3-10 期待

 さやかが隣に座っても、蔵野は無反応で黙々と食べ続ける。……この人、私の存在に気づいていないのか、それともやはり幻? 自らの疑問を確かめるべく、少しお昼には早いが牛丼を注文する。

「すみませーん、と同じものを!」

「はい! 牛丼大盛りでよろしかったでしょうか?」

「はい。よろしくお願いします」

 店員がを認識した。幻ではなかったとさやかはホッとした。すると横から蔵野がボソッと言った。

「ここはカクテルバーじゃないぞ。普通に牛丼大盛りと注文したまえ。店員さんも聞き返さなくてはならなかったじゃないか」

「ああよかった、ちゃんと話し掛けてくれて。もしかしたら幻なんじゃないかと思いましたから……」

「……何の話だ?」

「いえ、こっちの話です」

「……モーセが初めて神とあった時に『あなたの名前は何ですか』と尋ねたが、神は何と答えたか知っているか?」

「さあ……」

「旧約聖書の出エジプト記によれば、『〝私はあるエヘイェ〟と言う者だ』と答えたそうだ」

「……それがこの話と何の関係があるんですか?」

「それは答えられない。関係あると言ったらユダヤの律法に抵触して石打の刑にもなりかねん。そして私は君とも何の関係もない。私は会計を済ませてここを出るから、君は続けて牛丼を堪能したまえ」

 代金を置いて立ち去ろうとする蔵野の袖をさやかはグイと掴む。

「ちょっと待って下さい、お話ししたいことがっ!」

「……断る」

「って、まだ何も言ってないじゃないですかっ!」

「とりあえず、語尾に『っ!』をつけるのをやめたまえ。みんな迷惑がっているだろう」

 さやかが見渡すと、いつの間にか注目を浴びていた。ここは夜の居酒屋ではなく白昼の牛丼屋だ。騒げば自ずと目立ってしまう。さやかが手を離すと、蔵野も座り直して湯呑に残った茶を飲んだ。飲み干すと気を利かせた店員が新しいお茶を差し出した。

「だいたいお察しかもしれませんが、また調律を依頼したいんです」

「まく察した通りだ。引き受ける気はない。帰りたまえ」

「帰りません……っ」

 さやかは語尾に「っ!」と付けたくなるのをこらえた。「今度の依頼はベルガミーニ氏のお弟子さんなんです。ほら、日本公演で評論家にこき下ろされて痛手を受けていたところをあなたの調律のおかげで復帰出来た、あのベルガミーニ氏ですよ」

「ベルガミーニ? そんなピアニストは知らんな」

「私、ピアニストだなんて一言も言ってませんけど」

「なるほど、ミステリーお決まりの『秘密の暴露』というやつかね。揚げ足を取ったつもりかもしれんが、コンサート調律を依頼するのはほぼピアニストだ」

「また屁理屈を……とにかく、ベルガミーニ氏のデュッセルドルフ公演であなたがピアノを調律して、そのおかげでコンサートは成功したんですよね!? しかも、あなたは日本公演での敗因を突き止めて対策を立てたと言うじゃないですか。ネタは上がってるんですからねっ!」

「ネタか……どこで仕入れたんだ?」

「どこからって……」

 と言いかけた時、マイから口止めされていたことをさやかは思い出した。「それはですね……」

「普通、コンサートや録音のピアノ調律を誰がやったかなどという情報は公開されていない。無論、ネットで検索をかけてもほとんどの場合調べがつかない。だが君がさっき言ったような情報は身内か関係者でなければ知り得ないような内容だ。君はそれを誰から聞いたのだ?」

 いつになく食い下がる蔵野に、さやかは尻込みするが、ここは何とか堪えなければと思う。

「ある筋から……としか申し上げられません。一応、音楽業界なので色々な情報源と繋がりがあります」

「なるほど。まあいずれにせよ私には関係のない話だ。……もう行っていいか?」

「ダメですっ! その、ベルガミーニさん、いま若年性認知症でご家族は大変なんですっ! グレイスさんが今母親代わりに家庭を切り盛りしてるんですけど、今回子供たちは家庭のことは任せてって言って送り出してくれたんですっ! なのに、ベルガミーニさんを酷評した鶴見惣五郎という評論家がコンサートレビューを書くことになって……もしまた酷評なんてことになったら、あの家族はどうなるんですかっ!」

「人情話に惑わされるようならプロ失格だな。扶養家族が露頭に迷うのが哀れだからと匙加減を変えていたら、評論家はつとまらんぞ」

 だが蔵野が冷ややかな返答ばかりするので、さやかは悲しい気持ちになった。

「グレイスさんは……父親代わりに育ててくれた師への恩に報いたいんですよ。……そういう健気けなげな娘心、蔵野さんにはわからないんですか!?」

 周りが牛丼に箸をつつく中、さやかがさめざめと泣き出したので、またもや注目を浴びた。そして必然的に蔵野に非難の目が向く。蔵野はその視線の痛みに耐えかねたように言った。

「わかったから、こんなところで泣くのはよしたまえ」

「じゃあ……引き受けて下さるんですねっ!」

 さやかの泣き顔が一転、パッと明るくなった。

「要するに、鶴見の悪評を買わなければいいのだろう。ただし私は例によって指一本動かさない。そして私の指示には余すところなく従ってもらう。いいな」

 笑顔でうなずくさやかの胸で、萎みかけた期待がまた膨らみ始めた。

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