3-12 代用

 そうして相変わらず蔵野からは音沙汰がないまま、リサイタル本番の日は近づいた。いよいよグレイス・ニューイェンが来日する段になって、会場となるヨントリーホールから思わぬ知らせがもたらされた。

「大変申し訳ありません、実はご使用になられる予定だったピアノが使えなくなってしまいまして……」

 話によると、一昨日、新島志乃という作曲家の初演コンサートが行なわれたのだが、その一つにプリペアドピアノによる作品があった。そのプリペアドピアノの設定が特殊で、薄いガラス玉を数カ所置くよう指示があった。ところが、そのガラス玉の一つが演奏中に割れてしまい、破片がピアノ内部のアクション部分まで入り込んでしまった。それで鍵盤が全く動かなくなり、ピアノは修理に出されるというハプニングがあった。修理業者によれば、ガラス破片の完全除去には時間がかかり、グレイス・ニューイェンの演奏会には間に合わないという。

「使えなくなったってそんな……他にピアノはないんですか?」

 さやかは悲観的になりそうな気持ちを抑えて尋ねた。

「当ホールには他にベーゼンドルファー・インペリアルとプレイエルのサロンモデルがございます。ピアノソロのリサイタルとなりますと、選択肢としてはベーゼンドルファーになりますが……」

「では、それでお願いします」


 とりあえずピアノはある。問題はないかと思いきや、そのことをグレイス・ニューイェン側に伝えたところ、グレイス本人が異を唱えた。

「すみません、さやかさん。以前ベーゼンドルファー・インペリアルでコンサートを行ったことがあるのですが、97鍵あるとなんだか間隔が狂ってしまうようなのです。その時は一曲目を間違えて転調して弾いてしまって、とても苦労しました。幸いそのことでかえってご好評いただくことにはなったのですが……やはりピアノは88鍵のものをお願いします」

 さやかたちスタッフは頭を悩ませた。ヨントリーホールには他にはプレイエルのサロンピアノしか残っていない。これではピアノソロで大ホール全域を響かせることは出来ない。話し合った結果、スタインウェイD型を何処かで借りて来るという方針を取った。首都圏にはコンサート用にピアノを貸し出す業者は沢山ある。ところが、いざ問い合わせてみると、意外にフルコンサートピアノを貸し出せる業者は少なく、関東、東北、中部の業者も問い合わせたが、スタインウェイD型が当日借りられる業者は結局見つからなかった。

 そこで、他のコンサートホールの備品で当日借りられそうなものを探してみた。すると関東某県にある須ヶ並大学講堂の備品で、当日使用される予定のないスタインウェイD型があることが判明した。交渉役には営業課の黒田が再び抜擢されたが、別段営業トークを要さずともスンナリと承諾された。

「しばらく調律はしていませんが、譲渡前は一流のコンサートなどでも使用されていたようですから、問題なく使っていただけると思いますよ」

 さやかはそれを聞いてホッとした。それはクラシック課の他のメンバーも同じだった。


 ヨントリーホール専属のピアノ技師である杵口直彦は、須ヶ並大学でのメンテナンス状況を考慮して、少なくとも本番の一週間前には搬入するよう勧めた。ピッチが下がっているピアノを急に高く調律すると、本番中に狂う可能性が出てくるため、予め調律しておいて本番までに楽器を慣らす必要があるというのである。

 それについて須ヶ並大学側は異存はなく、ヨントリーホールも保管場所は確保出来るとのことだった。演奏者であるグレイスもその点については同意したが、納入調律後に一応ピアノの状態を確認したいと申し出た。グレイスの入国はピアノ搬入の前日であった。

 そして、須ヶ並大学から運ばれて来たスタインウェイが届くタイミングで、グレイスを乗せたハイヤーがさやかたちスタッフを伴ってヨントリーホールに入った。調律担当の杵口は既に現地入りし、スタンバイしていた。しかしさやかや高橋の顔を見た途端、ハアとため息をついた。

「また君たちかね。どうも君たちが一緒だと何か良からぬことが付き纏うな……」

「まあそうおっしゃらずに、よろしくお願いします」

 杵口の憎まれ口にさやかはカチンと来ないわけではなかったが、ここは大人の対応で素直に頭を下げた。ピアノが開梱され、脚とペダルが取り付けられると、杵口は調律に取り掛かった。時間がかかるかと思いきや、一時間ほどで杵口は作業を終えた。

「幸い、ピッチはさほど下がっていなかったよ。これなら当日にもう一度調律すれば本番で安定するだろう。ミズ・ニューイェン、プリーズ・トライ・プレイング」

 そう言って杵口は下手な英語でグレイスに試弾を促した。グレイスは一礼してピアノに向かう。いくつかスケールとアルペジオで指慣らしをした後、ドビュッシーの「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」を弾いた。子供のピアノ練習を模したというこの曲はいかにも無機質に響いたが、さやかは聴いていてどうもおかしいと思った。あまりにも機械的で色彩感に乏しい。高橋の表情を見ると、どうも同感らしい。もしかしてこのピアノ……と思ったさやかはホールを出て携帯を取り出した。

「はい、須ヶ並大学管理部です」

「もしもし、堂島エージェンシーの矢木ですけど、ヨントリーホールにお貸しいただいたピアノについてお聞きしたいことがございまして……」

「ピアノに何か問題がありましたか?」

「そういうわけではないんですけど、あのピアノは譲渡されたとお聞きしましたが、元の所有者はお分かりになりますか?」

「ええ。あのピアノはもともと慶智大学にあった慶智ホールの備品でした。慶智ホールが取り壊しとなった際、私共のほうで譲り受けることになったのです」

「慶智ホール……」

 さやかは愕然とした。よりによってルイジ・ベルガミーニが弾いて酷評を受けた、あのピアノでグレイスがコンサートを行うことになってしまったのだ。

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