろう。しかしそれは、自己憐憫から生ずる、聞き手に憐れみを求めるような悲しみの表現ではない。それはあたかと彼女自身から独立した悲しみという人格が躍り出ているようだった。


 そして、第2曲と第3曲ではきらびやかなピアニズムが展開される。さやかはやはり先日の銀座の楽器店でのダン・チャイン演奏を思い出さずにはいられない。民族楽器の心得のあるピアニストが、をピアノ演奏においてあまり前面に出すのは、かえって卑しく感じられもする。グレイスももちろん、ピアノをダン・チャインっぽく弾こうなどとあざとい真似はしていない。しかし音楽はその人全体が生み出すものであるから、ダン・チャインからあのように輝かしい音色を引き出すグレイスならではの響かせ方がある。


 第3曲「ため息」の後、拍手とともにグレイスが立ち上がるが、下手しもてには引かずにそのまま座ってショパンのソナタ第3番に入った。引き続きビアニスティック路線で行くかと思いきや、出たしの和音をズドーンと重たく弾いた。ところどころ〝タメ〟があり、デュナーミクの幅も広く取って明暗をクッキリさせている。そして、23小節目フォルテピアノの、低音が半音階上昇するところでは、またあの這うような姿勢を取った。それがなんともおどろおどろしく、29小節目で解決するまでが長く感じる。第一楽章と第二楽章の間、咳き込む音に混じって高橋が言う。

「こんなソナタ、聞いたことねえぞ……」

 さやかは高橋ほどこの曲を聴き比べてはいないのでわからないが、少なくとも奇をてらうような解釈やクセがあるわけではない。しかし、これほど聴いて心を騒がれる演奏は他にはないだろう。この焦燥感……さやかはどこかで感じた覚えがある。どこだろう……そう考えながら最終楽章に差し掛かった時、ふと思い出した。そうだ、ドストエフスキーの「罪と罰」だ。罪に苦しみ、自首を決意するラスコーリニコフの葛藤……この演奏からはそんなスピリットが滲み出ていた。無論それはさやかの主観である。だがグレイスはどうしてこのソナタにそんな精神性を込めたのだろう、とさやかは疑問に思う。最後は長調になって華やかなハッピーエンドを迎えるのだが、この重苦しい空気に圧倒された聴衆は、演奏が終わってもしばし拍手も忘れて呆然としていた。そのうち、一人、二人とパラパラ拍手が鳴り出し、やがて大きな喝采となった。一旦始まると鳴り止まない拍手。グレイスは舞台袖とピアノの間を何度か行来して、アンコールの演奏に入る。予定通りプロコフィエフ「タランテラ」と、ヴ・ニャット・タン「孤独」が演奏されたが、聴衆はまだまだ満足する様子ではない。そこで、グレイスはピアノの椅子にもう一度座った。

「トオル・タケミツ、『フォー・アウェイ』」

 そう言ってグレイスは再び鍵盤上に手をかざす。日本人作曲家の作品を演奏するのはある種の礼節と捉えたのかもしれない。ところが高橋が小声で「まずいな」と囁いた。

「何がまずいんですか?」

「蔵野氏はこのハンマーは最高音80鍵以上は適合しない可能性が高いと書いていただろ。武満徹の『フォー・アウェイ』は四点イ、つまり最高85鍵目まで使うんだ」

 そう言って高橋はタブレットで「フォー・アウェイ」の楽譜を映し出し、問題の箇所を指摘した。

「ええっ、て言うかコンサートではちゃんと電源切って下さいよっ!」

「しっ、声が大きい。これはオフラインの機種だから大丈夫なんだよ。それより、演奏が始まるぞ」

 グレイスが弾き始めた。正直なところ、さやかには現代音楽は理解出来ない。しかし高橋はご丁寧に譜面上でどこを弾いているか指で追って示した。そして数分後、演奏はいよいよ問題の箇所に差し掛かろうとしていた。

(どうか、四点イの音がちゃんと鳴ってくれますようにっ!)

 さやかは祈るような気持ちで、その音が鳴るのを待った。

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