3-9 架空説

 接待そのものは成功したとは言えないが、とりあえず会社への〝手土産〟らしきネタが掴めたことで、黒田は安心した。これをうまく使えば小早川副社長の小言くらいは回避できる。

「じゃあ帰ろう。遅くなったしな」

 待機させていたハイヤーを呼び、黒田はそれに乗り込んだ。ところがさやかは「ちょっと寄るところがありますので」と言って乗車を拒否した。自分でもよくわからないが、どうも黒田と一緒に帰りたくない気持ちだったのだ。新宿駅から電車に乗るが、この時間は酔っ払いが多い。酒臭いだけでなく、多種多様な食べ物から醸し出された息の匂いでむせそうになる。さやかは見えないように小さく折りたたんだハンカチを口に当てて、異臭の吸入を防いだ。こんなことなら脂ぎったオッサンと一緒に車で帰ったほうがましだったと幾分悔やまれた。

 電車を降りるとまず思い切り深呼吸した。汚染された都会の空気も、酔客を寿司詰めにした電車の空気と比べれば森林浴に等しい。そうして気持ちに余裕が出来た時、マイの話したことをあれこれと思い出した。マイは〝友達から聞いた〟と言う前置きで色々と話していたが、そのわりにずいぶん情報が詳しいと思う。それに、最後に言った言葉が気になる。

 ──私が推薦したこと、どうか蔵野には言わないで下さい──

 この発言は、少なくとも蔵野がマイについて知っていることを意味するのではないか。それにしても、蔵野について知れば知るほど謎が深まっていく。

(だからといって関心があるわけじゃないからねっ!)

 さやかは誰にともなく否定を表明してかぶりを振った。


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 翌朝さやかが出社すると、前田課長が神妙な顔つきで頭を抱えていた。

「おはようございます……前田課長、具合が悪いんですか?」

「ああ矢木、実は黒田が『接待は成功しました。後はクラシック課の仕事であって、私の出る幕ではありません』などと副社長に報告したんだ。蔵野とかいう調律師への依頼、大丈夫なんだろうな?」

「まあ……出来るだけやってみますが、相手が相手だけに、当てになるかどうか……」

「おいおい、なんだか頼りない返答だな。この局面で頼りになるのは矢木だけなんだからな、頼むぞ」

 上司の発言としてはいささか無責任に思えるが、おまえだけが頼りなどと言われては頑張らざるを得ない。それにさやかにとってこの件は会社のためだけでなく、快くグレイスを送り出してくれたベルガミーニ家の子供たちのためにも、何としても成功させたい。


 前田課長は少しは気を使ったのか、高橋にさやかを蔵野のもとに送り届けるよう命じた。高橋は「何で有楽町まで車なんだよ」とブツブツ文句を言う。

「そもそも、……前から思ってたんだけど、その蔵野江仁って調律師は実在するのか?」

「……はあ!?」

「ウチの会社で蔵野と会ったと言ってるヤツはお前しかいないし、話を聞いていると、その蔵野の存在自体色々不条理なんだよな」

「何バカなこと言ってるんですか。高橋さんだって蔵野さんの写真見て特殊メイクまでしたでしょっ!」

 確かにそうだけど……と腑に落ちない様子で高橋は顎に手をやる。いきなり浮上した〝エヒトクラング本当は実在しない説〟。あまりに常軌を逸しているが、高橋がそれほどまでに考え込んでいるのを見ると、さやかはもしかして幻を見ているのだろうか、とふと考えてしまう。いやいや、あんな曲者が自分の内面で幻として形成されるなどあり得ない。と思いたい。いずれにせよ高橋にその目で見てもらえればハッキリすることだ。

 

 ところが、パチンコ屋「レクサス」近辺に駐車できるスペースが見当たらず、車は辺りをぐるぐる周回していた。やがて高橋は適当な場所に一旦車を停めた。無論、駐停車禁止の区域だ。

「駐めるところないから、この辺で降りてくれるか?」

「あ、はい」

 さやかが車を降りると、高橋はサッと車を走らせて行ってしまった。さやかはそこからさほど歩くことなく、レクサスにたどり着いた。中に入ると、凄まじい騒音とヤニの粒子が襲ってくる。平日の昼前だというのに、たくさんの人がパチンコ台の前で目を充血させている。明らかにニート風の人もいれば、スーツをパリッと着こなしたサラリーマン風の男たちもいる。商談前の待ち時間をここで潰しているのだろうか。しかし、蔵野の姿が見当たらない。全てのフロアを隈なく探してみたが、どこにも見当たらなかった。

 やはり……と心の奥底から湧き上がるエヒトクラング架空説。いや、そんな筈はない。大成警備保障の人たちや、これまで関わったピアニストたちは確かに蔵野江仁の存在を前提に話しているではないか。いや、もしかしたらサイコホラー映画などで見かける、架空の人物が存在しているかのように思わせるギミックによって、実在すると錯覚しているのか……。

 とその時、誰かに背中をトントンと叩かれた。振り向くと、そこには先だってプラネタリウムで見かけた謎のレゲエおばちゃんがいた。

「あ……おひさしぶりです……」

 さやかはとりあえず会釈したが、レゲエおばちゃんは〝こっちへ来なさい〟と合図をして踵を返した。あれよという間に店を出てしまったので、さやかは慌ててついて行く。まるで尾行する刑事のように、さやかは彼女と少し距離を置いて歩いた。意識してそうしたわけではない。レゲエおばちゃんの歩くペースが体格に似合わずに早く、ついて行くのがやっとだったのだ。しかも、人混みを上手にすり抜けて行くので、うっかりすると見失いそうだった。やがてレゲエおばちゃんは全国チェーンの牛丼屋の前で足を止め、その店内を指差した。見ると、蔵野が席に座って牛丼と思しきものを食べているのか目に入った。

「あ、ありがとうございますっ!」

 と礼を述べようとすると、レゲエおばちゃんの姿は見当たらなかった。さやかはしばらくあたりを見渡した後、牛丼屋の入口の扉を開いた。

「いらっしゃいませー!」

 威勢のいい店員の掛け声に促されるように、さやかは蔵野の側に歩み寄って行った。

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