3-14 雨の本番

── § ──


グレイス・ニューイェン ピアノリサイタル


プログラム



ドビュッシー 子供の領分

リスト 二つの演奏会用練習曲


リスト 三つの演奏会用練習曲

ショパン ピアノソナタ第3番


── § ──


 この他、アンコールとしてプロコフィエフの「タランテラ」と、ベトナムの作曲家ヴ・ニャット・タンの「孤独」が用意されていた。


 演奏会当日は生憎の雨だった。土砂降りというわけではないが、一般的に着飾って出かける人の多い日本のクラシックコンサートでは、雨はしばしば厄介なシロモノである。傘をさしたところで、どうしても袖や裾は濡れるし、傘を畳むときに飛沫がかかったなどと他の客とのトラブルもないわけではない。さらに心ないディレッタントたちが、雨の日は響きが悪いなどと大声で呟いて、せっかくの気分を壊してくれたりする。


 さやかは車で迎えに行くと申し出たが、グレイスはそれを断り、雨の街を一人歩いて行きたいと言った。しかしさすがに万が一ということもあるので、さやかがホテルから会場まで付き添った。

「カリフォルニアではほとんど雨が降らないんです」

 歩きながらグレイスが語る。「だから、雨が降るとなんだか嬉しくなる。雨が続くと草が生え木の葉も青々として、街全体に生命がみなぎってくる……」

 そう言ってグレイスが傘を下ろしそうになったので、さやかは慌ててそれを支える。雨が降って喜ぶ筈の緑は、この都会ではコンクリートに覆われている。雨に反応した土壌の発する匂いが、まるで植物たちの気持ちを代弁して呻いているようにも感じる。


 二人が到着すると、既にホールのスタッフが会場設営に勤しんでいた。傘袋やマットなどが既に設置されていて非常に手際が良い。さすがは国内屈指のコンサートホールと言うだけあってスタッフの意識も高い。

「おはようございます」

「おはようございます、今日は宜しくお願いします」

 さやかがスタッフに挨拶すると、グレイスは不思議そうな顔をする。

「〝おはようございます〟は朝の挨拶だと聞きましたが、夜なのにどうしておはようございますと言うんですか?」

「日本では、出勤する時は夜でもおはようございますと挨拶することが多いんですよ。とりわけ、舞台関係の仕事の場合はほとんどそうですね」

「それは……何かいわれがあるんですか?」

「聞いた話だと、日本の伝統芸能である歌舞伎に由来があるそうです。舞台の日に、裏方さんよりも早く楽屋入りして稽古する熱心な役者さんがいたそうですが、後から来た裏方さんが『お早いお着き、ご苦労様です』と役者さんに労って言ったのが始まりだと言われています」

「へぇ……興味深いお話です」

 グレイスはそのことが気に入ったようで、スタッフと顔を合わせる度に「おはようございます」と日本語で挨拶して回った。

 舞台では杵口がピアノの調整を仕上げていた。さやかとグレイスの姿を見ると一礼した。マイの〝口添え〟が功を奏したのか、前回逢った時よりも随分と腰が低い。

「調律はもう大分安定してきました。レペティションスプリングが新しいハンマーに馴染むまで時間を要しましたが、もう落ち着いてきた感じです」

 専門用語がなんのこっちゃわからないので訳せなかったが、ともかく大丈夫なのだろうということはわかった。杵口が工具を置くと、グレイスは試弾してみた。ショパンのソナタ第二楽章スケルツォだった。コロコロと転がるような明るく諧謔的な曲調。グレイスを見ると、とても気持ち良さそうに弾いているのが感じ取れる。まさに吸い付くように、という表現に相応しく、鍵盤はスムーズに動き弾き手にストレスを感じさせない。転じて中間のロ長調の部分では瞑想的な色彩感を放つ。グレイスは弾き終わると「パーフェクト!」と言って満足そうに微笑んだ。


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 本ベルがなり、固唾を飲んで待つ聴衆の前にグレイスは現れた。グレーと紫を基調としたドレスに身を包み、颯爽とピアノに向かう。そして椅子に腰掛けたかと思うと姿勢を低め、まるで地面に這いつくばうように上半身を鍵盤上にかざした。YouTubeで見た、あの独特の姿勢だ。その姿は地に臥せって獲物を伺う野生の生き物のようだった。

 そうして最初の曲、ドビュッシー「子供の領分」から「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」を弾いた。さやかは驚いた。先日試弾した時とはまるで別物だった。この前はいかにも機械的で無味乾燥な音の羅列だったが、今目の前に広がるのは、次から次へと噴出するシャボン玉のように幻想的な音の光景だった。そしてそれを奏者は子供のように心を躍らせて見ている。それを聴く者は子供の頃に感じたワクワクやドキドキの世界に惹き込まれる。しかし、グレイス自身は幼少の頃、そんな子供らしい体験を享受することが出来なかった。両親から虐待を受け、当局によってその両親からも引き離された。そして施設でも里親のもとでも他人行儀で、素直に甘えることも叶わなかった。そんな彼女が表現するのは言わば「子供の憧憬」だ。

 ドビュッシーが終わると拍手に送られて、一旦グレイスは下手に戻り、再び現れると今度はリストの二つの演奏会練習曲。第一曲目の「森のささやき」……まさに彼女の心の森からの誘いの声だ。そこで起こる森羅万象が多彩な音色で繰り広げられる。彼女はデュナーミクを物理的な音量の大小よりも音色で弾き分けるタイプだ。彼女の奏でる音は総じて豊かで、ピアニッシモであっても1番後ろの客席まできちんと届く。もしあのままハンマーが交換されていなければ、彼女もまたルイジ・ベルガミーニと同じように、単にうるさいピアニストとして酷評されていたかもしれない。


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 リストの二つの演奏会用練習曲が終わると一旦休憩に入った。演奏も上々、観客の反応も良い。まだプログラム半ばだが、スタッフ控室は祝勝ムードだった。そこに営業の黒田がやって来た。

「鶴見惣五郎さんがホワイエにいたぞ。矢木、挨拶しておいた方がいいんじゃないか?」

「そうですね、行ってきます!」

 さやかは控室からホワイエに出た。見ると、鶴見はバーで飲み物を買っているところだった。さやかは声をかけようとしたが、はたと足を止めた。鶴見はシャンパングラスを二つ手にしていた。誰か連れがいるに違いない。

 鶴見が向かったテーブルには、パーティードレス姿の若い女性が待っていた。鶴見がグラスを渡すと彼女はにこやかにそれを受け取った。

(あらあら、お盛んなことで……)

 と思い、彼女の顔をよく見てさやかは目を丸くした。

 鶴見とシャンパングラスを交わしていたのは、マイだったのだ。

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