3-13 試弾

 試弾を終えたグレイスが、浮かない顔で言った。

「The Piano is not in good condition, right? Will it get better later?(ピアノがまだ本調子じゃないようですね。そのうち良くなりますか?)」

 すると杵口は「イェス、イェス」とペコペコしながら言う。杵口の対応はどこか対岸の火事だ。国内屈指の一流ピアノ技術者と聞くが、グレイスが直面している問題を考えると、今回の仕事は荷が勝ち過ぎているのかもしれない。とその時、ホールの係員がダンボールを抱えてやって来た。

「あの、調律担当の方宛に宅配便が届いたんですけど……」

「……という事は、僕に?」

 杵口はダンボールを受け取り、工具カバンからカッターナイフを取り出して開封した。

「何だこれは!?」

 杵口は眉をひそめる。さやかたちも箱の中を覗いてみた。中身はグランドピアノのハンマーが全鍵分ゴッソリ入っていた。そして、一通の手紙が添えられており、そこにはこのように書かれていた。

[親愛なる調律担当者殿。お送りさせていただいたのは、数十年前にデュッセルドルフでルイジ・ベルガミーニのコンサートに使用したハンマーである。これはルイジ・ベルガミーニのタッチに適するよう特別に整音したものである。是非、今回のグレイス・ニューイェンの弾くピアノに取り付けていただきたい。必ずや、彼女の長所を最大限に発揮するであろう。無論、最高音80鍵以上は整音が適合しない可能性が高いが、今回のプログラムではそこまで高い音は使用されていないので問題なかろう。 蔵野江仁]

 手紙を読んだ杵口は途端に不機嫌になった。

「またあの蔵野が……不躾にも程がある!」

 さやかは恐る恐る尋ねてみた。

「その……ハンマーを取り付けるのってそんなに大変なんですか?」

「グランドピアノのハンマーは根本の部分をネジ止めしているだけだから、交換取り付けそのものは大した作業ではない。しかし、ハンマーを取り替えると、整調作業のほとんどの工程をやり直さなければならない。それにはまる二日かかるんだ」

「それは大変お手数ですが……お願い出来ませんか?」

「断る。面倒だからと言うのではない。他ならぬ蔵野の頼みだからだ。あいつの言うことだけは聞かない」

 そう言って杵口はダンボール箱を舞台上に置き去りにしたまま帰ってしまった。幸いにしてグレイスには日本語が理解出来ず、何が起こったのか分からず、杵口の不機嫌もさして気に留めなかった。


|| ||| || |||


「しかし厄介なオッサンたちだな。杵口も、蔵野も……実在すればだけど」

 高橋は何を履き違えているのか、目上の人間を呼び捨てにして呟く。とは言えさやかもそれは同感だ。いい歳したオッサンどもの確執に振り回されるのは迷惑極まりない。

「でも、あの杵口という人を説得出来ないと、どうしようもないわ……」

 さやかがひとりごとのように言うと、電話がかかってきた。グレイスからだった。

「すみません、さやかさん。楽譜が沢山売っている店、知りませんか?」


 グレイスは武満徹や矢代秋雄など日本人作曲家の楽譜をいくつか買い求めたいとのことだった。それでさやかは銀座の大型楽器店にグレイスを案内した。


 楽譜売り場は三階にあったが、二階は管弦楽器の売り場となっており、その一角に民族楽器が並べてあった。

「ちょっと見ていいかしら?」

 グレイスがそういうので、さやかはうなずき、二階に足を踏み入れた。民族楽器コーナーには琴や二胡と並んで彈筝ダン・チャインも展示されていた。グレイスはそれを見て顔をしかめた。

「ちょっと……状態が良くないみたい」

 グレイスはコーナーを囲っていたロープを乗り越えて、展示されているダン・チャインに触れた。それを見た店員──制服を着た若い女性が、顔面蒼白になって近づいて来た。

「お客さま、恐れ入りますがお手を触れないようにお願いします」

 言葉遣いは穏やかで丁寧だが、顔を見れば苛立っているのはよく分かる。放っておけば上司の小言、対応を間違えれば客の機嫌を損ねて騒がれる。経験の浅い店員にはストレスだ。さやかは彼女の立場をおもんばかって自分の名刺を出した。

「堂島エージェンシーの矢木と申します。すみません、彼女は私共が招聘したアーティストでして、もし宜しければ私の方から店長さんと直接お話しさせていただきますが……)

「……少々お待ち下さい」

 若い店員は名刺を持って、店長を呼びにバックヤードへと入った。その間にもグレイスは黙々と楽器を調整している。そして、店長が出てくる前に演奏を始めてしまった。それを聴いてさやかは息を呑んだ。あまりに美しい。YouTubeで聴く音とは比べものにならなかった。そして、周りにいた客たちもグレイスを囲んでその演奏に聞き耳を立てた。バックヤードから出て来た店長もポカーンと見惚れている。そして上の階からも、何人か降りてきた。そのうちの一人に見覚えのある人物がいた。先日キャバクラでピアノを弾いていたマイだった。

「マイさん! こんなところでお会いするなんて……」

「あ、矢木さん、こんにちは。本当にすごい偶然ですね。あの方、グレイス・ニューイェンさんですよね? ダン・チャインを弾いているところに遭遇するなんて、これは貴重な体験ですね……」

「ええ、楽譜を探すということでこの店にご案内したんですけど、こんなことになってしまいまして……」

 苦笑するさやかに合わせてマイもフフフと笑う。

「ところで、蔵野江仁への依頼はうまくいきました?」

「それがですねぇ……」

 さやかはこれまでの経緯を話した。蔵野がハンマーを送ってきたが、杵口がその取り付けを拒んでいることまで……。

「あの杵口さんがそんなことを……私の方からちょっとプッシュしてみましょうか?」

「え、マイさんって杵口さんともお知り合いなんですか?」

「まあ……ちょっと昔の腐れ縁と申しますか……とにかくお話ししてみます」

 マイはそう言うと、階下に降りて行った。


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 その翌日、会社に杵口から電話があった。

「この間は大人気ない態度を取ってしまい、大変失礼しました。例のハンマーの取り付けの方、させていただきます。その際、作業時間分の技術料が上乗せされますが、よろしいでしょうか」

「ええ、もちろんです。ありがとうございます。先に見積書の方だけお送りいただけますか?」

 電話を置いてさやかはホッとしながらも不思議な気持ちになった。

(マイさんて……蔵野さんや杵口さんを知っているばかりでなく、こうもアッサリと用件を飲み込ませてしまうなんて……いったいどんな人なんだろう)

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