3-8 起死回生の翼

 さやかは少しガッカリした。確かに蔵野はこれまで成功に導いてきた。しかし……

「お勧めして頂いてこんなことを言うのは恐縮なんですが……ハッキリ言ってあの人はペテン師ですっ。人にはあれこれ指図するくせに、自分は指一本動かそうとしない。依頼してどう転ぶかは当たるも八卦当たらぬも八卦で、あまりアテに出来ませんっ」

「ペテン師ですか……そうかもしれませんね」

 これは友達に聞いた話なんですけど、とマイは断りを入れて話す。

「そのむかし、デュッセルドルフで蔵野に調律を依頼した人がいたんですけど、行ってみたら電子ピアノだったそうです。普通なら『電子ピアノには調律は不要ですよ』と言って帰るところを、あの人は一時間ほど適当にネジを回して、ちゃっかり調律料金を請求したらしいです」

「うわ最低……でも、そんな人だとわかっていながら、なぜマイさんは蔵野さんを薦めるんですか?」

「……ちゃんと説明が必要ですよね。さっきの鶴見さん、ルイジ・ベルガミーニにダメ出しして、実質失脚させました。でもその後、欧米で表舞台に復帰したのはご存知ですか?」

「ええ、そう聞いています。詳しいことはわかりませんが……」

「起死回生のきっかけとなったのは、デュッセルドルフ・トーンハレでのリサイタルでした。そのピアノの調整にあたったのが蔵野江仁だったんです」

「そうだったんですか! それに今回もあやかろうと言うわけですね」

「はい。でも、ただの縁起担ぎではありません」

 これも友達から聞いた話なんですけど、とマイは再び断りを入れる。「蔵野はベルガミーニ日本公演の失敗の原因を自分なりに探っていたようです。そして、どうやら敗因は使用したピアノにあるという結論に達しました」

「ピアノが敗因……」

「あの時使用されたのは、慶智ホールのスタインウェイD型。もちろん楽器としては最高級です。でも当時、スタインウェイの正規ディーラーによるメンテナンス料金はとても高く、予算のなかった慶智大学は、定期メンテナンスを入札によって最も安価な業者に委託していました。ところがその業者は整音(ピアノのハンマーに針を刺したりして弾力を整え音作りをすること)が苦手で、ハンマーは硬くなる一方でした」

「ハンマーが硬くなるとどうなるんですか?」

「音色が乏しくなります。たとえばフルカラーで見ると素敵な画像も、16色に減色したりするとその良さが損なわれますよね。同じように多彩な音色を持つピアニストでも、硬化したハンマーで弾けば、音色は単調になり演奏の良さは損なわれてしまうのです」

「でも、慶智ホールでは他にも様々なピアニストがコンサートを行なっていましたが、なぜベルガミーニ氏だけが問題になったのでしょうか?」

「他のピアニストは、さほどタッチが強くなかったので、少なくとも耳障みみざわりではありませんでした。それに対してベルガミーニはタッチが強く、比較的豊かな音量の中で音色を作り上げるタイプでした。でも慶智ホールではその多彩さは発揮できませんでした。豊かに響かせようとすると、やかましく鳴ってしまったのです」

 さやかはベルガミーニの自宅で聴いたシューベルトを思い出した。あのバリトン歌手が腹の底から声を響かせたような音色……あれがギャンギャンとうるさい音になってしまっては確かに演奏は台無しだ。

「それで蔵野さんは、デュッセルドルフでベルガミーニ氏の音色が生きる音作りをしたというわけですね」

「はい。おかげでベルガミーニは自分の持てるものを遺憾なく発揮できて、コンサートを成功させることが出来ました。……私も、蔵野江仁の人となりについては大いに疑問があります。でも、あのデュッセルドルフ・トーンハレでの仕事……あのような仕事が出来るのは、蔵野江仁をおいて他にはいないと思っています。グレイス・ニューイェンは師であるベルガミーニと同じ傾向を持っていると思います。だから、彼女の多彩さが生きる音作りを蔵野江仁にしてもらえれば……きっと鶴見さんからも好評を引き出すことが出来ると思うのです」

 なるほど……とさやかは納得する。しかし、またあの蔵野と関わると思うと、さやかは憂鬱ゆううつな気持ちになる。

「あと……」

 マイは最後に付け加えた。「私が推薦したこと、どうか蔵野には言わないで下さい。お願いします」

 そしてマイは席を立ち、頭を下げた。

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