3-7 色眼鏡

 やがて車は歌舞伎町に入り、店まで歩いても苦にならない程度のところで停まった。鶴見氏は先頭に立って入店する。スタッフの対応から察するに、一見いちげんさんではないようだ。さやかはキャバクラと言うからけばけばしい内装を想像していたが、入って見ると意外に落ち着いた雰囲気で、風俗営業店というよりは銀座の高級クラブを思わせた。店の中央にはグランドピアノが置いてある。弾いている女性は音大生のアルバイトだろうか、なかなかの腕前だった。

 周りをみれば、ホステスにいちゃつこうとする酔っ払い男性が所々見受けられる。ところが鶴見氏はオン・ザ・ロックをちびちびやりながら、黒田の持ちかける世間話に相槌を打っている。なぜこの店を指定したのだろうかとさやかが思ったら、鶴見氏は何かメモ書きをしてホステスに渡した。ホステスはそれをピアノの譜面台におき、それを見たピアニストは弾き始めた。多分リクエストだろう。通常このような店で演奏されるのは歌謡曲やポップスをアレンジしたものだが、何と鶴見氏がリクエストしたのはショパンのバラード4番だった。

 こんな難しい曲……と思ったさやかだったが、ピアニストは水を得た魚のように生き生きと弾き出した。おまけにインテンポでミスタッチもない。

(すごい……何なんだろう、この人)

 ところがピアノは会話の邪魔にならないための配慮か、あまり鳴らない調整になっていてピアニッシモの部分などは酔客たちの喧騒に埋もれてしまう。耳を傾ける者はごくわずか、演奏が終わるとパラッパラッと拍手があったが、ほとんどの酔客は自分たちのおしゃべりに夢中だ。その時、鶴見氏がさやかに尋ねた。

「矢木さんは、今の彼女の演奏を聴いてどう思いましたか?」

「え……」

 まさか音楽評論家の重鎮の前で感想を求められるとは思わなかった。大・大・大緊張……。

「ええと、その、なかなか上手な演奏だったと思います」

 すると何が可笑しいのか、鶴見氏はフフッと笑う。「あの、私、変なこと言いましたでしょうか?」

 すると鶴見氏はさやかの目を見つめて言った。

「いいえ、とても率直なご感想だと思います。……でも矢木さん、あなたはアルゲリッチや内田光子の演奏を聴いても同じ感想を述べられますか?」

「ええと、その……」

 さすがに辛口評論家・鶴見惣五郎の指摘は鋭い。そんな大演奏会をつかまえて「なかなか上手でした」などと言えば失礼なだけではなく、言った本人が教養を疑われて恥を見る。シュンとなるさやかに、鶴見氏は優しい口調で話した。

「あなたの評価にはキャバクラのピアノ弾き、大演奏家という色眼鏡がある。いえ、責めているわけではありませんよ、一般の聴衆はみなそうです。でも、私の仕事はそう言った色眼鏡を取り除いて客観的な評価を下すことなのです。もし私がさっきのバラード4番の評論を書けば、きっとここにいたみんながちゃんと演奏を聴いていなかったことを悔やむことでしょう。彼女はアルゲリッチの領域に達しているとは言えないまでも、少なくとも第一線で活躍しているピアニストと同じレベルの評価を受けるに値すると、私は思っています」

 黒田もさやかも返す言葉がなかった。まるで宿題を忘れて先生に叱られる小学生のように項垂れていた。

「矢木さん。今日ここに来ていただいたのは、そのことをあなたに分かっていただきたいと思ったからです。今日のところはあなたがたの顔を立ててご馳走になりますが、評論家の目に色眼鏡をかけるようなことは、金輪際なさいますな。ではグレイス・ニューイェンの演奏、楽しみにしていますよ」

 そう言って鶴見氏は席を立ち、帰ってしまった。ハイヤーで送るという黒田の申し出も、夜風に当たって酔を冷ましたいと断られた。


「やっぱり鶴見さんが正しいですよ。私たちが少し浅はかでした」

 さやかが言うと、黒田は頭を抱えた。

「だけど、交渉としては敗北だな。このまま帰ったら副社長にどやされるぞ……」

 と、すっかり落ち込んでいるところに、先ほどのピアニストがやって来た。

「あの……堂島エージェンシーの矢木さんですよね?」

「え……はい、そうですけど」

「私、ここでピアノを弾いていると申します。すみません、あなたがたのお話を横で聞いていて、もしかしたらお役に立てるかと……」

 さやかと黒田は互いに顔を見合わせた。これは渡りに船だろうか。

「本当ですか! 何か秘策があるんですか!」

「秘策というか、鶴見さんから好評を引き出すヒントになるかもしれません……」

 マイは少し躊躇いがちに話す。一体どんな話なのか。黒田が少し苛立ち気味に急かした。

「マイさん、そんなにもったいぶらないで話して下さいよ」

「わかりました。……矢木さんは以前、蔵野江仁という調律師の仲介をなさったそうですね?」

「ええ、でもどうしてそれを?」

 さやかの疑問には答えず、マイが思い切ったように言った。


「今度のピアノの調律、蔵野江仁に依頼してみて下さい。彼が鶴見さんから好評を引き出す鍵を持っていると思います!」

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